2003.March

3月25日(火)

 他人の言葉か。他人の言葉とはよくいったもので、セリフなんてぜんぶが他人の言葉なのだ。役者にとっても演出にとってもね。
 たとえばこんな言葉――

 だが、私は落ちたのか、落ちなかったのか?

「リア王」をパッ開いて出て来た言葉だ。これを言うために、役者というのは死に物狂いの苦しみを味わう。また、味あわなければ嘘なのだ。だって、それほの意味のある言葉でないか。

 だが、私は落ちたのか、落ちなかったのか?

 あるいは――

 だが、私は堕ちたのか、堕ちなかったのか?

 とも読める。いや、役者なら、そうも読まなくてはならないだろう。客には、漢字の違いはカンケイないのだから。

 文字を超えること。記号を超えること。文法を超えること。文節も超えること。枠組みを超えて、ルールを超えて、意味を超えること。

3月24日(月)

 春、らしき気配に包まれて、コートが重たくなった。道みちには木蓮が咲いている。僕はあの、ティッシュペーパーを枯れ木に張りつけたような、乾いた感じの無情な花がわりと好きだ。

 戦争が続く。さまざまな情報が飛び交う。
 僕はテレビを見ないので、活字とWEBにしか情報源がないのだが、それでも???と思うのは、どうもニホンの新聞の(特にスポーツ紙の)事の次第をフィクションと混同しているような文体だ。
「絶対!」「お約束」「黄金律」「決まり」「定番」「旋風!」「いちばん!」――と、これはコンサバ女性誌の見出しの文体だが、戦争記事が、プロレスと同じ文体で書かれているのには、愕然としてしまう。
 今日の朝日新聞の夕刊のしりあがり寿のマンガには、ホント笑えなかったなあ。(しりあがり寿氏の4コマまんがは、3コマ目と4コマ目を頭の中で入れ替えてみると、けっこうシリアスなのがわかる。ギャグの秘密はけっこうこのコマ割りにあるんだな)

 まったくの雑記。
 ふたたび「リア王」を読む。試しに香盤表を作ってみる。それからブレヒトの「肝っ玉おっ母と子供たち」を読む。
 「目には目を、歯には歯を」の「旧約」から、「汝の敵を愛せ」の「新約」へ。正義から慈悲へ。

3月19日(水)

「21世紀には、いかなる戦争も正当化されてはならない」
 それが僕らの理念ではないだろうか?

 たしかに、イラクも北朝鮮も悲惨で残虐でヒドイ国だ。しかし、確かに一個の国なのだ。それとつき合い、干渉するに当たって、戦争という手段にうって出るのには、いかなる正当性もない。誰にも、どこにも、まったくない。本来は国連にだってないはずだ。

 クラウゼヴィッツの昔はいざ知らず、21世紀においては、戦争は、対話ではない。交渉でもない。駆け引きでもない。なぜなら、人類全体を終焉させかねない最終兵器=大量破壊兵器が存在するからだ。であるならば、戦争は破壊しか生み出さないであろう。
 アメリカにそんな権利も権力も能力もない。

 この戦争が、今回、直接日本に害をおよぼさないとしても、必ずや、21世紀の今後の社会状勢を決定づける因子になるであろうことはまちがいない。これからの僕らの、そして僕らの子供たちの世界において、危機的な状況を生み出すかも知れないのだ。

「21世紀には、いかなる戦争も正当化されてはならない」

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