2002.November

11月29日(きん)

 今日、恐ろしいことが2つあった。
 なんてこった、11月も終わりだというのに。よくよく考えるに、少なくともそのうちの1つは現在、芥川にのめり込んでいるせいであろうと思う。

 労働で、ネットを検索しまくることがあって、たまたま、携帯電話の電磁波の記事のページがあった。携帯の機種ごとに、通話中に脳が電磁波をどれだけ受けるかという吸収率(SAR値)が発表されていて、僕の、先々月に変えたばかりの機種は、既存の機種のものでは最悪のものだった。
 気になる方はこちらをどうぞ。
 ふだんは、そういうことにもあまり神経にはこないのだが、今回はちょっと、あせった。
 電磁波の身体への影響はまだ、通念としてハッキリとしたことは、わかっていない。しかし、多くの統計は、病気との間の因果関係を暗示している。少なくとも、コンピュータの仕事を始めて、僕の視力はガタガタに下がってしまった。日々、視神経の疲労ははなはだしい。

 眼がとても疲れるので、労働後、家に帰ってなにもない時は、たいてい9〜10時の間にベッドでうつら〜うつら〜としてしまう。ビールでも飲むともうダメだ。小犬(子犬ではない、もうお爺さん)のデシュラもベッドで僕と遊ぶことを求めている。僕は、やるべき仕事(労働ではない)もあって、家でもコンピュータに向かうのだが、ついつい、ベッドへとなだれ込み、デシュラとじゃれていると、うつら〜うつら〜してしまう。
 そうして、今夜は、こんなのここ数年なかった久し振りというくらいの、おっかない夢を見て、目が覚めたのだった。

それはもう夢の最後の方だった。そこは、夜、実家のリビングのようで、僕は、僕が実家で暮らしていた時の年齢で、一人で、遊んでいた。
あたりは、うす暗く、ぼんやりとした空気の中に、突然、燃えるヒトダマがあらわれた。それは狐火で、気がつくと大きな狐が、僕の右手の何か気がかりな方向を向いて、目の前にいて、燃えていた。それは、娘を失って悲しむ母親の魂だった。
僕は気の毒に思って、仏具の(実家には仏壇などなかったのだが)、チーンと鳴らす奴を、わからぬままに彼女に渡そうとした。不手際に、おろおろしながら、それでも真綿のくるまれた棒を渡すと、ポワ〜ンとした小さな音がして、えもいわれぬ安堵の響きが背中に走った。慈悲の奇跡とはこんなに感性的なものなのかと僕は秘かに驚いた。
しかし、死んだ娘の方の魂は、のたうつように先ほどから部屋を、火花を散らしながら、空気中を飛び回っていて、僕は驚いて、左手の、母狐の背の方を見ると、ボッと空中に炎が燃え上がる。
あっと思って、そちらに向かって近づくと、背中に火が飛び火したようす。え――。
(そうだった、僕は、背中にデシュラをおぶっていたのだった。それから、左手にも、大切な何か抱えていたが思い出せない)
見ると、火は、デシュラの小さな顔に燃え移っていた。丸い黒い目元から、三角の耳にかけて、赤い火が……。僕の手は必死で、素手でそれを揉み消そうとするのだが……
消し切る前に、目を覚ましてしまった。

 まったく、どこからこんな話がやってきたのか、僕は目を覚ました後で、ぼうんやりと、またぐったりとしながら考え、デシュラののほほんと眠っている様子を確認して、少しだけホッとした――。

 芥川の「追想」という、細切れのエッセイには、子供時分に内面化していた幽霊や怪談の文章があって、それをたまたま眠る前に読んだせいなのは分かっているのだが、そこにはお稲荷さんの話などはなかった。
 あの狐はどこからやってきたのか、わからない。

 僕のベッドのふとんの上で、自分のタオルにくるまっているデシュラだが、たとえ、僕が身動き一つしなくても、息づかいなのか、なんなのか、目を覚ましていると、すぐにそれと察して、顔までやってくる。ポカンとしたような、不安なような目でこちらをのぞき込んだ。
 僕は、その小さな顔を撫で回して、目ヤニをとってやった――。

