2002.May

5月29日(水)

 夜、散歩がてら、コンビニまで買い物に出かけると、暗い曇り空、木々が風にざわめき、こころなしか、明日の開幕をひかえて、この東アジアあたりの大気が「さあ、はじまるぞ」という期待を充電しているようだった。
 ロンドンを半年ブラついていた時のことを思い出す。というのも、今日のスポーツ紙で、誰だったか選手の「ここは欧州からあまりに遠い」と、そんなコメントを読んだから。ロンドンで、ボクも思った。「ここはあまりに日本から遠い」と。だから、「なんで、こんなアジアの最果ての国で、ワールドカップを戦わなくてはならないんだろう?」そう思っている選手もきっといるのにちがいない。「母国の人々はちゃんと応援してくれているのだろうか?」と。

*   *   *

 ふたたびスピノザを読む。23日の続き。
 (実はここからが話のメイン)

 「このことから、自然状態ではすべての人が同意するような善も悪も存在しないことがわかる。なぜなら、自然状態ではそれぞれがもっぱら自己の利益のみを計り、自分の意のままに、かつ自分の利益のみを考慮して、何が善であり何が悪であるかを決定するからであり、また、自分以外の他人に服従するように義務付ける、いかなる法律もないからである。
 したがって、自然状態には罪というものは考えられない。
 しかし、一般の同意に基づいて、何が善であり何が悪であるかが決定されて、それぞれが国家に服従するように義務付けられる国家状態では、それ(罪というもの)が考えられる。
 すなわち、罪とは不服従にほかならない。ゆえにそれは、国家の権能によってのみ罰せられる。
 反対に、服従は国民の功績とされる。なぜなら、それによって国民は国家の諸利益を享受するのに値すると判断されるからである。

 次に、自然状態では、だれも一般的な同意のもとに、ある物の所有主であるということはない。自然の中には、この人に属してかの人に属さないといわれうる物は何もない。すべての物がすべての人のものである。
 したがって、自然状態では、それぞれに対しそれぞれの物を認めようとか、ある人からその所有物を奪おうとかする意志は考えられない。言い換えれば、自然状態では正義とか不正義とかいわれるものはなにも起こらない。
 しかし、一般の同意に基づいて、何がこの人のものであり何がかの人のものであるかが決定される国家状態では、このことが起こる。

 以上のことから、正義ならび不正義、罪と功績とは、外面的な概念であり、精神の本性を理解する属性ではないことがわかる」
(『エチカ』第4部定理37備考2より。一部、わかりやすく改変してある)

 ここにあるコトはだいたい経験が教えてくれる。
 世界にはさまざまな国があり、さまざまな法律がある。
 ある国は平等な普通選挙によって、国民の代表を選んで法律を定めるし、ある国は平等な普通選挙というものを実施できないでいたり、ある国は選挙よりも宗教が大きな決定権を持っていたりする。
 また、ある国では、タバコは禁止で、大麻は合法だし、ある国では、一夫多妻がいいとされる。ある国はついに安楽死を認めた。ある国は妊娠中絶を絶対に認めない。そして、ある国は国民の私有財産というものを認めないと決めた。
 国際世論というものはあるけれど、それは外側からの押しつけであって、なかなか、それぞれの国や民族で、「何が正義であるか」「何が罪であるか」はバラバラである。

 ここでスピノザが自然状態といっているコトは、ホッブスの、

「各人が各人を敵に争う戦争状態こそ人間の自然状態であり、国家とは、平和維持のために絶対主権をもって君臨すべく創出された、いわば人工的人間にほかならない」

 という『リバイアサン』の提言におおよそしたがっているものであり、無論、そうした自然状態が決していいものだというのでもないし、また、その自然状態なるものは、単なる思考的な実験仮想にすぎないのであって、この世界に生な形で実現されるものでもない。
 しかしまた、国家というものが、ただ争うだけのこの自然状態から人間に秩序を与える枠組みとして、相対的に必要なものであるとしても、スピノザの「理念」は、国家を全面的に信用することもしない。
「正義ならび不正義、罪と功績とは、外面的な概念であり、精神の本性を理解する属性ではない」のだ。国家というものは、人間の精神の本性から必然的に導き出されるものではない、というコトだ。
(おそらく、それは集団的な幻想なのだと思う。そうして、ボクらはきっと、国家というものの存在しないような社会を創造するコトもいつかは可能なのだ。その際に、もちろん、民族というものは残る、あるいは、地域的な文化というものは残る。そういうものは、どんなに情報社会が発達しようが、人間にとっていちばん実質的なものだから)

 では、ボクらは、ボクら人間の精神の本性に全面的にしたがった社会、つまり、誰にも服従せず、隷属せず、自己の精神の「喜び」=ポジティブな力に従って、それでもって、他人とともに相互扶助的に暮らせるような生活をどうやって生み出すことができるのだろうか?

 わからない。
(われわれは感情を抑制するコトができないし、感情にしたがう限り、人間はかならず、人と対立し、人を憎み、人を殺すノダ)

 しかし、スピノザの『エチカ』はここから、さらに話を急転回させながら、一つの、「理想」を、必然的な論理でもって語っていくのだ――。

 そこへ進む前に、ここしばらく読んでいる『同時代のこと』(吉野源三郎/著)からの引用――。(引用ばっかでゴメン。しかもちょっと長いよ〜)

「マルクスの有名な言葉を借りれば、理論が人間の根を衝き、人間の根を衝くことによって人間に訴えて自らを証明し、大衆を捉えなければならないのである。そして、人間にとって人間の根とは、人間そのものだという。ホー・チミンの回想によれば、レーニンの『民族問題に関するテーゼ』を繰り返し繰り返し読んでついにその思想を理解したとき、彼は「喜びで泣いた」という。レーニンの理論が、若いホー・チミンを全人間的に揺り動かしたのであった。理論が人間の根を衝くとは、こういうことなのであった。
 ホー・チミンを捉えた思想は、やがて、彼の疑いようもない誠実な人格を通して何人かの若いヴェトナム人を捉え、さらに、その人々を介して、徐々にヴェトナムの民衆を捉えていった。そして、ついに、ヴェトナムには新しい夜明けが来た。大衆は民族としての自覚に目覚め、自分たちの運命を自分たちで決定する自由と権利とを主張する大衆となった。未来に向かって眼を輝かす人々に変わった。この変化が、どれほどこの人々の内面からの変化であったか、また、どれほど彼らの人間の根に徹した変化であったかは、もはや今日では疑う余地はない。軍事的にも経済的にも、比較にならないほど強大な先進国を相手に廻し、あれほどの強圧に耐え、あれほどの困苦を忍び通し、つぎつぎにこれを敗退させていった二十余年の戦いが、なによりもそれを証明している。民衆自身が、この独立と自由のための戦いを、真実、自分たちの戦いだと信じていなかったら、到底戦いぬける戦争ではなかったからである」

 何度もいう、われわれ日本人は戦争に負けた。
 われわれは戦い抜くことができなかったのだ。
 なぜか、(おそらく)あのとき国家が国民に押しつけた「日本なるもの」、つまり「日本的精神」とか、「大和魂」とかいうものがニセモノで、けっして日本の諸民族の「根を衝いて」いなかったからだ。
 とすれば、無責任にも、ボクら戦後世代は言ってしまおう!
 戦死した人々にはもうしわけないけど、靖国神社などは無意味である。あんなところに日本的な価値はない。
 それより、現在の憲法はどうだ?
 そこには、ひとつの「理念」がないか?

 といいつつ、明日からは、まったく完璧な(?)国際ルールに基づいた、国家間の戦いが幕をあけるのであった!
 ボクはもちろん日本を応援するけど、どの国も応援しちゃうな。応援できちゃうな!

