2002.December

12月25日(クリスマス)

 この時期の芥川は(というのも結婚後すぐの時期ということだが)、とにかく焦っているようす。何に? 作家としての自分に、である。しかし、名声でもない、本の売り上げでもなく、芸術としての完成度に対してである。
 こうして家を構えたのだから、僕はボクのやるべき仕事をしたい。
 そういう気負いがひしひしと伝わってくる。

 必死の思いで、大阪毎日新聞の社員として小説を書き月給をもらうという契約を取り付けて、海軍の英語教師を辞する算段を計る。そうして結婚後1年して、鎌倉から実家の田端へと移り、純然たる作家生活を始め、東京で作家仲間との蜜月の関係を回復するのだが……。

 僕がショックを受けた事実はここにある。
 なぜなら、最期の最期に、芥川は「自分の人生のいちばんの失敗はあのとき鎌倉を捨てて東京に戻ったことである」と言っているからだ。この言葉は妻の文さんの「追想 芥川龍之介」にもあり、短編「歯車」の中にもある。
 このことは芥川の「敗北」(「或阿呆の一生」の最終節)の意味と重なっているはずだ。そこには夫婦生活というテーマが潜んでいるはずだ。

傾城の蹠(あしうら)白き絵踏かな

12月21日(土)

 芥川が塚本文と結婚式を挙げたのは、大正7(1918)年2月2日。当時、芥川は横須賀の海軍で英語を教えていたので、結婚後も二人は鎌倉に新居を構えた。それが3月のことである。
 これを境に、芥川の手紙のテンポは急速に勢いを増すように感じる。これが大きな気分の転換点になっていることは間違いない。
 次の手紙は結婚式の3日後の手紙である――

僕は今日ユーディットをよんだ いや今もよみつつある さうして恐しい感激に打たれつつある
(中略)
……このごとく捕え、このごとく描いてこそ真の悲劇は誕生する 誰かこれを書くものはないか いやあるいはわれわれの中の誰かがこれを書かなければならないのではないか 僕は恐しい気がする あらしの海を前にしてそれへ舟を出せと云ひつけられたやうな気がする 出せと云ひつけられたものは無数にゐる。僕もその一人だ 君もその一人だ しかしあらしは**とした波を煽ってゐる する事はやり切れなく恐しい事だ 僕はいい加減な情調や哲学が一時に頭から吹きとばされてしまつたやうな気がする
(中略)
……こないだ谷崎にあつた あいつも恐しい勢で勉強してゐるよ 当分は仏教のコスモロギイをやると云つてゐたつけ 倶舎をよむのを楽しみにしてゐんだ 僕は今うちから通つてゐる 近々鎌倉へ移るつもりだ 新婚当時の癖に生活より芸術の方がどの位つよく僕をグラスプするかわからない(松岡譲宛て 1918.2.5)

 この勢いがすぐに「地獄変」を生み出すことになるのだ。
 結婚→「生活より芸術」→「地獄変」
 ここには説明しがたいが、なにかしらの連関があるように思う。
 同時にこの時期は、谷崎潤一郎の影響も大きいのだが。

傾城の蹠(あしうら)白き絵踏かな

12月17日(火)

 夏目先生の死から、1年の婚約期間を経て、文さんと結婚してすぐ「地獄変」を書くまでの時期の芥川の手紙を読む。
 編集の丁寧さもあって、しだいに一つの物語を読むように、芥川の心の推移がわかってくる。
 人の手紙を読むと云うのはのぞき趣味もあるが、虚構と真実のあわいがなんとも僕に心地いい。
 芥川は、私小説の上手さにおいて志賀直哉へのコムプレックスを持っていた。小説よりもあなた本人のほうが魅力的ですね、というような云われようがとても怖かったのだが、手紙では形式への美意識が薄らいでいるから、小説よりもよぽっど正直に地が出ているのだが、それでもやはり虚構の部分がある(ように感得される)。それは書く人向けに巧みに文体を(ということは自己を)変えていることからもわかる。
 中でも婚約時期の文さんへの手紙はとても微笑ましい。子供へ向けて書くように、少し宮沢賢治の文体を思わせ、ゆくりと慎重に進むのだ。

文ちやん もう十一時すぎだが、奮発してこの手紙を書きます(1917.9.28) 

文ちやん 先だっては田端の方へ御手紙を有難う 皆よろこんでいました(1917.10.9)