 芥川は、別段、霊感とういうようなものが強い人ではなかったと思う。彼の見た、幽霊や、幻聴やらは、すべて理知的な想像力の産物だったと思う。外部からのメッセージではなく、内的世界の闇=病みといおうか。
 しかし、それは、だといって、とても平常なものとは言われぬもので、無気味に夢と現実、狂気への越境を意味する、過敏な神経の所産だったのだ。

 ただ、ぼんやりとした不安。

 僕のは、また、それとは違う、しみじみと、子を想う母の心配、というような強い心の力、危うくもあり、それでもやはり心の力でもあるような超能力を実感しつつ、想像できる気がしたのだった。

11月27日(すい)

 おとといの日記で、ふるさとへの贔屓心について語ったせいか、今日の新聞では、こんな記事が気になった。

「合併しない宣言」をした福島県矢祭町の根本良一町長ら全国の5町村長が27日、東京都内で会見し、合併によらない町・村づくりの道を考える「小さくても輝く自治体フォーラム」を、来年2月22、23日に長野県栄村で開くと発表した。(毎日新聞)

 つまり、現在、猫も杓子もの市町村合併に反対なのだ。
 矢祭町いがいの町村は以下の通り――

北海道ニセコ町の逢坂誠二町長
群馬県上野村の黒沢丈夫村長
福岡県大木町の石川隆文町長
長野県栄村の高橋彦芳村長

 で、矢祭町のホームページに出掛けて驚いた。
 カウンタが300万を超えている!
 無理もない、この町は、市町村合併について、町議会で全会一致で反対しているほかに、住基ネットすら導入していないのである。
 あらゆる国家主導の政策に、断固として振り回されないぞ、という気魄があるのだ。

 しかし、僕には、残念ながら、市町村合併について、いつものように「こっちだ」という偏った意見を持つことができないでいる。勉強不足なのだ。
 もちろん、今は便利だから、ネットを操れば、さまざまな貴重な意見を採集することができる。
 けれど、こういう国家の政策がどこからやってきたのかは、省庁の内側の秘密なので、なかなか分からないようになっているのが現状だ。
 いつだって、公の文書は、ウワッツラばっかりだ。
 しかし、これはけっこう大きな問題だという気がする。

 ダムに沈んだ町がたくさんあるように。

 化石になって、数万年後も足跡を地球に残すには、一つだけ条件があるらしい。化石になれるのは、繁栄した種だけだということだ。
 (それでも、お前は化石になりたいのか?)
 (だから、お前は化石になりたいのか?)

 故郷を愛する心と、国を愛する心は、なかなか一致しない。
「外国の敵」という概念が降ってわいてこない限り、スポーツでも、外交でも、北朝鮮問題でも、なかなか日常では、人は「国家を愛する」などという気にはならないものである。
 それは、故郷を愛する気持ちの、拡大された投影イメージのようなものに過ぎないのだ。
 自分の生が育まれ、基盤となった土地の記憶、というものは、これは具体的で、本物で、それはごく少数の人にしか分からないマイナーな名前を持っているものだが、それを国家にまで拡大することは、概念の悪しき抽象化というものだ。そちらには実体はないのだから、騙されてはいけない、と思う。

*   *   *

「今日のトンデモない表現」

●同報道官は懇談の中で、ブッシュ大統領がイラク問題を首脳会議の中心議題にしようとする姿勢を批判した際、大統領を「moron」(まぬけ、愚か者などの意)と呼んだという。(11.27 毎日新聞)

「快哉!」と言いたいくらいだ、ボクなら。
 しかし、このカナダの報道官は、この「MORON」発言のために、周囲の罵倒に合って、報道官の職を辞職している。辞職したから(せめて)ニュースになったようなもんだ。
 学ぶべきは、国家的な事業に取り組んでいる人物は、このように、個人的な意見や感想などというものを言うことは不可能に近いというコト。つまり、嘘しか言わないというコト。ましてや、真実が報道されるコトなどありえないということ。
 そんなことがあるとすれば、彼らは自分の地位を失う覚悟が必要だ、ということで、もちろん、そんなことができる人間が、そんな「登り詰めるような地位」にいるわけがないのだ。

