2003.April

4月22日(火)
 歌舞伎座の一幕見で黙阿弥の明治物を見る。散切り頭の珍しい歌舞伎。イギリスの戯曲の翻案物というから、また珍しい。富十郎の軽妙な(悪く云えば、安っぽい悪ノリ)の芸に笑わされる。
 しかし、歌舞伎座の一幕見席には、安いだけあって、色んな客がいて、面白かったり、困ったり、頭に来たりする。「○×屋あ〜」とかけ声をかけるために毎晩来ている玄人さんから、来るつもりもないのに来てしまって始終ゴソゴソやったり甘栗喰ってるおじさんもいる。カップルもいる。ボクのように単に勉強のために来る貧乏演劇人もいる。不思議な空間なのだ。野球の外野スタンドのようだ。スゴイと思う。歌舞伎は本物の娯楽だなあ〜と感心する。安いということは凄いことなのだ。
 んでもって、勉強家の貧乏演劇人は、やはり感心するのであった。月も下旬なので、芸もずいぶんこなれていることもあるのだが、やっぱり「芸」だなあ〜と感心してしまうのだ。
 僕らは普段、心理的に演技しているので、「芸」という領域に目がいかないのだが、やはり演技も「芸」なのだ。
 「芸」で見せる。「芸」を磨く。こういう感覚もやはり役者にゃ大切。うちの芝居はそこが少ないと思うのだった。

4月21日(月)

 エマニュエル・レヴィナスの云う「顔」。記しておきたいこと。

「あたかも至近距離からの脅威にそれが曝されているかのように、死へと全面的に引き渡されたものとしてそれが現前するかのように、顔はまさに『面と向かうもの』なのです」
「顔においては、人間存在は最も裸であり、赤裸な困窮そのものです。と同時に、それは顔を向ける。顔がまったく独りで向き合うその仕方に即して、死のなかでふるわれる暴力は測られるのです」
「顔は私を見つめ、私に呼びかける。顔は私を呼び求める。顔は私に何を要求するのでしょうか。顔を独り置き去りにしないこと。応答は「われここに」です」
「他者の表明されざる要求に、顔の表出に、顔が死ぬということに、顔における「汝、殺すことなかれ」に応答するために、他者に全面的に自分を与えることである。

パスカル曰く「私とは憎むべきものである」

ラシーヌのフェードルの台詞「そして死は、私の眼から光を奪い取り、眼によって汚された陽光にその純粋さを返す」

 忘れていたこと。忘れていたまなざし。すぐ近くにもあり、忘れたまま置き去りにしていた、まなざし。
 コベントガーデンで、白塗りをしたこちらの顔を見た少女。顔の筋肉を緊張させて、さっと広げる。パッと広がる少女の笑い。まなざしの確かさと不均衡さ。綱渡り。笑いの向こう側の死(の不安)。「いないないばあ」

 性欲と距離を置いた愛。自我を囲まないポジション。開かれたポジションへの身体的なたくらみ(スキーミング)。存在への喜び。

4月1日(火)

 九段下へ、昼休みを利用して、会社の友人たちと桜を見に行く。江戸の桜。ニホンの桜。まだ散る前の、奇跡的のような桜。風もなく、うすら青い空を背景に、春が冷たく燃え上がっていました。

*   *   *

 「リア」を訳ししつつ、上演台本をシコシコと作っているので、その余波で、翻訳日記となる。
 一応、新しい順位に、松岡訳(ちくま文庫)、小田島訳(白水社)、福田訳(新潮文庫)と並べて、参考にしつつ、原典に当たっているのですが、今さらながら、小田島サンの仕事の意義の大きさに感嘆してしまう。
 ただし、本当に充分な訳というものは、ないなあ〜ともあらためて思う。
 本として読んだだけもわかるようにという配慮か、あるいは、学会や専門家や同業者への意識からか、シェークスピアの詩的な部分を、解読し、説明しすぎているようだ。
 たとえば、「リア」の冒頭、1幕1場のこんなセリフ――

KING LEAR Out of my sight!

KENT See better, Lear; and let me still remain
 The true blank of thine eye. 

 どこもかしこもシェークスピアは訳すのは難しいのだが、ここでは特にケントのセリフが難しい。(ちなみに thine は、you の古い形の所有格で、「あなたの」の意。)では、訳をざっと古い順に。
 まずは福田訳――

リア 退(さが)れ、目障りだ!

ケント いえ、更にお目に留めて頂きましょう、常にこの私をその瞳の唯中にお据置き下さいまし。

 次に小田島訳――

リア ええい、わしの目の届かぬところに失せろ!

ケント いえ、リアの目の中心に私をとどめ、もっとよくごらんになるのです。

 さらに松岡訳――

リア 失せろ、目障りだ!

ケント リア、私から目を逸らさず、私を通してもっとよく見るのです。

 3者3様である。
 やはり問題は、let me still remain/The true blank of thine eye だ。remain は普通、自動詞なので、remain/The true blank の間に前置詞がないのが、現代文法的には破格なのだろう。そこから、「もっとよく見る」というニュアンスを引き出したのは、小田島サンで、松岡サンもそれに従って、さらに「私を通して」という一言を付け加えることで、「(世界を)もっとよく見る」あるは、「(真実を)もっとよく見る」という風に、対象を明確にしている感じだ。福田サンのはそこらへんがぜんぜん違う意味になっている。いずれにしても、訳文の中に、訳者の考えや思想が反映され、それを説明しているのがわかる。
 true blank というのは、目の穴、眼孔ということで、さらに敷衍すると、フシアナということになるだろう。そこで、3者のものを踏まえつつ、よりシンプルに、直訳的に、こんなふうに僕は訳した。

リア 出てゆけ! わしの視界から!

ケント もっとよく見るのです。私を通して、
 あなたご自身の盲目を!

 つまりSee better the true blank of thine eye というつながりである。これもひとつの解釈とも言えなくはないが、実際の声として、そうとも響くだろうという程度の直訳のつもりだ。
 ボクのシェークスピアの先生である、デヴィッド・ゴサード氏のワークショップでも、翻訳は大きい問題となった。その時、彼が云ってたことは「詩人の訳したものを使いましょう」ということ。もちろん、僕は詩人ではないが、最近すこしだけ面白みがわかってきた俳句などの感性からすると、余分な説明や解釈はいらない、言葉は短く、訳文はなるべく直訳がよいということ。写生文の精神なのではないかと思っている。
 そんなふうにしながら、一歩一歩、楽しみつつ仕事を進めている。

もっとよく見るのです。私を通して、あなたご自身の盲目を!

 「見ること」また「見えないこと」は、まさに「リア」という物語の中心テーマなのだ。

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