拝啓 今夜は色々御馳走になりました おかあさまによろしく 御礼を申上げてください 汽車に乗りながら ちょいちょい文ちやんの事を思ひ出して、横須賀へ着くまで、非常に幸福でした(1917.11.6)

 ある種のやさしい気の使い方にあふれている、ザックバランにというのとは違うのだが。

 二人きりでいつまでもいつまでも話していたい気がします さうしてKissしてもいいでせう いやならよします この頃ボクは文ちやんがお菓子なら頭から食べてしまいたい位可愛い気がします 嘘ぢゃありません 文ちやんがボクを愛してくれるよりか二倍も三倍もボクの方が愛しているやうな気がします
 何よりも早く一しょになつて仲よく暮しませう さうしてそれを楽しみに力強く生きませう これでやめます(1917.11.17)

 実際は約束をしてから結婚まで2年近くあった。その間、なんどもなんども「早く一しょになつて仲よく暮しませう」をくり返している。これが、あの芥川の文章か?というと死んだ本人も嫌だろうけど、多少の受け取る相手への配慮と計算もあってのことだろうが、事実この時期、神奈川の海軍で英語を教鞭していた彼の心のテンポはどこかこんな感じなのだ。すごく可愛い。
 そうして、他人の奥さんにいやに興味を持ちつつ、上の手紙の一か月後の手紙には、こんな手紙もある。

 どうもウハキ(浮気)をしているやうな気がしてくだらなくつていやだ 来年はベンキョウしたい 僕は最近横須賀の芸者に惚れられたよ それを小説に書かうかと思ったが天下に紅涙を流す人が多いからやめにした(1917.12.14 松岡譲宛て)

 いや、でもこれも可愛いな、微笑ましい。結婚前の男子の動揺と考えれば。
 気になるのは、これらと同じ時期に親友の作家、久米正雄に起きた事件である。手紙からは事件の詳細はわからぬのだが、芥川もこれには大きく動揺している。

 ここに二人の許嫁の男女がある さうしてそれが如何なる点でも幸福だったとする その時その許嫁の男がこんど久米の書いたやうな小説を書いたとする――としてもその間には何の波瀾も起らなくはないだらうか だから久米のあれを発表したと云う事は周囲とかフィアンセとかに対する目があいてゐないと云う愚によるのだ が、周囲は存外わかってゐたかも知れない 同時にそれ丈フィアンセに対しては盲目同様ぢやなかつたらうか こんな考へ方をするとあいつが気の毒になつて来る
(中略)
何か変動が起るかも知れないし又起りさうだがその原因はやつぱり自然に背いた罰だと思ふ どうもあの事を考へるとへんに不安にあつていけない(1917.11.1 松岡譲宛て)

 この時期の芥川の一番のフランクな手紙相手はこの松岡である。
 この久米の書いた小説がどういうものだったのか、そして久米自身のどんなことが起こったのかは分からない。推測されるのは、「自然に背いた罰」という表現から漱石の『それから』を思い出すコト。つまり夫ある女性とのカンケイである。当時は姦通罪として、告訴されれば拘留される重罪であったから。実際に若い頃の北原白秋は留置所に入れられているし、有島武郎はそれを苦にして心中しているのだ。
 僕がこのことを気にするのは、後年、結婚後に芥川自身がどうもこの「姦通」を犯しているらしく、そのことを切実に悩んでいたようだからである。
 自殺後に発見された手記の一つ「闇中問答」にはこうある――

 或声 しかしお前のしたことは人間らしさを具えている。
 僕 最も人間らしいことは同時にまた動物らしいことだ。
 或声 お前のしたことは悪いことではない。お前はただ現代の社会制度に苦しんでいるのだ。
 僕 社会制度は変わったとしても、僕の行為は何人かの人を不幸にするに極まっている。

 或声 しかしお前は正直だ。お前は何ごともあらわれないうちにお前の愛している女の夫へ一切の事情を打ち明けてしまった。
 僕 それも嘘だ。僕は打ち明けずにはいられない気もちになるまでは打ち明けなかった。

 或声 お前は愛のために苦しんでいるのだ。
 僕 愛のために? 文学青年じみたお世辞は好い加減にしろ。僕はただ情事に躓いただけだ。

 芥川の最後に、その心のうちには罪の意識というものがあった、と僕は考えている。社会の不安、芸術上の不安、加えて、人生(家庭生活)の不安もあったと考えている。彼はじつは、誰よりも「美しい人生」というものを切望し、そしてそれを諦めたのでないかと。