5月28日(火)

 先日買った岩波新書の『同時代のこと』(吉野源三郎/著)は、はなはだ感化されるコトの多し本だ。副題に「ヴェトナム戦争を忘れるな」とある通り、この本じたいは70年代初めに出されたもの。
 戦後、多くの日本の市民社会が、アメリカ帝国主義の自己チューと、日本政府の自主性のない追従外交に抗議し、これと戦ってきたという記録だ。
 何のために?
 日本という国が独立しているその根拠、「理念」を守るためにである。
 つまり、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」という平和憲法を守るために、である。
 そういう歴史が今につながっているコトを実感させてくれる。

 去年の9月11日のコト。それに連鎖して起こり、今もなお起こっている、さまざまな理不尽な出来事に、ボクらが感じているのと同じようなコトを、30年前、40年前に、この国の市民社会がやはり感じ、大きな行動に移していたのだというコトを初めて納得するに至る。
 例えば、安保闘争というものに、どういう心情的な衝動があったのか、とか、そういうコトが、9.11以降の世界を生きるボクらに、今やっと、よく分かるようになったのである。
 結局、ボクなどの世代は、大学時代といういちばん多感な時期をバブルの好景気によって、のん気に過ごし、幸か不幸か、知るべきことを知らずに過ごしてしまったのだ。

「アメリカの極東における現在の軍事行動を見過ごすことは許されません。それは一日も早く停止されねばなりません。しかし、そのために、私たちはただ、アメリカ帝国主義反対を叫ぶだけでよいのでしょうか。アメリカにとっても、日本の政府にとっても、痛くもかゆくもないない、というのでは何にもなりません。私たち日本人としては、少なくとも、われわれの政府が今日、この戦争の危機に際して、アメリカの軍事行動にいささかでも手を貸している限り、これをまず停止させるのが日本人の責任だと考え、自分たちの政府に抗議し、これを抑制することに努力するべきではないでしょうか」(『同時代のこと』吉野源三郎/著より)

 この頃は、時代が若かった。熱かった。
 でも、今だって、若い人たちは、時代に対する疑問をとても純粋に、強く持っている。それはホントだ。9.11直後の数週間、メーリングリストでやりとりされた、若い人たちの疑問や不満はホンモノだった。

「確かに、報復をしなければアメリカは負けたといわれてしまうかもしれません。ですが、アメリカが負けたことよってテロが活性化するとは思いませんし(といっても対応によるでしょうが)、むしろアメリカが勝ち続けようとすることこそがテロを呼んでいるのではないかとも思えます。ということで、なんとか戦争は回避すべきではないかと思います。今回のことに限らず、世界はそろそろ、武力行使による報復は違法であるという認識に達してもいいのではないでしょうか?家族が殺されたからと言って、その犯人を殺せばやっぱり殺人罪でつかまりますよね?にもかかわらず、国同士の関係になるとそれが許されると言うのはおかしいのではないでしょうか?」(9/19 むねっち)

「日本の首相がアフガン難民を受け入れると、
発表し、迎えの飛行機をパキスタンに飛ばせば、
いくらでも助けることはできます。
アメリカも賛成でしょう。
問題は、我々国民が、彼等を社会に受け入れて、
幸せに暮らさせてあげることが、
できるだけの、心の準備と
用意があるかどうかだけです。
そこが、
難しいかな?
でも、私はやってみたい。たとえ自分の生活レベルが
落ちても。日本もたまには、そんな事やっても
いいんじゃない?」(9/19 あーるあいぴー)

 ただ、悲しいかな、それが、もう半年を過ぎ、(マスコミでは)もはや大きな話題でもなくなってしまったコト。それから、30年前、40年前は熱かった若者たちが、この国を背負う中年層となり、昔を、「ヴェトナムを忘れて」しまったコト。さまざまな忘却が、疑問や不満から大きな力が生まれることをさまたげている。それはボクも同じ。
 にもかかわらず、アメリカはいまだに、帝国主義だ。
 イラクに戦争をふっかけようとしているのは目に見えている。
 アメリカに後押しされているイスラエルも同じ。
 日本は、いつも、ヘイコラと従うだけ。自衛隊もいまだに無意味な「後方支援」を続けている。
 この国は、国際社会の中で、自分で自分の運命を決定する力を持っていない。いささかも持っていないのだ。(国民の自信ということでいえば、ワールドカップで勝つコトよりもこのことの方が重要だ)。

 そして、有事法制。
 これから戦争が起こるから、そして日本もそれに参加するから、「備えあれば憂い無し」。準備をしようという法律ではないのか。
 戦争は一時的に景気を回復させる。
 とにかく、それに騙されないようにしよう!

5月27日(月)

 もう梅雨かと思う雨降り続きに、雷ゴロゴロ、夕立ち過ぎても、夜は肌寒い、なんて変な天気だろう。

 変と言えば、今日、近所のセブンイレブンで「袋、分けますか?」と聞かれた。いつも仕事帰りは、ビールと犬のゴハンを買って帰る。それを「分けますか?」と言われた。なぜ?
 ?????
 である――。分からない。

 犬と人間といっしょでは気色悪いのだろうか? 
 別に中味がいっしょになるわけでもあるまいに。
 そういうお客がいるのだろうか? 
 そういうお客は、殺虫剤と食べ物も分けてくれ、とか、下着と食べ物も分けてくれ、とか注文するのだろうか? これは私が食べるヨーグルトだけど、こっちの柿の種は亭主のツマミだから、袋、分けてちょうだい、とかいうのだろうか?
 袋がいくつあっても足りない。

 そこのセブンイレブンは、前身のただの酒屋だった頃からの顔見知りなので、毎休日は、犬の散歩のたびに犬ごと来店してしまう。ウチの犬はチョー小型犬なので、店の前にしばっておくにも、誰かにフンずけられそーで、怖くって、なかなか放っておけず、つい、抱えながら店に入ってしまう。もちろん、ペットの入店は× でも、若いアルバイトの子とか、顔見知りの店長さんとかは別に何も言わない。でも、ときどき、パートのおばさんとかに見つかると、無礙もなく、「犬はダメです」と言われてしまう。
 規則はすべて人間のためにあるからである――

 そういうとき、ボクは思う。
 この世界は人間によって完璧に牛耳られているよなあ〜、と。

 そう思って、でしゅら(犬の名前)を見るのだが、こいつはなにも言わない。
 あいかわらず、ボクが帰るとうれしくって、おチンチンをボッキさせているのだった。
(そう、子供のころは、嬉しかったり、くやしかったりするだけで、おチンチンはボッキしたものだ。大人になるとそういうコトはなくなってしまった……)

 昨日、駅前の真光書店で、岩波フェアをやっていたので、『同時代のこと』(吉野源三郎/著)と『湛山座談』(石橋湛山/著)を買う。なんとなく、大正から昭和、そして戦後の政治・経済が気になるのだ。
 そうか!
 と、うなずく事実を知る。
 芥川の死んだ、昭和2年に、恐慌が起こっているコト。
 恐慌のあと、軍事勢力の台頭でもって一時的に景気が回復しているコト。
 日本の軍隊はかなり強いと思われていたコト。
 などなど。

5月25日(土)

 代表テストマッチ。スウェ−デン戦が終わる。
 そして、始まる。
 いい試合だった。
 トゥルシエは、この試合で先日の代表選考の理由をキチンと語った。語り尽した。
 前半、先発組は、スウェーデンの洗練された組織に苦労し、プレッシャーもあって、大変だった。小野、森島、柳沢、松田、稲本、と、実験的なポジションもあって、大変そうだった。
 でも、三都主、秋田、中山、小笠原、明神、市川、と、サブで出た選手がそれぞれ生きていた。チームのために、自分を活かす、そういう仕事をしていた。
 グッド!
 チームがひとつにまとまってきている。
 それが、収穫。
 さあ、本番だ。

