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ついに2003年。
芥川書簡の読書、いまだ完結せず。しかしいまや佳境に入り、大正15(=昭和元)年なり。死ぬ前年なり。
ここまでの経緯。
大正8年、芥川、結婚ののち、作家家業に専念し、田端の実家にもどってから、俳号に「我鬼」を用い、若手の作家志望者など弟子としつつ、意気揚々なり。「蜘蛛の糸」「杜子春」など児童文学や、「奉教人の死」などキリシタンものなど物す。寂しがりやの性格は相変わらず、長い手紙が多い。
大正10年、中国に3か月に渡る取材旅行。この後、胃腸おかしくなり、最期まで続く。
大正12年、関東大震災。これについては確たる記述は手紙にはなし。
大正14年暮れ、突如として神経衰弱起こる。少なくとも手紙上は、突如なり。
以下、芥川の日記より
大正15(1926)年1月20日 湯河原より 佐佐木茂索宛
…なにぶん胃は悪し、腸は悪し、神経衰弱は甚だしいし、大いにへこたれて居りそうろへば、帰京の節にても大橋様へは参上仕るつもりにそうろふ。どうか右悪からず思つてくれ給え。小生は二月近くの不眠症未だ癒らず、二晩ばかり眠らずにゐると、三晩目は疲れて眠るが、四晩目は又目がさえてしまふ。かかる間に大橋様の訃に接し、すつかり神経的に参つてしまひそうろうふ……
大正15(1926)年5月9日 田端より 室賀文武宛
聖書けふ頂きました。有難く存じます。今山上の垂訓の所を読みました。何度も今までに読んだ所ですが、今までに気づかなかった意味を感じました。
大正15(1926)年5月9日 鵠沼より 山本有三宛
…興文社から少し借金した。編サンものなどやるものぢゃない。唯今当地に義弟のゐる為、しばらく女房と滞在している。催眠薬の量はふえるばかり。
大正15(1926)年6月11日 鵠沼より 斉藤茂吉宛
…近頃目のさめかかる時いろいろの友だち皆顔ばかり大きく体は豆ほどにて鎧を着たるもの大抵は笑いながら四方八方より両眼の間へ駆け来るに少々悸え居り候。
大正15(1926)年7月10日 鵠沼より 小穴隆一宛
僕の神経的台風は高まるばかりだ。君 今度来る時にあの青いスパニッシュフライを一匹すりつぶり、オブラアトにつつみ、更に紙につつみ、ここへ持って来てくれないか? こんな事を頼むのは実にすまない。しかし一生に一度のお願いだ。友だち甲斐に助けてくれ給へ。
大正15(1926)年7月11日 鵠沼より 小穴隆一宛
君の来る時に是非あれを持って来てくれ給へ。
この年は、春から暮れまで、療養のため、妻文子の別荘の鵠沼海岸に過ごす。この鵠沼で起こった事件は「歯車」のラストにあり。また、ここで「点鬼簿」を書く。
僕の興味は二つ。
芥川の苦悩のうちに、如月小春はなにを共鳴したのか?
また、芥川の死はどこからやってきたか?
これら、おそらく、いずれも僕に切実な問題なり。
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