12月16日(月)

 夜は曇天がさいわいして、ひさしぶりに暖かくなった。 
 1か月分の朝日新聞の切り抜きをする。
 11月に亡くなった家永三郎氏の記事から――

 神の存在を信ずることはできなくても、罪悪の自省は何人にも可能であらう。神を信じ仏を念ずることはむつかしいかもしれぬが、自己の罪業を直視することは容易である(朝日新聞12.9)

 という家永氏の文章があったが、残念ながら「自己の罪業を直視すること」ことほど難しいことはにないように思う。毎日浮かれているような僕にはなかなか、そうしようと思っても実感できぬ。自分が罪を犯している意識。
 しかし、事実、僕らはたくさんの生命を殺して、その上で生きているのだ。教育もマスコミも牛や豚が殺される屠殺場の現場を公開することはない。しかし、毎日たくさんの生き物が殺されているのだ。にもかかわらず己の罪を、僕らは意識することができぬ。
 僕の存在や言葉がもしや誰かを傷つけているかもしれぬ。その傷を僕はうまく生かすことができずに、生殺しにしているかもしれぬのだ。

 住民が戻れないまま、放置された三宅島では、30年振りにサンゴが復活し、森林地帯は生き生きと繁茂していた……(朝日新聞)。

 今日、自衛隊のイージス艦が不合法にも、アメリカの戦争支援の為に出航した。見送る家族の不安と、反対の声を上げる市民団体。その家族と市民団体とが重なる接点がない。そのことがさらに僕を不安にさせる。反対の声を上げるのは、正論なのだが、事問題が自分の家族や親族に及ぶと僕らは途端に弱くなる。モノが言えなくなってしまって、体勢に流されてしまう。
 身近な現実こそが僕らの身体と心情とを育むのだが、しかし、身近な現実だけでは僕らは気がつくと身動きできなくなってしまう。仕事もしかり。恋愛もしかり。遠くを見る視点はどこから得る事ができるのか?
 そのように、視界を狭まれ太中で、大平洋戦争ははじまったし、戦後の高度経済成長も実現されたのだ。

12月15日(日)

 昨日は「A・R」のチラシと情宣用の写真撮影で、両国から向島へ回る。くしくも忠臣蔵の討ち入りの日。観光のオバサンたちが多数。吉良邸跡の路地では、町内会のお祭りだった。モデルの芥川(甲斐智堯)とカメラマン(片桐久文)との3人の撮影隊。冬の日はそうそうに暮れて消えたが、なかなかよい写真が撮れる。
 今日は如月さんのお墓参りで吉祥寺から三鷹。くしくも(?)3回忌の法事だった、遺族の方々と会う。本当に偶然。いっしょに行った真澄さんには、NOISEのメンバーには連絡がなかったのだ。如月さんのお母さまと挨拶。たまたまだったのだが、連絡がなったことをお母さんは詫びていた。みなさんが去った後で、ひっそりと真澄さんと二人だけで、手を合わせた。10分ほど真澄さんは、その場を動かなかった。墓地の路地にはまだ雪が残っていて、足の裏からじんじんと冷えてくるのだった。墓石は、堂々としていて、洗われて清々として、静かだった。
「お墓はなにも語りかけてこないよね」と真澄さんがいう。
僕は「A・R」をやりますよと、静かに報告した。
薄曇りの空の下で、芥川と如月さんがダブって、消えた。

 夜、大江さんの「セブンティーン・第2部」を読む。それから聖書を少し読んで、芥川の日記を読む。

 妻となった文子さんへの手紙。その叔父で芥川の高校時代の同級生の山本喜誉司氏への手紙。「新思潮」の作家仲間(ライバル)への手紙。それから夏目先生への手紙と、その死に際し、ショックを告げた手紙。大正14〜15年、この時は芥川23〜24歳、まだ彼は生きていたのだ。
 直接ではないが、これを如月さんも読んで、ああ、「A・R」へ取り入れたんだなというくだりもあった。

今東京からかへつたばかりです 東京へ行っては二晩つづけて御通夜をしてそれから御葬式のお手伝いをして来ました 勿論夏目先生のです 僕はまだこんなやりきれなく悲しい目にあった事はありません 今でも思い出すとたまらなくなります 始めて僕の書く物を認めて下すつたのが先生なんですから さうしてそれ以来始終僕を鞭撻して下すつたのが先生なんですから