●浄土真宗十派の1つ、真宗興正派(本山・興正寺、京都市下京区)の華園真暢(はなぞの・しんちょう)門主(45)の長女沙弥香さん(9)が26日、得度した。(11.27 朝日新聞)

 これは、不思議なニュースだった。
 意味がわからない。「得度」とか「門主」とかいう言葉の意味がわからないだけではなく、ニュースになる意義がわからない。???
 この、真宗興正派というのは、かなり大きな宗派のようで、条例なんかあるらしい。それで、その「首長」に9歳の女の子が任命された、ということらしいのだが。
 まあ、そういうことだ。
 う〜ん、世の中わからないことが多い。

●じっとしているよりも、何かできることがあればという気持ちで東京に来た。(11.27 朝日新聞)

 曽我さんの発言。
 しかし、曽我さんに「何ができるのだろう?」
 曽我さんのために。
 国家のためにではなく。
 われわれは何のために生きているのか?
 「私」の幸せのため、ではないか。
 そうであろう。
 それを否定する人はいないと思う。
 では、曽我さんに「何ができるのだろう?」
 曽我さんのために。

 五人の「日本人」が帰ってきて、彼らの発言や行動について、いろいろ報道されているけれど、「彼らから何かを教えてもらった」という報道はついぞない。たとえば、「北朝鮮(共和国)はこんな国なんだよ」とか、「こんな町に住んでたんだよ」とか、「こんな友だちがいたんだよ」とか。
 言いたいことだってたくさんあるだろうに!

 ない、ない、ない、ない、ないばっかりの文章!
 最悪の日記!

11月25日(月)

 日記を書いていると、カラムを強いては書かなくなった。といっても、この日記も頻繁なわけではない。が、しかし、つまりは、どちらか、と云うようだ。

 芥川の妻であった、芥川文のインタヴューをまとめた「追想 芥川龍之介」(中公文庫)を読んだ。文さんは、1900年生まれで、女学校を出てから芥川と結婚し、1927年に芥川が亡き者となって未亡人になったときは27才だった。そして、太平洋戦争後まで生きて、俳優の長男・比呂志と、音楽家の三男・也寸志を育てて(次男・多加志は戦死)、1968年の9月(というと、ボクが生まれた2か月後)に死去されている。
 淡々とした、記憶の中の事実だけを述べる語り口に、品位と教育と、時代と意地とを感じさせる。(「A・R」には、多く、この文さんの手記が引用されている)。
 芥川の晩年、神経と身体の衰弱に苦しむ芥川とともに生き、苦しみ、「お父さんが、死んでしまうような」恐怖に巻き込まれつつ、最後には、息をなくした夫に「お父さん、よかったですね」とささやく。「よかったですね」と。
 戦後、暗い記憶とともに空襲で焼けてしまった田端の家の跡を眺めて、抜けるような青空にホッとする。「あなたにこれを見せてあげたかった」と。

 意地を感じるのは、芥川の「女」について語るくだり。それもさりげなく。

「お父さん、よかったですね」という、文さんの、芥川への信頼が彼女をその後も生きさせたのだった。信頼、が。しんらい?

 世の中というものは、ほとんど知らない、いや、よくわからないコトがまったくもって多い。「自分」などという枠が知っている感情は、じつに世界の微々たるものなのだ。人のことは、やはりわからない。
 だから、せめて想像しよう。想像してみなければ、ダメだ。さしあたり、知っている身近なことから類推しながらでも――。
 芥川のいう「神経」と、「コモンセンス」と、文さんの「信頼」とを。
 それから、昭和2年の夏の暑さ、とか。

*   *   *

「今日のトンデモない表現」

●豚の精液は、牛より冷凍による劣化が激しい。(11.25 朝日新聞)
 しからば、人の精液は? ボクが死んだ後の世界でも、セックスなしに、冷凍精子からボクのふがいない息子や娘が生まれてくるような世界がくるのだろうか? 精子をムダにしたという、かつての少年の、オナニーへの罪悪感は今やいずこ?
「劣化」などという、損なわれた世界の言葉に、次の谷川俊太郎氏の詩の一節を補完したく思う。