 ボクらが何を言おうと、トゥルシエは、チームに一つの「理念」を共有させようとしているのだ。それは「和」というものだと思う。この「和」という「理念」は、トゥルシエがフランスから輸入したものではない。この「和」を、トゥルシエは、ほかならぬ日本から学んだのだ、と思う。
 海外で日本人であることを思い知らされ、自己を鍛えた、中田、小野がチームを前へ引っ張る。攻撃もする守備もする。チームの核となる。それをみんなが尊重する。いちばん外枠では、ベテランの秋田と中山がみんなを鼓舞する。支える。明神や戸田や中田浩二や小笠原や服部といった、いかにも日本人らしい、献身的な職人がゲームを組み立てる。森島の裏を狙うパッションも日本人だし、柳沢の協調主義も鈴木のトッポさもいかにも日本人の若者らしい。

 このチームに期待しよう。
 日本という国がどういうヘンチクリンな国なのか、世界に知らしめよう。個々の力においては脆弱さと芯のなさを持ち、他人とつながる術すら知らない日本の若者たちよ。集団で何かをつくるということはこういうことなのだ。
 そのコトを、ボクらは彼らから学ばしてもらおう。
 さあ、このチームを応援しよう。

 できるだけ勝ち進んで、もっともっと日本らしい、柔軟で、自信をもった、楽しいチームになっていって欲しいと思う。きっと、勝ち進む度に、日本人のサッカーというひとつのスタイルをつくり出してくれるのではないだろうか。
 そのためにこそ、自己表現のためにこそ、勝ってほしい、と思う。

 こんなにヘンチクリンな国はホントに世界にはないのだから。

 楽しみだなあ〜。

5月24日(金)

 今週の「Number」を買って読む。小野が表紙の奴。
 意識しているよりも、深くワールドカップに揺さぶられているからなのか、読みながら、気持ちが、震え、ウオオーとうなずき、バカ言えとほざき、くだらないとつぶやいたりしている。
「Number」はいい雑誌です。
 スポーツ関係に限定しなくても、大手で出版されている雑誌全体を見ても定期的に読みたくなる、そういう数少ない雑誌の一つ。
 少なくとも真実らしいことを伝えてくれる、あるいは、真実に近い、あるいは、真実をこちらが推し測れるような誠実な記事が載っている。これは、すごいコトではないか。報道というよりも、ノンフィクションのレポ−トというスタイルで、ライターの個性を尊重している編集方針がよいのだと思う。写真も美しい。
 1995年、野茂の渡米以来より、読んでいる。

 それに、トルシエを、トゥルシエと原語の発音に近く、誠実に表記しているところなどもなかなかできることではない。(ホントに。編集長がエライ)。

 今週の特集は、日本代表選手の発表に関する記事がメイン。
 その巻頭に、「トルシエ」への文句でなく、「トゥルシエ」への理解ある田村修一氏の一文を置いているところがまたエライ。
 田村氏はフランス語ができるし、フランス文化への理解もある。4年間、一貫してトゥルシエを支持してきた。ボクはそもそも、トゥルシエのことより、田村氏の文章を支持しているのかもしれない。それにユーモアがある。それがなにより素晴らしい。
 一方、「Number」の常連ライターでは、杉山茂樹氏がどーもいちばんの苦手。シニカルで、人の文句しか言わない。読んでて辛い。
 増島みどり氏も、困ってしまう。「この選手好き!」というファン心理のようなものがちょっと甘ったるい。
 今週号では、佐藤俊氏が、連載してきた中村俊輔の奴も含めて、4つも書いているけど、この人の、感動させよう美辞麗句路線はまた、鼻白むなあ。採用している選手のコメント選びは秀逸なんだけど。ドキュメントなんだから、あんまりストーリーを作らなくてもいいよ。
 そして、金子達仁氏。この人のいいところは、文章の上手さと、鋭い観察眼と、自分の主観に対する誠実な論理。スポーツ新聞に書いているみたいな、軽薄な調子が「Number」にはなくってさらによい。しかし、あんまり売れっ子で、教祖的な存在すぎて、自分のことしか書かなくなってくると、ちょっと心配。

 まあ、好き嫌いは人それぞれ。
 すべてがバツグンに面白いわけではないけど、個々のライターの顔がよくみえる、そういう不思議な雑誌なので、読んでみてほしい。
 ワールドカップ期間中は週刊誌になるそうです。(普段は隔週)

*   *   *

 で、気になった抜粋をいくつか。

と、思いつつ、ここで寝てしまった……。
 

5月23日(木)

 ブッシュという現在のアメリカ大統領の来訪に当たって、ドイツ・ベルリン市民の2万人が大規模のデモを行った。ブッシュ=アメリカの政策に対して、グローバリゼーションに対しての抗議である。
 (昨日、ドイツのことを書いたので、余計に気になった)
 果たして、日本人はどんな仕方で抗議するだろう?

 やはり去年の9月11日以来、世界の深刻な問題が表面化し、それに対して、アメリカがあまりにも露骨に「国家」としてのエゴを恥ずかしげもなく押しつけたので、それまでノホホンとしていた日本人も、あたらめて「国家」としての自分の顔を鏡で確認しなければならなくなってしまった、という感じがする。
 そしたら、その顔が、あまりに情けない顔だった、というところだろうか。
 急いで、化粧直しをしなくちゃ!
 テロ対策法から有事法案。そして、折しも、ワールドカップである。
 にもかかわらず、次から次へと、ボロが出てくる。

 日本って何?

 戦う意欲の薄い国。
 事勿れ主義。非常事態への対処ができない。
 平和ボケ。
 ンじゃ、いっそ、憲法第9条を破棄しますかね。国民投票で。
 自衛隊を軍隊にしようか。
 軍隊のない国家なんて、国際社会は、国家として認めないんだって。
 ワールドカップ、予選リーグ突破できるかな。予選リーグ突破できない国なんて、開催国として、国際社会は認めないんだって。

 ボクの理屈は卑屈だろうか?
 (卑屈だね)

 でも、国際社会って何?
 国際標準とか、世界の常識とか、よく言うけど、そんなもんあるの?
 (あるところにはある(気がする)んだろうな。欧米中心の常識が。)

 頭の中で、いろんなコトが重なってしまっている。

 でも、日本人てステキだよ。
 自分でいうのもなんだけど。
 各国の代表チームが来る。町中で、村中で歓迎しようと、盛り上げようと、あんなに一生懸命になっている。知り合うと、すぐに、色んな国を応援できちゃう。
 市民(国民じゃない)はみんな、偉そうでもないし、卑屈でもないし(ボクみたいには)。
 こういう国って、世界でもちょっと珍しいんじゃないかな。
 ナイーブで、弱すぎるかもしれないけど。いいじゃん。
 この軟弱さを、鍛えられるといいと思う。懐を深くできるといいと思う。

 (最近はこういう問題が頭を離れない)

 世界の中で、日本人だけが持てる視点てあるんじゃなかろうか?
 同じように、サッカーが世界の言語なら、日本のサッカーだけが、そこにつけ加えることのできる新しい価値観があるんじゃなかろうか?(まだ、そこまで成熟はしていないとしても)
 世界の常識なんて、なんよ!