 僕は漠然と、如月さんの事を思い出す――。

逝去されたあくる日に先生のお嬢さんの筆子さんが学校へ行かれたら国語の先生の武島羽衣が作文の題に「漱石先生の長逝を悼む」と云ふのを出したそうです さうしてそれを黒板へ書きながら武島さん自身がぼろぼろ涙をこぼすので生徒が皆泣いてしまつたさうです……

 夏目漱石が死んだのも寒い12月だった。以上は、婚約前の文子さんへ宛てた手紙より。

いつ僕のゆめみてゐるやうな芸術を僕自身うみ出す事が出来るか 考えると心細くなる
すべての偉大な芸術には名状する事の出来ない力がある その力の前には何人もつよい威圧をうける そしてその力は如何なる時如何なる処にうまれた如何なる芸術作品にも共通して備わつてゐる 美の評価は時代によつて異つても此力は異らない 僕は此力をすべて芸術のエセンスだと思ふ そしてこの力こそ人生を貫流する大いなる精神生活の発現だと思ふ 此力に交渉を持たない限り芸術作品は単なる区々たる骨董と選ぶ所はない

 親友山本喜誉司ヘの手紙より。
 同じ作家相手の手紙と違って、山本への手紙は、芥川の手紙の中でいちばんラフで率直で、僕は好きだ。山本は同じ東大へ進むが、学科は理科系で農学だった。くり返すが、妻になった文子の叔父でもある。

 話は戻って、大江さんの「セブンティーン」には感嘆してしまう。この小説についてはたくさんの説明を加えなければならないが、その任は僕には重い。僕にいえることは、おそらく、大江さんは、カフカの言「お前と世界との決闘に際しては、世界に介添えせよ」という定言を芸術の実践にうつしたのではなかろうか?
 およそ思想的には敵であり、嫌悪すらするはずの右翼の少年、60年安保の中で社会党の委員長を刺殺した17歳の少年の魂をおのれの心と身体のうちによびこもうとしている。さまざまな場面において、僕の信をゆるがせにしない真情がふれている。おのれを仮構した作家と少年との対決の場面、コトを起こした後の少年と検察官との対話の場面。罪とは何か。殺人の動機とはどのようなものか。そして、事件の真実(真相ではない)とは、どのようなものなのか。
 最後に、恍惚として自殺する右翼少年の中に、今の僕は芥川との比較を考えてしまう。

12月12日(木)

 申請書を書き上げる。眠い目をこすりつつ「ガラスの動物園」と「リア王」を読む。どちらもビビッドに現代的な問題をはらんでいる作品だ。
「ガラスの動物園」については、(「A・R」もそうなのだが)、第2次世界大戦前の世界状況を、僕らはそこに追憶せざるをえない。よく似ている。違うのは、今は核兵器が存在しているコト。
「リア王」はさらに普遍的だが、下にある2日分の日記にある「罪」のコトがかかわっている。たとえば、ゴネリルの最後の台詞はこう――

「だからどうだと言うのです――法は私のもの、あなたの自由にはならない、誰が私を訴えられるというのです?」(福田恆存・訳)

 報道が伝える林被告の様子が思い出されないだろうか?
 法とは、罪とは、どこに根拠があるんだろう?

 神保町で驚くべき雑誌を発見。といっても新刊だけど。
 戦後日本の文壇の中で、著者が自ら出版、公開を禁じた幻の小説が二つあって(60〜70年代の話だけど)、一つは深沢七郎の作品で、もう一つは大江健三郎の作品だ。どちらも右翼の暴力がかかわっていて、いかにも時代性を感じさせる理由なんだけれど、それが、掲載されていた――。雑誌そのものは俗悪、低級。
 だけど、深沢さんも大江さんも僕にとっては特別な作家なのだ、驚いた。
 深沢さんの作品を読んだ。読んでもっと驚いた。これはたしかに「やばい」と思った。10年前だったら驚かなかったかもしれない。けど、今はまた「やばい」と感じる感性が自分の中にあることに驚いたのだ。
 大江さんのはまだ読んでいない。
 さまざまなスパンで、目に見えない形で、過去の亡霊が蘇ろうとしている。
 「ぷちナショナリズム」の時代、なのか。

12月10日(火)