 男の子のマーチ――
 おちんちんはとがってて
 月へゆくロケットそつくりだ
 とべとべおちんちん
 おにがめかくししてるまに

●パラオの海底に沈んでいた難破船から引き揚げたワインは絶妙の味だった。(11.25 朝日新聞)
 これはちょっと、ボクの郷土愛に引っ掛かる言葉。山梨の勝沼白ワインの話だ。だが、この表現だと、なんともパラオの海底でなければいけないような響きがあって、おかしい。しかも難破船だ。
 パラオ人の愛国心は、ちょうどふるさとへの、郷土への贔屓心と通じる。すると、ニホンと云う国家への何かなど、あまりに抽象的で、一気に霧散してしまうではないか。ヤッホー!

 教育基本法に、「愛国心」を盛るという意見に、賛成40数%、反対50数%――。
 ふるさとを守る、という時、ふるさとは、どこにあるのか?
 芥川の両国や、大川(隅田川)を語るまなざしには、もちろん、「母」へのねじれた思いがある。
「追想 芥川龍之介」の最後のくだり、芥川の出生に関して、文さんが曖昧に触れている事は衝撃的である。

11月24日(日)

 季節が変わる度ごとに、でかけていく場所がある。
 そこには、木があり、水があり、芝生があって、その上には空がある。
 季節ごとに、花が咲き、青葉がしげり、紅葉があって、風が吹いている。

 枯れた芝に寝転ぶ。
 空を見上げると、曇った空のところどころに光が映えている。低いところを、小さな雲の切れ端が流されていく。空には厚みがあり、深さがあり、ズレがある。
 高いところと、低いところでは風の吹く向きはちがう。幾層にも凝結した雲は重なって、乱流をはらんでせめぎ合い、光は乱反射している。雲は光を内側に抱えている。雲は暗くない。
 空を見ていると、視力が落ちたことが苦にならない。眼球の上を涙ですべるホコリが空に映る。ホコリは、焦点とともに移動し、消えることはない。人生についた傷のように。

 木々はますます黒く、冬への準備をもう半ば済ませたような顔をしている。赤いカエデ、オレンジ色のモミジ、ドウダンツツジ、サルスベリ、スギのなかまの巨木、メタセコイヤ、黒い緑の松、藤、藤の葉もうすい肌色に染まんだな。
 繊細な、鮮やかな葉には、一枚として同じ色がない。動かないまま、波のように動いている時間。ゆらめく風。冷たい空気。酸素の匂い。枯葉の匂い。土になる匂いがする。見えない虫の蠢き。

 灰色の、ごつごつとした幹に指先を触れる。
 冷たさと暖かさ。
 乾いた温もり。
 止まっている生命の動き。
 おののきと安らぎ。
 見上げると、枝枝の広がりが収縮を感じさせ、細い線の先には、オレンジ色に、葉がちらちらと風に光っていた――。

 もうすぐ、夕暮れだ。

 世界には、不完全なものなどないのだ。
 世界はどこも、完全性に満ちている。朽ちた枯葉は、無数に土の上に広がって、その一枚一枚が壊れ、破れ、こなごなになりながら、完全であるという顔で死んでいる。安らいでいる。微笑んでいさえする。
 人の思惑が、ものを不完全に見るのだ、とケージが言った。世界にはほんとうは、不完全なものなど一つもないのだ。

 なにが心に触れたのか、気持ちが沸き上がる。色がにじむ。言葉は追いつかない。走り出すことも、言葉にすることもままならないような、そんなところまで人生が進んでしまった。水の流れだけは途切れぬように。たとえ、それが孤独の闇の中を、夜の中を秘かに、人知れず流れるものであったとしても、途切れぬように、夢から、朝へ、と、つながっていけますように。

仕事の合間に → おまけの写真ページ その8
いま仕事でやってるジャポニカ学習帳のおまけの図鑑ページつくりの余波で。

これが噂のカシューナッツの実。
といっても、ナッツの部分は、下の灰色のところ。植物学的には、ここが果実。上の黄色いところはカシューアップル。いろいろな色があって、ここも食べられる。食べたことはないけどね。

11月17日(日)