「――だがその前に人間の自然状態と国家状態についてそれぞれ述べなくてはならない。
 人はみなそれぞれの本性の必然性から生ずることを、最高の自然権によって行う。最高の自然権とは、それぞれが、何が善であり何が悪であるかを判断し、自己の利益を計り、復讐をなし、また愛するものを守ろうとし、憎むものを破壊しようと努める権利(=能力)である。
 もし人が理性の導きから生活するのなら、それぞれはそれぞれをなんら害することなく、自分の権利(自然権)を発揮することができたであろうが、ところが、人間は、さまざまな感情に隷属している。しかも、それらの感情は人間の能力も理性もはるかに凌駕する。それゆえ、人はしばしばいろいろな方向へ引きずられ、相互扶助が必要であるにもかかわらず、相互に対立する。
 だから、人間が他人と友好的に生活し、相互に援助をするためには、自己の自然権は断念して、他人の害悪となるようなことはなにもしないという保証を互いに持てるようにすることが必要である。
 しかし、それがどのようにして可能だろうか。
 どんな感情も、それより強力な反対の感情でなければ抑制されないのだから、他人に害悪を加えたくても、もしそれより大きな害悪が自分に生じる恐れがあれば、思いとどまるだろう。
 そこで、この法則に従って社会は確立される。それぞれの人が、自分の復讐する権利、善悪を判断する権利を社会に預け、社会自身が共通の生活様式の規定や、法律の制定に対する実権を握るようにし、しかも、その法律を、理性(は感情を抑制できないから)によってではなく、刑罰の威嚇によって確保するようにしなければならない。
 このように法律と(それぞれの人間の)自己保存の力によって確立された社会を国家と呼ぶ。国家の権能によって保護される者を国民と呼ぶ」(『エチカ』第4部定理37備考2より。一部、わかりやすく改変してある)

5月22日(水)

 Jin'sコラムに書いたことともつながってるんだけれども、現在、いろいろな場面で、戦前の価値観を見直そうという動きが著しい。そこには、良い部分もあるし、ヤバイ部分もある。
 このことと、またいろいろなこととがつながっているのだ。

 経済と世界情勢の動きが1930年代に似てきている、という話も聞く。

 サッカーもそう。
 ボクはなんども言うが、日本代表が勝たなければいけない、という言い方が嫌いだ。勝って欲しい。喜びたい。盛り上がりたい。そう思う。そういう願いは、ボクとて同じなのだが。しかし「勝たなければいけない」という強制は嫌いだ。
(という心根じたいが、軟弱な戦後教育の産物だろうが、ボクはそれを誇りに思うし、徹底させたい。攻撃されても反撃はしない。戦争はしない。自衛隊もいらないぞ!)

 たしかに、チームは「日本代表」だけど、彼らは、日本国民の「代表」なのではなく、「日本でサッカーをしている選手たちの中の代表」なのではないのか。幻想の中で、盛り上がり、楽しく応援できる幸運にめぐまれたことは、感謝したい。それを仲介してくれるマスコミにも感謝したい。
 けれど、試合はけっして日本国民全員のものなんかじゃない。まず、彼ら選手たちのものであり、次に、ホントに献身的に心から彼ら(選手と監督とコーチたち、実際に戦っている彼ら)を応援しているファンやサポーターのものじゃないか。そのかぎりで、応援できる幸運を感謝したいのだ。

 来日した代表チームと地元の人々との間の「ワールドカップ」も始まっている。
 藤枝市とセネガル人との出会いは最悪だった。自殺した当人の家族にはホントに気の毒だと思うし、これからゲームをするセネガル選手たちにももうしわけない気がする。
 それから、大混乱の大分県中津江村とカメルーン代表。日本人には考えられないジョーシキ。スケジュールという観念、時間と約束を守るという理念ひとつとっても、世界には、いろいろな考え方がある。
 誘致した側も経済効果ばかりが目的だとかなりシンドイと思う。
 今日は、ウルグアイと新潟との練習試合が中止になったという。試合の主催者たちがかなり落胆している。2500万円の収入がオジャン。大変だと思う。けれど、「お金」を二の次に考えたら、きっと、もっと得るものがあるはずだ。
 ちょっとした記事だったけど「いい関係」だったのが、エクアドルのキャンプ。スタンドに来ていた地元の幼稚園児たちが、ふとピッチ上に迎え入れられて、選手たちと交流したという。真っ黒な黒人選手(ばかりがエクアドル人じゃないよ。ネイティブ・インディアンも混血の人もいる)と、やわらかな幼児たちの手が交わった。そこで何が起きたのか、ボクは知らない。けれど、すごい出来事だ。幼児たちにとってだけでなく、エクアドルの選手たちにとっても。

 つまり、ワールドカップはホントにもう始まっているのだ。
 これらの事件の一つ一つが、日本人にとってのワールドカップの成果ではないだろうか。
 ボクも調布スタジアムに、サウディアラビア代表を見に行こう!

5月20日(月)

「最近は、ばかばかしくてテレビを見る気にもならないんですけれども、いわゆる地上波というのは悲惨な状況になっています。ニュース番組もひどいですし、バラエティー番組も絶望的だと思います。しかし、それがテレビ界に君臨しているわけですから、これは大きな城壁になって、人間の世界が変わらなければいけないし、現に変わりつつある世界から、私たちの世界、ほんとうの市民と呼ばれる人たちの世界に、その変化が到達できないようなシステムをつくっているんだと思います」

「そうしますと、もっとも創造的なことが起こっている現場があったとしても、その現場と市民社会との中間子として、現場で起こっていることをイメージ化するプロセスを担っている人たち、つまり知的な人々、それからマスコミ人と呼ばれる人たちが、一生懸命変換行動を行ってしまうのです」

――以上、『こころの生態系』より、中沢新一氏の発言。

 トルシエ・ジャパンという、創造的な集団がある。そこでは、練習のたびに、試合のたびに、ある、測りしれない人間同士の接触が起こり、摩擦が起こり、融和が起こり、集団全体がなんとか、それを創造的なものにしようと努力しているはずなのだ。
 それを一段高い所から、指揮しているのがトルシエというフランス人であって、選手はその「創造的な場所」にどっぷり身を置いている。
 その「創造性」がどのようなレベルのものかは、僕は知らない。僕はその現場にいないから。それを少しでも、ホントーに教えてくれるのは、ただただ、ワールドカップの試合(その内容と結果)だけである。

 その「創造の」現場と、われわれ市民社会の間には、もちろん、マスコミがいる。日々の報道がある。しかし、マスコミは一度として、その「創造性」のことを具体的に伝えてくれたことはない。一度として。
 もし、それが伝えられたなら、今回の代表メンバー選出について、中村俊輔という一つのカタワな才能が巻き起こしている騒動についても、(トルシエの弁明などなしに)納得できているのではないだろうか、思う。

 確かに、トルシエは代表発表の現場にいなかったが、しかし、彼はすべてを説明するための声明をきちんと発表しているではないか。それを、丹念に読み説くことが重要であって、仮にその場に居合わせて、執拗なインタビューを受けて仕方なしに発するような、その場限りの戯れ言をアテにするよりもずっと生産的だと思うのだ。
 次の言葉は、トルシエ自身の存在を十分に代弁するものである。もう一度、読み直してみよう。

「最終のメンバーリストは、私と私のスタッフの考えたプロセスの結果であって、少しも驚きのあるものではありません。4年前からの長い過程の論理的な結果で、この最終リストはとりわけ人間性を持った選手たちのリストです。私は、この長い4年間を通じて伝えようとしてきた、いろいろな人生の価値観を守らなければならないと思っています。このグループは、フィジカル・技術・戦術、そして精神的なバランスを尊重した結果であって、経験の反映によるプライド・野心・才能の象徴だと思います。このグループは、日本を代表するミッションと責任を持たなければなりません。
 私は、私が選んだ選手達を完全に信頼しています。私からは、自分のサッカーを信じてやること、選ばれたことに対して自信と誇りを持って、必ずベストを尽くすことを選手達に望みます。選ばれた選手達は、残念ながら選ばれなかった選手たちへの尊敬の表現として、最後の最後までこのミッションが終わるまで高い集中力を持続し、責任感を持って欲しいと強く思っています。最後に、日本代表のサポーター、ファンの皆様、代表を支えてくれる友人達、関係者の皆様、日本代表への強力なご支援をよろしくお願い申し上げます」

 これを「コメント」と称して報道したマスコミが多かったが、これは「コメント=意見」というものではない。彼は監督である。その言葉は強い拘束力を持ち、つまり、これは声明であり、理念であり、(トルシエの言葉を使えば)哲学でなのある。このなかに、自分は、なにに従って選手を選んだのか、という理念がしっかりと表明されている!
 ボクがいいたいのは、実は、ボクは、この「声明」に思わず感動してしまったというコト。総理大臣ですら、世論調査の結果に右往左往しているこの国の民主主義の中で、周囲の雑音に惑わされることなく、一つの集団を率いるリーダーとして、一つの「原理」を明晰かつ判明な言葉で表明したというコト。
 17日の日記に、ボクが思わず古い感情を呼び起こされたと言ったのは、実は、この声明文のことなのである。