 今週は来年度の助成金の申請書を仕上げなければならない。13日の金曜日が〆きりだ。

 昨日も書いた「罪」の話だが、今日の夕刊には、新潟の少女監禁事件の高裁判決の記事が出ていた。地裁の法的判断をしりぞけた点は、やはり正しいと思う。たとえ、被害者の家族が「心情的に」いかに納得しなかったとしても。
 むろん、僕は民事訴訟そのものを否定する者ではない。民事には民事の、刑事には刑事の役割があるのだから。刑事裁判では明らかにならなかった事実が、民事裁判によって究明されることもあろう。そして、民事裁判は刑事裁判では解決できない範囲を補完する役割もあるのだろう。
 今のところ、しかし、僕にとって「民事」と「刑事」のちがいがよくわからない。民事とは、そもそも市民相互の利害対立を、国家的権威によって調停するためのもので、刑事とは、国家主権に対する犯罪そのものを罰するためのもの、という教科書的な理解しかない。
 そこで、現在問題となっているのは、国家主権とはすなわち国民であり、どんな犯罪の被害者ももちろん国民であるから、刑事事件においても被害者は当事者たりえるのではないか、という意見だが、しかし、被害者は国民全体=国家主権全体ではない。
 なにを、くだらん抽象論を、という向きもあろうが、しかし、法とは、とりわけ抽象度の高いものではないだろうか?
 僕が世間に対して、どうしても首をかしげてしまうのもこの点だ。例えば、今日も、新聞記事やHPなどにこんな言葉が載っている。「国民の法感情」「法的センス」などだが、どうであろう。感情やセンスといったものがどれほど確かなものなのであろうか?
 かつては、「情に流される」とか、「それは感情論だ」とかいえば、否定的な意味であったが、今の世の中の特徴は、世間的に認める限りの感情はそれだけで正しいものなのだ、という風潮である。被害者の、加害者への憎しみや怒りはそれだけで正しいものとされるのだ。
 妙なことを云っていると思われるかもしれない。しかし、僕が(不祥ながら)持っている、持ち続けている哲学に従えば、「憎しみ」も「怒り」も、それ自体が悪しき感情なのだ。そんなものに身を任せてはいけないのだ。そんなものからは身を引き剥がすよう本人も努力しなければいけないのだ。そして、たとえ民事裁判で金銭的な損害賠償を勝ち取ったとしても、そうした悪しき感情から逃れられるとはとても思えないのだ。そうした感情は、ますますつのり、究極的には加害者=犯人を抹殺するまでつのるであろう。奴が生きている限り、奴を見る度、奴の情報を得る度、何度でも悪しき感情は湧き起こるだろう。だから、そうした感情にとらわれる自分に身を任すことなく、どこかで、なにかを「許す」という心の作業が必要なのだ。
 心の傷をしんじつ癒す、ということがれば、やはり、そういうようなことではないのか。
 拉致被害についても僕は同じことを考えている。

12月9日(月)
 やらなければならないことが、山積みのなか、雪がしんしんと降り続いた一日。高村の結婚式の後、芥川の「西方の人」を読んで以来、「新約聖書」をたどたどしく読み始める。くわえて、さまざまな、世間の出来事が気になって、「罪」とは何だろう?と思う。自殺まぎわの芥川の神経の中には、確かに、「罪」ということがある。僕にしかりと捕えられているわけではないが――。被害者が刑事裁判の当事者となって、被告に質問するように、被害者団体が要請している。それ以前に、僕には、民事裁判で損害賠償を請求して、加害者から「お金をふんだくる」という考え方がよくわからない。被害を受けた者は、当たり前のように「報復」してよいという通俗意識があるらしい。いつから? もちろん、9.11以後ということもあるが、日本では、95年のオウム事件が大きな影響を与えているように思う。被害者が加害者に損害賠償を請求してそれで少なからず何かが賠償されるというのなら、「罪」も「罰」も、そもそもこの世に要らぬではないか。加害者の犯した犯罪が、何に因っていたか、原因はなんであったか、それを見極め、そこから「罪」を量り、くわえてその大きさから、社会的な賠償としての「罰」を定めるということが在るのではないか? 被害者の心情的な傷の深さはむろん、外部の者がおし測ることのできるものではないが、しかし、加害者から金銭的な賠償をふんだくることで、つまり多少なりとも「報復」することで、やはり心情的に収まるものがあるのなら、はじめから「そんなもんかよ」と思う。何が、あなたの大切なものを奪っていったのか? どこに「罪」があるのか? なぜ人は振り返って考えないのだろう? 
 「A・R」も、芥川の短編もたくさんの罪人が現れる。罪人の心のうちが描かれる。しんしんと、心の中に積もる問い、「罪」とは何だろう?

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