 久し振りにパルマのゲームを見る。ACミランはやはり強いがパルマもがんばっている。とてもいい試合をしている。ミランの2得点はPKだった。もったいない。ナカタも常に右に張って、いい仕事をしていた。ナカタがボールを持つとやはり何かが起こるような気がしてくる。惜しいシュートもあったし。

 そういうワケで、ボクも「A・R」の読み込みに入る。
 初演のころの空気といっしょに、如月さんの思いが、あの当時にはわからなかったものが見えてくる。
 やはり、芥川は英雄なのだ。近代という時代が生み出した、苦悩する英雄。英雄のいちばんの敵(そして味方)は、庶民なのだ。大衆なのだ。
 10年前より、さらに、時代がこの脚本を求めている。映し出している。
 戦後、今ほど、大衆がバカになってしまった、時代はない。想像力を欠如させてしまった時代はない。
 英雄は一人、そういう時代と戦い、苦悩するのだ。

 だから、「A・R」という作品は、大衆という「生き物」を描く作品なのだ、と思う。大きな力に飲み込まれていってしまう、時代の怖さ、というようなものを、だ。
 どうすれば、それがハッキリと描けるか?
 それは、まだ、わからない。

仕事の合間に → おまけの写真ページ その7
いま仕事でやってるジャポニカ学習帳のおまけの図鑑ページつくりの余波で。

ボノボ。不思議なボノボ。
昔はチンパンジーの1種と思われていたが、今は別種と考えられている。ニンゲンにもっとも近いサル。特に、その性行動はすごい。生殖のためでない性行為が大好きなのだ。子どもはいつもオチンチンをいじっているし、物心つくとさっそくオナニー。メス同士で抱き合って、あそこをこすり合わせるわ、オス同士はお尻をこすり合わせるわ。
スキンシップというものが、ボクらにとって、とっても本質的なことだということを教えてくれる。ボノボ。

11月14日(木)

 世界が動いている。
 北朝鮮が生物化学兵器まで開発していたらしい噂……。
 イラクが国連の査察を無条件に受け入れた……。
 アメリカ軍が日本海で突然の不可解なる爆破訓練……。
 そして、ビン・ラディンらしき声明……。

 アメリカによるイラクへの攻撃、という事態を前にして、今世界は大きな緊張感の中にいることがわかる。アメリカとイギリス以外は、それはやり過ぎだ、無謀だと思っているのだが、直接はだれも止められない。大きな不況が世界を覆っているからだ。

 今後、日々刻々と状況は進展してゆくだろう。個人的に誰が死のうがおかまいなしに。どこの家族が引き離されようとおかまいなしに。国家は突き進んでゆき、国民は飲み込まれてゆく。

〈始まるんだよ。新たな枠組み、奇怪な論理、誰も考えつかないような、激しい時代が〉
冗談じゃない! よしてくれ! 放っといてくれ! 俺にかまうな!
〈そうはいかない〉
歯車だ! 歯車が回っているんだ! 巨大な巨大な歯車が、今、この下で!
(『A・R-芥川龍之介素描-』より)

 芥川が自殺した1927年当時よりも、一巡りして、歯車はさらに巨大になっている。それは、そこに(ここに)核兵器が存在しているから。世界に。次に、一発、発射されれば、人々の理性はふっとんで、一気に世界が終わってしまう。これは現実なのだ。

 *北朝鮮に暮らし、母親の帰りを待っている、曽我さんの家族のインタヴューが「週刊金曜日」に載った。その要旨が朝日新聞に出ている。>>>ここ

11月13日(水)

 朝日新聞の夕刊に載っていた、大江健三郎氏の書簡記事の、手紙の相手のジョナサン・シェル氏の言葉より――

「北朝鮮は秘密のうちに核兵器製造の新計画に着手していました。すでに核兵器を保有しているかもしれません」

 北朝鮮といえば、昨今はすぐに「拉致」の話だが、この核兵器についての問題はあまりに軽視されすぎていないだろうか?
 なぜ、アメリカは北朝鮮より、イラクなのか?
 すなわち、すでに開発してしまった場合は、うかつに攻撃できないからだ(このことは、ジョナサン・シェル氏が言及している)。
 もちろん、イラクの方が(攻撃した場合の)経済的な利益が大きいという問題もあるだろうが。
 昨今の「拉致」騒動については、心情的はわかる。が、しかし、それよりも今は北朝鮮とまともな国交を結ぶことがなにより急務ではないか?