 なぜ、俊輔がハズれたかも、ぜんぶ、ここにあるじゃないか。

「この最終リストはとりわけ人間性持った選手たちのリストです」
「いろいろな人生の価値観を守らなければならないと思っています」

 そういうこと。
 それ以外には、考えられない。
 勝ち負け以前に、「人間性」を選んだのだ。「人生の価値観」を選んだのだ。
 それが良い悪いかは、まさにその点で、そのレベルで議論すべきだ。(つまり、勝ち負けは、絶対な最終目的ではない、ということ。どんな「原理」の乗っ取ってその勝負に望んだのか、その前提が重要なんだということ)
 少なくとも、「人間性」「人生の価値観」をトルシエは選んだのだ。そして、それは必ずしも勝利には直結しない。そんなコトはトルシエも分かっているはずだ。しかし、トルシエは、この異常な状態に落ち入っている今の日本社会には、「人間性」や「人生の価値観」が必要だと思ったのだ。

 バカ言え! 冗談じゃない! たかがサッカーでそんなことまで口出しするな!

 という意見もあろうが、おそらく、トルシエという人はそういう人だ。

 たかがサッカーとは思っていないはずだ。
 とボクは思う。彼はたしかに最高の代表監督ではないが、多くの日本人が失っている「知性」だけはまだ、健全にも持っているフランス人だと思う。

 だから、ボクは、この「人間性」と「人生の価値観」という原理でもって、選考した代表チームが勝とうが負けようが、喜ぼうがガッカリしようが、そのトルシエの理念だけは信じようと思うのである。
(「トルシエ監督の最終決断を信じ」と表明した、中田と一緒に)。
 それは勝ち負け以前の、大前提ではないだろうか? 
 勝つか負けるかがすべてではないと思う。
 結果が出る前に、一つの「理念」を支持するか、しないか、そういう心構えを今の日本人は忘れていると思うのだ。
 トルシエは、なにより、そういう日本社会と闘っているのだ。

5月18日(土)
 雪舟を見てくる。疲れた。
 帰りにパルコブックセンターで、『身体感覚を取り戻す』(NHKブックス)と『こころの生態学』(講談社新書)を買う。
 前者は、このサイトのBBSでのMIKAさんのオススメ。目次を見て、内容をチラ読みしてさらに惹かれる。
 後者は、河合隼雄+小林康夫+中沢新一が関わったシンポジウムの企画モノ。でも3人とも信頼できる人たちなのでGO!
 そうこうしているうちに、日が暮れた。

5月17日(金)

 今日はすごい、ニュースがらみの話ばかりだ。
 ニュースがどれほど、実際の言葉のニュアンスを伝えているのか、ボクはテレビを見ないし、わからないけど、ここにザッと、文字でもってならべて見よう(ちょっとクドいけどね)。

■名前が呼ばれるのが終盤だったので長く感じた。もうないのかと思った。

■あきらめず、努力したのが報われたのだと思う。冗談かと思った。

■サッカー人生が終わったわけではないので、これから前向きに考えていきたい。

■とても悔しいが、横浜Mで頑張っていきたい。

■新しい夢を見つけて、一日一日を大切にしていきたい。

■選ばれたのはうれしいが、横浜Mの他の4人が漏れ、正直言って複雑な気持ちだ。(本大会では)チームのために尽くしたい。全部勝つつもりでやる。

■することを一つの目標にしてきた。この4年間の経験と努力してきたものをすべて出し切れるよう頑張る。

■出場時間に関係なく、得点に絡むことをやっていきたい。

■けがが原因ではなく、力がなかったから外れたってことだね。

■どう喜んでいいのか分からない。ほっとしている。

■素直に光栄に思う。1試合1試合に集中して、最少失点に食い止められるよう頑張る。

■心から楽しんで納得できるプレーができればいい。自分のプレーを全力でしたい。

■光栄に思うと同時に責任を感じる。簡単に勝てる相手ではない。

■驚きでいっぱい。フィジカル面で負けたくないし、100パーセントのコンディションに仕上げたい。

■全然マイナスに考えていない。ぎりぎりで落ちる経験もなかなかない。この悔しさをバネにして今後に生かしたい/決勝トーナメントに行けるよう頑張ってほしい/(テレビで)W杯の試合を見たら悔しいと思うだろう。そう思ってこそ、強くなれる/今の水準で満足していない。強くなっていけば、『(あの時)選ばれなくても良かった』と言えるのではないか。そうなれるよう今から頑張る。

そして、最後にメディアの取材ではなく、あえて自分から発表したコメントを3つ――

■2回目のワールドカップ、日本代表に入れてとても光栄に思っています。その責任と自覚を持って、大会に臨みたいと思います。

■日本のフットボーラーの代表として、選手、監督、コーチ、スタッフが、本当の意味で一つのチームとなり、これまで得てきた力のすべてを発揮して厳しい戦いを乗り越えていきたいと思います/この大会で日本サッカー界が、そして、自分自身が一つでも多くのこと学び、残していきたい/日本代表はホームで戦います。日本サッカーの歴史を一緒につくりましょう! 応援してください。

■戦うチャンスを得られたことに感謝します。
トルシエ監督の最終決断を信じ、
自分自身も、この4年間の経験を生かし、
自信を持って最後まで戦い抜きたいと思います。
I am appreciative for the opportunity to play for the team. I believe in Mr. Troussier’s final decision and hope to fight through the tournament with confidence from my experiences accumulated in the last four years.
Sono felice di avere la possibilita' di giocare per la questa squadra. Credo nelle scelte di Troussier e sfruttando l'esperienza maturata in questi quattro anni cerchero' di combattere, con massima fiducia nei miei mezzi, fino alla fine.

 無断転載は許してもらえると思う。

 これらの報道とコメントの発表を読みながら、ボクはなんだか忘れかけていた古い層の感情がわき上がってきた。こんな気持ちになるなんて思ってもみなかった。メディアは「当選」という言葉こそ使っていなかったようだが、「落選」という言葉は使っていた。(一人一人のコメントだけで、ひとつひとつのニュースになっているさまなんか)なんだか選挙速報みたいだし、当事者はそれくらい緊張したんだろうけど、まあ、結果も驚くようなものだったけれど、なんか、ボクにはわけのわからない古い感情がわき上がってきた。これはなんなんだろう?

 だれのコメントが誰のものかわかりますか?

 最後の4つだけを明かすと、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一、中田英寿です。
 小野、稲本、中田はそれぞれ公式ホームページでの公式のコメントです。中田は英語で、さらに数時間遅れてイタリア語でも発表してしています(おそらく英語は自分で書いたものでしょう)。
 中田の「トルシエ監督の最終決断を信じ」というコメントだけがすべてのコメントの中で異質だ。
 I believe in Mr. Troussier’s final decision ...
 この選抜がいろいろな話題を引き起こしそうだから、あえて一言いったのだと思う。そういうところが大切だと思っているのだ。
 昨日の(ということはこの発表前の)HPのメールにもこうあった。

「正直なところ、一体どんなメンバーになるのかは俺も気になるところ。この選手はチームにいた方が良いな〜っとか自分もいろいろと意見はあるところだが、この4年間一番長くチームと時を共に過ごし、近くで選手を見続けてきたトルシエの最終決定を信じたいと思う」

 そういうこと。

 中村にはかぎりない同情が集まるであろう。中山が入ってよかった、という声も多いだろう。
 でも勝負はこれかれだ。
 勝つか負けるか、その結果がこの選考でもって決まったとは言いたくない、そういう気持ちがある。でも、ここらへんがすごく日本人っぽいかもね?

