夜、散歩がてら、コンビニまで買い物に出かけると、暗い曇り空、木々が風にざわめき、こころなしか、明日の開幕をひかえて、この東アジアあたりの大気が「さあ、はじまるぞ」という期待を充電しているようだった。
ロンドンを半年ブラついていた時のことを思い出す。というのも、今日のスポーツ紙で、誰だったか選手の「ここは欧州からあまりに遠い」と、そんなコメントを読んだから。ロンドンで、ボクも思った。「ここはあまりに日本から遠い」と。だから、「なんで、こんなアジアの最果ての国で、ワールドカップを戦わなくてはならないんだろう?」そう思っている選手もきっといるのにちがいない。「母国の人々はちゃんと応援してくれているのだろうか?」と。
* * *
ふたたびスピノザを読む。23日の続き。
(実はここからが話のメイン)
「このことから、自然状態ではすべての人が同意するような善も悪も存在しないことがわかる。なぜなら、自然状態ではそれぞれがもっぱら自己の利益のみを計り、自分の意のままに、かつ自分の利益のみを考慮して、何が善であり何が悪であるかを決定するからであり、また、自分以外の他人に服従するように義務付ける、いかなる法律もないからである。
したがって、自然状態には罪というものは考えられない。
しかし、一般の同意に基づいて、何が善であり何が悪であるかが決定されて、それぞれが国家に服従するように義務付けられる国家状態では、それ(罪というもの)が考えられる。
すなわち、罪とは不服従にほかならない。ゆえにそれは、国家の権能によってのみ罰せられる。
反対に、服従は国民の功績とされる。なぜなら、それによって国民は国家の諸利益を享受するのに値すると判断されるからである。
次に、自然状態では、だれも一般的な同意のもとに、ある物の所有主であるということはない。自然の中には、この人に属してかの人に属さないといわれうる物は何もない。すべての物がすべての人のものである。
したがって、自然状態では、それぞれに対しそれぞれの物を認めようとか、ある人からその所有物を奪おうとかする意志は考えられない。言い換えれば、自然状態では正義とか不正義とかいわれるものはなにも起こらない。
しかし、一般の同意に基づいて、何がこの人のものであり何がかの人のものであるかが決定される国家状態では、このことが起こる。
以上のことから、正義ならび不正義、罪と功績とは、外面的な概念であり、精神の本性を理解する属性ではないことがわかる」
(『エチカ』第4部定理37備考2より。一部、わかりやすく改変してある)
ここにあるコトはだいたい経験が教えてくれる。
世界にはさまざまな国があり、さまざまな法律がある。
ある国は平等な普通選挙によって、国民の代表を選んで法律を定めるし、ある国は平等な普通選挙というものを実施できないでいたり、ある国は選挙よりも宗教が大きな決定権を持っていたりする。
また、ある国では、タバコは禁止で、大麻は合法だし、ある国では、一夫多妻がいいとされる。ある国はついに安楽死を認めた。ある国は妊娠中絶を絶対に認めない。そして、ある国は国民の私有財産というものを認めないと決めた。
国際世論というものはあるけれど、それは外側からの押しつけであって、なかなか、それぞれの国や民族で、「何が正義であるか」「何が罪であるか」はバラバラである。
ここでスピノザが自然状態といっているコトは、ホッブスの、
「各人が各人を敵に争う戦争状態こそ人間の自然状態であり、国家とは、平和維持のために絶対主権をもって君臨すべく創出された、いわば人工的人間にほかならない」
という『リバイアサン』の提言におおよそしたがっているものであり、無論、そうした自然状態が決していいものだというのでもないし、また、その自然状態なるものは、単なる思考的な実験仮想にすぎないのであって、この世界に生な形で実現されるものでもない。
しかしまた、国家というものが、ただ争うだけのこの自然状態から人間に秩序を与える枠組みとして、相対的に必要なものであるとしても、スピノザの「理念」は、国家を全面的に信用することもしない。
「正義ならび不正義、罪と功績とは、外面的な概念であり、精神の本性を理解する属性ではない」のだ。国家というものは、人間の精神の本性から必然的に導き出されるものではない、というコトだ。
(おそらく、それは集団的な幻想なのだと思う。そうして、ボクらはきっと、国家というものの存在しないような社会を創造するコトもいつかは可能なのだ。その際に、もちろん、民族というものは残る、あるいは、地域的な文化というものは残る。そういうものは、どんなに情報社会が発達しようが、人間にとっていちばん実質的なものだから)
では、ボクらは、ボクら人間の精神の本性に全面的にしたがった社会、つまり、誰にも服従せず、隷属せず、自己の精神の「喜び」=ポジティブな力に従って、それでもって、他人とともに相互扶助的に暮らせるような生活をどうやって生み出すことができるのだろうか?
わからない。
(われわれは感情を抑制するコトができないし、感情にしたがう限り、人間はかならず、人と対立し、人を憎み、人を殺すノダ)
しかし、スピノザの『エチカ』はここから、さらに話を急転回させながら、一つの、「理想」を、必然的な論理でもって語っていくのだ――。
そこへ進む前に、ここしばらく読んでいる『同時代のこと』(吉野源三郎/著)からの引用――。(引用ばっかでゴメン。しかもちょっと長いよ〜)
「マルクスの有名な言葉を借りれば、理論が人間の根を衝き、人間の根を衝くことによって人間に訴えて自らを証明し、大衆を捉えなければならないのである。そして、人間にとって人間の根とは、人間そのものだという。ホー・チミンの回想によれば、レーニンの『民族問題に関するテーゼ』を繰り返し繰り返し読んでついにその思想を理解したとき、彼は「喜びで泣いた」という。レーニンの理論が、若いホー・チミンを全人間的に揺り動かしたのであった。理論が人間の根を衝くとは、こういうことなのであった。
ホー・チミンを捉えた思想は、やがて、彼の疑いようもない誠実な人格を通して何人かの若いヴェトナム人を捉え、さらに、その人々を介して、徐々にヴェトナムの民衆を捉えていった。そして、ついに、ヴェトナムには新しい夜明けが来た。大衆は民族としての自覚に目覚め、自分たちの運命を自分たちで決定する自由と権利とを主張する大衆となった。未来に向かって眼を輝かす人々に変わった。この変化が、どれほどこの人々の内面からの変化であったか、また、どれほど彼らの人間の根に徹した変化であったかは、もはや今日では疑う余地はない。軍事的にも経済的にも、比較にならないほど強大な先進国を相手に廻し、あれほどの強圧に耐え、あれほどの困苦を忍び通し、つぎつぎにこれを敗退させていった二十余年の戦いが、なによりもそれを証明している。民衆自身が、この独立と自由のための戦いを、真実、自分たちの戦いだと信じていなかったら、到底戦いぬける戦争ではなかったからである」
何度もいう、われわれ日本人は戦争に負けた。
われわれは戦い抜くことができなかったのだ。
なぜか、(おそらく)あのとき国家が国民に押しつけた「日本なるもの」、つまり「日本的精神」とか、「大和魂」とかいうものがニセモノで、けっして日本の諸民族の「根を衝いて」いなかったからだ。
とすれば、無責任にも、ボクら戦後世代は言ってしまおう!
戦死した人々にはもうしわけないけど、靖国神社などは無意味である。あんなところに日本的な価値はない。
それより、現在の憲法はどうだ?
そこには、ひとつの「理念」がないか?
といいつつ、明日からは、まったく完璧な(?)国際ルールに基づいた、国家間の戦いが幕をあけるのであった!
ボクはもちろん日本を応援するけど、どの国も応援しちゃうな。応援できちゃうな!
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