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九段下へ、昼休みを利用して、会社の友人たちと桜を見に行く。江戸の桜。ニホンの桜。まだ散る前の、奇跡的のような桜。風もなく、うすら青い空を背景に、春が冷たく燃え上がっていました。
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「リア」を訳ししつつ、上演台本をシコシコと作っているので、その余波で、翻訳日記となる。
一応、新しい順位に、松岡訳(ちくま文庫)、小田島訳(白水社)、福田訳(新潮文庫)と並べて、参考にしつつ、原典に当たっているのですが、今さらながら、小田島サンの仕事の意義の大きさに感嘆してしまう。
ただし、本当に充分な訳というものは、ないなあ〜ともあらためて思う。
本として読んだだけもわかるようにという配慮か、あるいは、学会や専門家や同業者への意識からか、シェークスピアの詩的な部分を、解読し、説明しすぎているようだ。
たとえば、「リア」の冒頭、1幕1場のこんなセリフ――
KING LEAR Out of my sight!
KENT See better, Lear; and let me still remain
The true blank of thine eye.
どこもかしこもシェークスピアは訳すのは難しいのだが、ここでは特にケントのセリフが難しい。(ちなみに thine は、you
の古い形の所有格で、「あなたの」の意。)では、訳をざっと古い順に。
まずは福田訳――
リア 退(さが)れ、目障りだ!
ケント いえ、更にお目に留めて頂きましょう、常にこの私をその瞳の唯中にお据置き下さいまし。
次に小田島訳――
リア ええい、わしの目の届かぬところに失せろ!
ケント いえ、リアの目の中心に私をとどめ、もっとよくごらんになるのです。
さらに松岡訳――
リア 失せろ、目障りだ!
ケント リア、私から目を逸らさず、私を通してもっとよく見るのです。
3者3様である。
やはり問題は、let me still remain/The true blank of thine eye だ。remain
は普通、自動詞なので、remain/The true blank の間に前置詞がないのが、現代文法的には破格なのだろう。そこから、「もっとよく見る」というニュアンスを引き出したのは、小田島サンで、松岡サンもそれに従って、さらに「私を通して」という一言を付け加えることで、「(世界を)もっとよく見る」あるは、「(真実を)もっとよく見る」という風に、対象を明確にしている感じだ。福田サンのはそこらへんがぜんぜん違う意味になっている。いずれにしても、訳文の中に、訳者の考えや思想が反映され、それを説明しているのがわかる。
true blank というのは、目の穴、眼孔ということで、さらに敷衍すると、フシアナということになるだろう。そこで、3者のものを踏まえつつ、よりシンプルに、直訳的に、こんなふうに僕は訳した。
リア 出てゆけ! わしの視界から!
ケント もっとよく見るのです。私を通して、
あなたご自身の盲目を!
つまりSee better the true blank of thine eye というつながりである。これもひとつの解釈とも言えなくはないが、実際の声として、そうとも響くだろうという程度の直訳のつもりだ。
ボクのシェークスピアの先生である、デヴィッド・ゴサード氏のワークショップでも、翻訳は大きい問題となった。その時、彼が云ってたことは「詩人の訳したものを使いましょう」ということ。もちろん、僕は詩人ではないが、最近すこしだけ面白みがわかってきた俳句などの感性からすると、余分な説明や解釈はいらない、言葉は短く、訳文はなるべく直訳がよいということ。写生文の精神なのではないかと思っている。
そんなふうにしながら、一歩一歩、楽しみつつ仕事を進めている。
もっとよく見るのです。私を通して、あなたご自身の盲目を!
「見ること」また「見えないこと」は、まさに「リア」という物語の中心テーマなのだ。
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