5月16日(木)

「Number」の最新号を買って読む。W杯へむけてジリジリとした日々が続く中、ボクはいったい何度、バティのインタビューを読んだことだろう。ベッカムの記事を読んだことだろう。トッティの、ベーロンの記事をインタビューを読んだことだろう。サッカー選手の「語る言葉」にどれほどの面白みがあるのかというと、ほとんどなにもない。スカスカだ。サッカー選手はゲームの中でのみおのれを表現すればいい。それがすべてだ。
 しかし、ボクは読んでしまうし、雑誌を新聞を買ってしまうのだった。(つまり、外の世界は圧倒的に個人を凌駕し、揺さぶるのだった)
 でも、巻頭のフィーゴのインタビューは面白かった。(翻訳も上手いんだけど)
 ラテンな気質はそのまま、そこにインテリジェンスが感じられた。彼はとても特別な気質を持っている。「真の日本人」という言葉が不思議だった。「男の中の男」であるとか。日本食レストランを経営しているだけのことはある。
 ボクがロンドンですれ違ったポルトガル人もそうだったが、彼らは日本に対して特別な親近感を持っている。「ポルトガル人と日本人はよく似ているんだ。どっちも魚をよく食べるからな」と、相席になった中華街の食堂で、お互い、油っぽい肉メシを喰いながら、奴らは言った。
 しかし、ポルトガルは決勝まで進まないと日本へは来られない。

 もう一つ、面白かったのは、金子達仁の連載である。数週間をかけて、日本と対戦するチュニジア、ベルギー、ロシアを取材している、そのノンフィクション記事なのだけど、日本から離れて数週間、しだいに疲れもあり、金子氏の思考から日本的な(常識の)薄皮ははがれてきていて、半ば思考が朦朧としている感じで面白かった。朦朧としながらも理性は明晰なのである。
 そこで、中田英寿と川口能活のことを話している。自分のことは一切話してしないが、長く日本を離れている中で、日本を出て海外でプレーし始めたこの二人のことへ自然と想像力が及んでいる感じなのだ。
 それから、日本で、Jリーグでプレーした往年の欧州の選手にインタビューしつつ、なかなか秀逸な日本人論を展開している。
 こういう話は日本の中にいては発想してこない。
 まあ、彼の場合、非常に文才もあるので、日本にいる読者にも分かることしか、分かるように書いていないのだが。
 日本という身体と言ってもいい。その外側に出ると、外にある別種の現実がとたんに押し寄せる。そうすると、この国もコトも見えてくるのである。

 そのとき、人は難解なコトを考えざるをえないのである。
 難しい話が、現実として押し寄せてくるからだ。
 日本のテレビ番組のように、世界はわかりやすくはできていない。
 難しいコトは難しいのである。

 金子氏が突きつけられた日本人の姿とは、こうだ。
「なぜ、日本人(の選手)はとことん勝利を求めないのか。なぜ、闘う前から、あきらめてしまうのか」

 と、いうコト。
 このメンタリティーは、先日のノルウェー戦にも反映していると思う。

 ついでながら、このことを意識すると――

「各人は自己の利益を追求することに、言い換えれば、自己の有を維持することに、より多く努めかつより多くそれをなし得るに従って、それだけ有徳である。また反対に、各人は自己の利益を、言い換えれば自己の有を維持することを放棄する限りにおいて無力である」(『エチカ』第4部定理20より)

 というスピノザの言葉も、普段とは違った響きで迫ってくるのだった。

(にもかかわらず、勝負に勝つことだけが「自己の有を維持すること」なのか、という思いもボクには抜きがたくある。もし、勝負にいどみ、勝つか負けるかというだけが人生であるなら、憲法第9条とは、いったいなんなのだろう、と)

5月15日(水)

 新宿で甲斐と呑む。時が過ぎる。

 もし、来年、「A.R.」をやるとすれば、10年。
 初演から10年なのだ。なんてこった。
 NOISEはあそこで止まってしまったといっても過言ではない。
 (そのあと「朝、冷たい水で…」とか「青ひげ公の城」とかあったけど、やっぱり「A.R.」がひとつの、最後の、到達点だろうな。あれから10年である)
 なんてこった、である。

 しかし、「A.R.」とはなんであったのか、すなわちNOISEとはなんであったのか、さらに如月小春とはなんであったのか、立ち止まった時間はなにも教えてくれない。それほどに激しく、あのころ、ボクらは走り回り、また振り回されていたので、いまとなっては誰もあれがなんであったのかわからないのである。10年前のことである。
 その10年前を検証することになるのか、それとも今の自分達を検証することになるのか。

 「A.R.」とは、芥川龍之介の作品と生涯を描いたものだ。
 芥川は「ぼんやりとした不安」と言い残して自殺した。
 昭和がはじまってまだ2年。しかし、ヒタヒタと戦争の足音が聞こえていた時代である。
 如月さんはなにも思うヒマもなく、脳が破裂して死んだ。
 そして21世紀、今また確実に、戦争が世界の流行になっている。テロと空爆。イスラエルとパレスチナの問題はそのまま世界の縮図だ。この国では有事法案。キナ臭い匂いが漂っている。
 こんな時代に表現することとはなんであろうか?

 とにかく、いろいろな物事がめぐりめぐってきているのだ。

「たとえばある人は、偶然剣を持ったその手を、他人からねじり返されて自分自身の心臓にその剣を向けるように強制されて自殺する。あるいはセネカのように、暴君の命令によって自らの血管を切開するように強制されて、つまり、より大きな害悪をより小さな害悪によって避けようと欲して自殺する。あるいはまた、隠された外部の原因が彼の表象力を狂わせ、彼の身体を変化させて、その身体が前とは反対な別種の本性を(それについて精神が何の観念も持ちえないような本性を)帯びるようにさせられることによって自殺する」
「あえて言うが、なんびとも、自己の本性の必然性によって食を断ったり、自殺したりするものではない。そうするのは、外部の原因に強制されてするのである」
(『エチカ』第4部定理20備考より)

5月14日(火)

補筆。
ノルウェー戦を見て。
小野も、中田も、意外に存在感がなかったような気がしたと思う。
おそらく、彼らのチームでの役割というのは今回は、そういうモノなのだ。
自分ンらのチ−ムに合わせるとこんなモンかと。
レベル低いなあ〜と。
日本代表は、残念ながら、中盤からの底上げができないので、遅攻に関して、感覚がズレちゃったんあだな。稲本が押し上げた前半はまだしもよかったんったけどね。どこからが攻撃なのか、そこがハッキリするといいのにね。でも、つまらないパスミスはどうにかならないかねえ〜。意図がないんだよね。攻撃に関する。意図が!
いあや、意図はなくてもいいからさ、迷うなって! 迷うなっていうのに!

と、言っている気持ちはほとんど役者へのダメ出しに近いな。
迷うなって!

5月14日(火)

徳とは、自己固有の本性の法則に従って行動することにほかならない。また、各人は、自己固有の本性の法則に従ってのみ、自己の有を維持しようと努める。

 英語版でも"virtue"と訳されている、この、「徳」という概念がまた、曲者なのだ。スピノザがいう徳を、ここで、(やや東洋的に)意訳してまとめてみる。

●徳とは、一人一人が、(この世界の中で)自分を愛する心そのものであり、自分の身体組成を維持しようとする欲求そのものである。すなわち、幸せというものは、この欲求にしたがって自分を維持するところから生まれるのだ。

●徳とは、それ自体を求めるものであって、それよりも価値のあるもの、そのために徳が求められるようなものはない、そういうものである。

 自分を維持しようという欲求、すなわちこれが徳である。

 徳、と日本語に訳すと、儒教的な匂いがするが、スピノザのいうそれは、もっと実利的で、科学的な概念なのである。
 フランスの哲学者(おそらく20世紀最大の哲学者)であるジル・ドゥルーズの解釈に従えば、この「徳」というのは、「よきもの」である。人間が自分にとって素直に有益だと判断できるような「よきもの」のコトなのである。
 このような「よきもの」を素直に見い出すことが、なにより、もちろん、われわれ凡人にはとても難しいのである。

 ただ、スピノザはいう、
――人間にとっては人間ほど有益なものはない、と。

(と、書いている間に日本代表はノルウェーに、3失点を喫し、惨敗。おお。これでおそらく明日の新聞は、日本のリーグ突破すら危ぶむだろう。どっちでもいいけど。中田も小野もなんとなく様子を見ていた感じだし。稲本のいた前半の方がよかったのではないか。3失点を喫した日本の守備はもちろん課題ありだろう。そんなところかな。別に日本が活躍しなくてもW杯はW杯だし……。うううううううんんんんんんんんんんんんんん。)

おおおおおおお!