 一昨日の夕刊には、さらに、保坂正康氏(ノンフィクション作家)のコラムがあった。そこには中国人の王さんの、日本人による強制連行の拉致体験を取材した描写があった。

「1944年1月、ハルビン郊外の一農民であった王さんは、新京(現・長春)の親戚を訪ねた帰りに駅頭で日本の憲兵に連行された――」

 同じ日の夕刊の大江さんの手紙にはこうある。

「(北朝鮮にに対しての日本による)近い歴史があたえた痛苦、さらに近い現実である『拉致』の痛苦を――「相殺」しようなどというのでなく――悲しみ苦しむ者としてともに担いながらの話し合いは、これまでにない新しい展開をきざみうるものではないか?」

 アメリカがイラクに対して躍起になることに、日本のメディアはかなり冷めた目で見ることができるようだ。イラクの人々にも、平穏な日常とまっとうな暮らしがあるのだと。こぞって、アメリカの強権を批判できる「客観性」を発揮できている。
 しかし、コトが自分のことにかかわるとカラキシ想像力が萎えてしまうようだ。
 つまり(ボクが思うのは)、北朝鮮の人々にだって、平穏な日常とまっとうな暮らしがあるのだ、ということだ。蓮池夫妻だって、地村夫妻だって、曽我さんにだって、向こうでの「まっとうな」生活があったのだ。子供が待っているのだ。それを全面的に否定するのはおかしいと思うのだ。

 蓮池さんが「(北朝鮮の印象が)少し変わった」と話した。

 こんなコトを連日のように報道するメディアもおかしいと思うのだ。つまり、日本的な価値観に彼ら(拉致被害者)がどれだけ「洗脳」されたかを、全国民に向かって嬉々として報告している、と、そういう構図でかないか。まるで、今の状況は、国家と国民とがこぞって、彼らを「逆拉致」しているようなものじゃないか。

 もちろん、拉致被害者の親族や友人にとっては、再会できたことは、奇跡のように素晴らしいことであろう。信じられないような、喜びがあったのだろう、と思う。
 が、しかし、北朝鮮にだって、近所づき合いがあり、世間体があり、伝統だってあり、つまりは生活があるのだ。そこを想像しなくてはならない。

 「夢の中から責任が始まる」

 と、『海辺のカフカ』の中で、村上さんがイェーツから引用していた言葉の意味はそういうことではないのか? 想像力の欠如は悲惨しかもたらさない。
 言いことは、つまり、そういうことだ。
 今のニホンは、完璧にはマトモじゃないってこと。ニホンの中にいると見えなくなっているが、ニホンとは違う(またアメリカとも違う)世界が、地球上にはたくさんあるのだということ。そこを想像できなくなっている。
 こんな資本主義社会がマトモだんなんて、みんな本気で思っているらしい、そう思うとゾッとしてしまう。

仕事の合間に → おまけの写真ページ その6
いま仕事でやってるジャポニカ学習帳のおまけの図鑑ページつくりの余波で。

これがスローロリス。ロリスというサルのなかま。
タヌキではない。リスでもない。サルなのだ。

11月11日(月)

 やっと読み終える。『海辺のカフカ』。悪くない読後感。
 ベッドで本を開き、最後はほとんど1章ずつ、眠っては読み、また読んでは眠る。夢の中で、物語(の枠組み)を続きを追っている。

 批評的なコトはいくらでも言える。しかし、悪くない。
 これは、でも、大人のための寓話だと思う。オープニングの「宣誓」に反して。それがボクの捉えた感想。

 面白くないところもたくさんある。偽善的だと思えるところもある。深くないところも、都合が良すぎるところも、追求しきれなかったところも、ある。あるが、まあ、村上さんが書きたかったことは「わかる」。特に地方出身の男の子だったボクには「わかる」なあ〜。