と、叫ぶ、僕らは日本人だね!
see you!

5月13日(月)

「感情はそれと反対のかつそれよりも強力な感情によってでなくては抑制されることも除去されることもできない」(『エチカ』第4部定理7より)

「善および悪の真の認識は、それが真であるというだけでは、いかなる感情も抑制しえない。ただそれが感情として見られる限りにおいてのみ感情を抑制しうる」(『エチカ』第4部定理14より)

「善および悪の真の認識から生ずる欲望は、我々の捉われる諸感情から生ずる多くの他の欲望によって圧倒されあるいは抑制されることができる」(『エチカ』第4部定理15より)

 スピノザの『エチカ』は全部で、5部に分れている。そのうち、第4部では人間の感情の力について、人間が自分の感情についていかに無力であるかを説明している(んだけど、その後半では、そうした感情に、いかに理性が立ち向かっていけるかも説明している)。
 感情を抑制するというコト。これは、現代人にとってもとても重要なファクターではないかと思う。ボクにとっても、『エチカ』を読む度にいつもいつも心に引っ掛かる一つの課題だった。
 しかし、いつもスピノザが(読む度に)書いているのは、「感情という奴は、もっと強力な別の感情でなくては、抑制も除去もできないんだよ」という真実である。
 「善および悪の真の認識」というのは、ボクらの理性の力である。理性は認識する力だ。物事を正確に誠実に、自分にプラスかどうかを認識する力だ。(決して、世に説かれている常識に盲目的に追従するコトではない。それすらも正確かどうか、自分にプラスかどうかを判断できる力だ。それはみんなが持っている。犬だって持っている)。しかし、そうした認識する力は、それだけでは、感情や欲望にはとてもかなわないというのだ。

 なぜなら、感情は(9日の日記に書いたように)身体より外の世界から襲ってくる物や人によって引き起こされるもので、ボクら個人の力は、外の世界によって圧倒的に無限に凌駕されるから。

 ということは、言い換えれば、ボクらは、感情的になるとき、自分で自分が抑えられなくなるとき、自分では自己主張をしているつもりでも、実は、外の世界によってただ単に振り回されているのにすぎない、ということである。

 感情の原因は自分より外からやってくるのだ。そして、ボクらはその外のものには、どうにもかなわないのだ。
 そう思って人を見て、自分を見ることができる(つまり「真の認識」を持つことができる)とき、人とぶつかってケンカしたり、不快に思ったりしても、「ああ、この人はいま、自分でも自分がどうにもできなくなっているんだな」「ホントはただ自分を愛しているだけなのに、その愛を上手く表現できなくなっているんだな」と思って、なんとも切なくなり、さしあたり自分の感情をやり過ごすことができる時がある。ときどきある。それもホントにときどきである。理性の力はそれだけでは、感情に負けるからである。

 では、どうすればいいのか?
 第4部、後半、話は二転三転、続くのであった。
 チャンチャン!

 というわけで、明日の深夜は日本代表戦だ。中田がでるぜ!

5月12日(日)

 今日は一日ベッドで犬と寝ていた。
 寝ながら、「原理」を読んでいた。
 これはスゴイことになってきたぞ、というコーフン!
 NAMのホームページを閲覧する。
 すると、LETSを手本にした地域貨幣(Qという)を実践しているではないか!
 LETSというのは、お金です。でも、国が発行管理するお金ではなく、地域住民の間でだけ流通する、いわゆる地域貨幣という奴です。地域貨幣は昔からさまざまな試みの歴史があるそうで、現在、LETS型のものも世界で2000〜3000種類が運用されているそうです。LETS型の地域貨幣の特徴は、無利子であること、紙幣でなく帳簿記載型であること、国が発行している貨幣と併用できること、それから、使う人が自分で発行すること、などです。
 そういう貨幣があって、実際に、モノやサービスが売買されているというだけで驚きですが、それが日本でもついに実践されているのです!
 くわしくは、QプロジェクトのHPを見てください。

 とにかくこれはすごいコトです。
 これが成功すれば、ボクらいま生きている資本主義社会そのものが根本的に変わります。「働くコト」の意識がまったく変わるでしょう。それから、ボクらのように、集団でモノを作っている人たちの、その集団意識も変わる。グンッと良くなることでしょう。

 今はまだボクも研究中です。この日記の中で報告したいと思います。
 では、おやすみなさい。

5月11日(土)

 Dotoo!の公演を見て書いたコラムで、ボクは結局、戯曲のコトにしか触れなかった。それを読んだ、当の作家である福田サンの日記を、人から聞いてDotoo!のHPに見る。
 かなり高飛車な物言いで書いてしまったかな。マイナスなことだけを書き連ねたかもしれないな。と、思いつつ、また一方で、一字一句、正確にボクの言葉を引用している、作家としての彼の居住まいに感心する。その人はそこに、「カチン」ときたと書いてあった。

「すみません、偉そうで。でも、純粋に、同じ舞台をつくる者として、他人事でいられなかったのです」というメールを送るまえに、気がくじけた。どうでいい、というのではない。あまり意味がないような気がしたから……。

 人それぞれ、コンプレックスを感じている。
 ボクはボクで、いつも、稽古の最中に「もっと芝居をわかりやすくしなければ……」という強迫観念に駆られて演出している。「言ってることがよくわからないよ」と言い返す役者にカチンと来たり、「よくわからなかったです」というアンケートに愕然としたりしている。
 故意に、こむずかしくしているつもりはなく、むしろわかりやくしようと努力しているけど、難しいものは難しい。しようがない。
「なぜLABO! の芝居は難しいと言われるのか」という、いくぶん開き直ったコラムを書いたくらいだ。根は悩んでいるのである。)

 学生時代、哲学を専攻していた。
 授業では、日本語で読んでもチョー難解な、カントとか、ヘーゲルとかをドイツ語で読まされた。(ホントは、読めるなら結局はドイツ語の方がわかりやすいんだよ。徹頭徹尾、論理的で正確な言語だから)
 もちろん、さっぱりわからんちんぷんかんぷん。
 わかったような気になるのは簡単で、けど、いざそれで論文を書けと言われるとやっぱりぜんぜん理解していないのに気づく。それでも一年、二年としぶとくつき合って行くと、しだいに、見えなかった文章の道端に、スミレが咲いていたり、トンボが飛んできたり、ああ、ここは畑だな、とか、ここはこれから家が建つんだな、くらいの散歩の愉しみは見つかるものなのである。(それには、ただ、たとえば「純粋理性批判」だけで何千冊と出ている解説書のうちの三、四冊くらいは読まないとだめだけど……)

 哲学や宗教が、難しい言葉を使うのは、そう言わなければ、誰に対しても正確に、誠実には伝わらないジレンマがるからだと思う。書けるンなら、簡単に、日常言語で書きたいと思ってるはず。しかし、日常言語では、日常の裏に蠢いている構造とか、無意識とか、見えない枠組みとかを表現できない。それができるのは、詩だけだ。

 そんなモン読まなくったって、人生はしあわせになれる。
 もちろん、そう。
 誰かが代わりに読めばいいんだから。
 たとえば、カントの「純粋理性批判」。そこには、サッカーやコンピュータのように、だれもが楽しめる世界はない。しかし、おそらく誰かが読んで、その世界に遊び、くじけ、そして、そこで得た収穫をなんらかの形で、世界に還元することで、人々がしあわせになれる、そういう「本」なのだ。