『ノルウェーの森』と素材は同じ。純愛が、母子という「仮説」によって、15才の少年の青春冒険小説になっているのだ。夢の中で紡がれる、シュールリアリスティックな構造を持っているだけだ。だから、結局は主題も同じだ。(人によって好き嫌いはあるだろうな)とも思う。

「ここを過ぎてしまえばもう二度と彼女と会うことはできないんだ」

 村上さん独特の追憶の情感が迫ってくる。
 直子は佐伯さんで、時間の中で死んでしまった女で、永遠に美しく、いつまでも若くて年を取らない、そして決して手にすることができない。つまり、それが少年にとっての「母親」となるのだが、しかし、今度は「僕」はなんとか切実にそれを手にしようと試みる。
 第31章はとりわけ美しい。

 それからなんと言っても、ホシノくんだ。
 彼をめぐる物語は、そのピークとなる第34章の喫茶店こそが、もっともエティカルに正しくて、もっとも文学的に美しいところ。自伝を超える、客観の境地。それは、その後も続く。

 しかし、もちろん、こんなものは全体的には感傷的すぎる、感想に過ぎないのだ。良い部分も、不手際な部分も、すべてさらけ出している仕事。

仕事の合間に → おまけの写真ページ その5
いま仕事でやってるジャポニカ学習帳のおまけの図鑑ページつくりの余波で。

ガラパゴス諸島のウミイグアナ。海を泳ぐイグアナの顔のアップ!
かっこいい。ある種の知性を感じないだろうか?

11月4日(月)

 風邪を引いてしまった。ノド風邪から、今は鼻風邪に移行してきたが、花粉症の時期と同じで、頭が冴えない。いつも冴えない。
 加えて、家中の芝居資料を整理した、数年ぶりの作業で、たまった埃に鼻をやられた。ティッシュが山のように積み上がる。

「海辺のカフカ」が継続される。一応〈上巻〉を終える。終えるのに、4日かかる。今日、調布のパルコで〈下巻〉を買う。ほかに面白そうな本はない。図書館にはあるのだが。
 図書館では、高村の披露宴で、真胡さんがやる(のだろうか?)朗読のネタを探す。探しながら、すぐにロルカが浮かぶ。フェディリコ・ガルシア・ロルカ。20世紀最大のスペインの劇作家。国民的な詩人。あまりにもスペイン的な情景。過激なストイシズムと、豊穣なセックス。つまりは、スペイン的なカトリック世界。オリーブの木の下で、黒い欲望が、太陽の日に晒されるのだ。そして、銀色に輝く月の光。ナイフのように鋭く、生娘の心を開くのだ。そういう世界。――凡庸な日本の披露宴には、過激すぎるだろうか?

 しかし、いつか(また)ロルカをやりたいと思う。学生時代にやった一本が思い出される。ギラめく太陽が切り出す、光と影。禁欲と欲情。死とセックス。スペイン、それも南部の。行ってみたいなあ〜。「血の婚礼」。

 花嫁:
 あたしは あんたの足元で
 あんたの夢を守りながら 眠ろう。
 裸で野原を ながめながら
 まるで一匹の メス犬のように。
 そう あたしは一匹のメス犬!
 美しいあんたに 焼き滅ぼされる。

 まるで、シェークスピアだ。強い詩情と、現実の欲望。

 レオナルド:
 夜明けの 小鳥たちが
 木々のあいだで さえずり
 夜が 石の刃で
 斬られて 死のうとしている。
 きみをいつも 愛していられる
 暗い隅っこへ さあ 行こう。
 世間のやつらなんか かまわない。
 どんな毒をかけられても 平気だ。
  (花嫁を強く抱きしめる)

 そういうこと。
 芝居は旅のようなものだ。心が、新しい土地へと踏み入って行く。

 しかし、スペインという大地は、ニホンからはあまりに遠いか。今のニホンからは。ならば、こんな詩を贈ろうか。

 ぼくの花嫁は気絶する
 くちづけと黒髪の水流に窒息して
 あるいは正午
 隣りの貴婦人とのはじめての過失の挨拶
 その苦しむべきお世辞のなかで
 死の舌あたり
 ぼくの花嫁は失神する
 懸命に笑いをこらえて卒倒する

 平出隆の「花嫁」より。あるいは「その花を読め!」

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