 パルコブックセンターで、柄谷行人編著の「原理」を買う。読み始める。
 この本は読んで終わり、という本ではなく、読んだら実践するための本だ。
 実用書だ。希望のための、しあわせのための実用書だ。
 柄谷サンはマルクスを読み、カントを読み、その「批判」の方法を、ボクらが生きる実生活に広く、強く、根本的に活用しようとしている。
 その彼が、この世界の中で、21世紀のために、行動を起こした!
 そう告げている本なのである。
 具体的には、新しい生産協同組合を結成した(といって正確かどうか、まだボクにはわからない。勉強中――)のである。それを、NAM(New Associationist Movement)という。そこにあるのは、非資本主義的な生産と消費のかたち。新しい地域貨幣としてのLETS、などなど。
 すべて現実の話である。難しい「原理」がなくては、にっちもさっちもいかない現実、しかし、ここに希望がある。

 かなり、気になるではないか……。

 くわしくは、NAM(New Associationist Movement)へ。

5月09日(木)

 なかなか毎日書けない日記なのがシャクである。

「自然の中にはそれよりもっと有力でもっと強力な他の物が存在しないようないかなる個物も存在しない。どんな物が与えられても、その与えられた物を破壊しうるもっと有力な他の物が常に存在する」(『エチカ』第4部公理より)

 このことからスピノザは次のコトを帰結する。

「人間が自然の一部分でないということは、不可能であり、また人間が単に自己の本性のみによって理解されうるような変化、自分がその妥当な原因であるような変化だけしか受けないということも不可能である」(『エチカ』第4部定理4より)

 ここでいう自然というのは、おのれの体の皮一枚隔てた、外の世界全体のコト。それで、個々の人間は絶対的に自然の一部分なのであり、それを超え出るコトはできない、というのだ。若い時、この「事実」は心底ボクを震撼させた。
 ボクたち個々人は、みな、自分への愛情でもって、やっとのこと、どうにかこうにか生きていて、この愛情がすなわち「自己の本性」という奴なのだが、しかし、それは絶対的に外の世界の力によって凌駕されるのである。
 「自己の本性」のままに生きてゆける人はいない。ボクらは、世界から徹底的に侵略しつくされ、その極みで、喜んだり悲しんだりしている、まるで濁流の中の枯れ葉みたいに。感情というものは、恐れも焦りも、不安も安堵も、希望も絶望も、やっかんだり嫉妬したり、自己嫌悪したり傲慢になったり、あっちに揺れ、こっちに揺れ、あげくは狂ったり死にたくなったりするが、そのすべて、たいていは絶対的な外の世界の力に揺さぶられるからだ。
 そういう認識が、ボクの芝居の根底にある。

 少しずつ、また『エチカ』を読み始めようと思う。

5月07日(火)

 疾風DO党、あらためDOTOO(どとー)の公演を見に行く。
 マジなのか、笑いだけなのか、見極めるのが難しかった。
 詳しくは、また、コラムで書くだろう。

 ボク自身は、芝居の出来の如何にかかわらず、不思議に、芝居屋としての元気が出て来たのだった。自分がどこにいるのか、何を感じることができるのか、何を作りたいのか、そういうことを認識できたせいだと思う。

 外は冷たい雨が降っていた。
 如月さんのことを、ふと思う。如月さんが作ろうとしたモノは、やはり変わっている。フツーじゃない。けど、本質的だ。すこぶる本質的だ。その本質的なモノがまだボクらには十分に体現できなかったし、如月さんにも表現しきれなかった、と、そういうことなんじゃないか。

 一言でいえば、彼女の表現の方向は「表現主義」であった。
 絵画で言うとムンクの「叫び」だ。

 ボクは、そこに、日本画のような「空白」を、なんとかして、継ぎ足そうと思う。「隠す演技」を接ぎ木しようと思う。
 水面に映った月、その下に、死んだように眠っているフナやタニシを想像させることができないかと思う。

 静謐さ、と一言で言ってしまう。

 深さ、と、高さ。
 冷たい雨に濡れながら、この雨つぶが、どんな高い天空の、虚空の極みから落ちて来たのか、想像してみよう。どんな孤独な旅をしてきたのか。

「水は地球上でもっともエネルギーを溜め込むことのできる物質である」

 さようなら!

5月05日(日)

 深夜、セリエA最終節の試合をフジテレビで見る。どーでもいいような試合。

 夕べ、久しぶりに会った、大学時代のクラスメートは、日本テレビでドラマの演出をしている、とのコト。頼もしい限り。ともさかりえ主演のドラマを作ったということだが、ボクはずぼらで見れなかった。

 昨日、鎌倉へ、散策へ行った。
 円覚寺から、明月院、健長寺まで。北鎌倉から、鎌倉駅まで。疲れたけれど、愉しかった。およそ、1000年前、鎌倉は新しい「国」を作るために、こうした寺でらを建立したのだ――。ふと、今の日本のコトを思う……。
 円覚寺の静謐さと、健長寺の荘厳さ。そこに、国家を担おうという、気負いのようなものを感じる。

 円覚寺の最奥、黄梅院は、イギリス庭園のように花々が華やかで、一匹の青大将がスルスルと梅の幹を登っていったのには、心が晴れた。弁天堂のリスもかわいかった。
 健長寺の最奥は、危うい。正統院には、健長寺の開祖、大覚禅師の像が祭られているが、その左脇、石段を上がったところにある「後嵯峨天皇の分骨」の庭は、背筋も凍るような忌わしい場所であった。怨念は今もここにくすぶっている。

 そうして、ふと、今のこの国のことを思う。
 国、というものは、けっしてナチュラルなものではない。それは、実生活の視点から見ると、どうにも矛盾に満ちているではないか。
「御国のために」と言って死んでいった、太平洋戦争の青年たちには、「国家」という矛盾が凝縮されている。
 もちろん、民衆は、経済的に豊かに暮らしたいと思う。そして、戦争がその「豊かさ」をもたらすこともある。しかし、それがホント−の豊かさであるのかどうか、考えてみる必要がある。
 たとえば、この「日本」という国が侵略されて、「日本」が歴史上からなくなったとしても、それはそれでいいじゃないか、というくらいに思う。そういう軟弱さが、いまの日本の若者にはある。それはそれでいいんじゃないかと思う。

 さしあたりはW杯だが。これも日本が勝たなくてもいいように思う――。

5月01日(水)

 夜になるとまだ肌ざむくて、公園の木々の影が深く、濃く、揺れていた。

 芥川の『歯車』を読む。会社帰りの疲れた心にくわえて、怖かった。精神分析の本を読む時と同じ怖さで、自分の中の「狂気」を引きずり出されてしまうような怖さで、それは、けっして気持ちのいいものでも、好きなものでもない。まいった……。
 それでいて、ゼンゼンわかんないのだ。芥川がどこにいるのか。何を書きたかったのか。思考の射程距離がつかめない。センスもわからない。これもまいった……。
 こいつは時間がかかりそうだ。でもいい、時間はたっぷりとあるノダ。

 久しぶりに自分で訳した狂言を読む。こいつはいい。くだらなくていい。ここには、人生は、生きていいいノダという確信がある。確かな手触りがある。
 狂言はいいなあ〜。またやりたいなあ〜。

 メニューページに、「最近気になるページ」のリンクを加える。
 いま、世界は裏で秘密裏に、おおやけに、激しく進行している。もしかすると、知らないうちにヤバイことになっているかもしれないと思う。
 端的にいえば、いま、世界は「ものすごく戦争したい」と思っている連中によって牛耳られているらしい。
 今日のニュースの「防衛庁を防衛省にすれば、国連の常任理事国に」というのも、笑えないニュースだった――。

 歯車が回っている……。

2002.04

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