2002.October

10月30日(水)

「海辺のカフカ」を読みはじめる。読み始めて、今日で2晩目、18章目で、溜め息をつきながら本を置く。

 最初、さまざまな象徴がボクを引き寄せたコトは事実だが、ここで、ややトーンダウンする。引き寄せた、それは、いくつかのノッピキならない固有名が、象徴的にボクを引き寄せたから。山梨。毒ガス。ナカタさん。などなど。しかも、医者の名前は中沢さんだった――。
 これらの符号は、普段からボクの個人的な世界の中で結びついているものだ。偶然にすぎないのだろうか?

 しかし、ふと、思ったコトは、「村上サンは、無意識に歳を取ることを回避している!」というコトだった。
 太田省吾と血ヘド吐いて戦った後では、さまざまな物語がボクのワキをさらりと素通りしていった。
 村上サンは、結局、私小説作家なのだ。

 この小説は、ここまでのところ、他者の存在が希薄である。そして、村上サンにとって、他者とは、常に「女」ではなかったか?
 18章目で、佐伯さんという女性のエピソードが語られるに及んで、ボクはちょっと辟易してしまった。
「村上サンは、無意識に歳を取ることを回避している!」

 高校1年の時に、「ハードボイルドワンダーランド」が出て以来、ほぼリアルタイムで読んできた、唯一の作家だけれど、こんなふうに、気持ちは停滞したことはなかった。こういう場合、最後まで読み続けるには、或る種の「義務」を感じてしか読めなくなってしまう。

 紀行文的なくだりは素晴らしいが……。
 もちろん、さまざまなコトは受け手側のボクの個人的な事情だ。

10月27日(日)

 というわけで「ピアニッシモ」が終わる。
 じつに160時間ほどもかけてじっくりと作った作品が、正味4時間(1時間20分×3回)ほどで消えてしまう。形となってはどこにも残らない。残すことができない。たとえば、この公演をまたどこかで再演するとなっても、また何十時間もの稽古が必要になるだろう。複製不可能な、人との出会いの場、そういうものをすべてひっくるめて、ボクは「演劇」と呼びたくなる気がする。

 たくさんの人が、こんなシンプルなスタイルに共感してくれたことが嬉しかった。コトバと声と音と身体のイメージが、そこにはない、お客さんの記憶の何かと結びつく。記憶の映像となって、幻視される。そういうことが起こるのは、そこに余分な情報がないからだ。
 今回、いちばん気にしたのは、台詞となる声の「ひびき」と「高さ」と「テンポ」だった。とても勉強になった。音楽的に考えるコト。気づくのが遅すぎたかもしれないが。

 しかし、あの二人の女の抱えている世界は、とても限定された人々、つまり、女であって、ある年齢であって、ある立場にいる人びとには、とてもよくわかるのだろうが、そうではない人びとには、まだわかりにくかったようだ。
 いろんな人によりわかりやすく伝える工夫は演出の責任だ。まだまだだと思う。まだ、甘いと思ってしまう。

 最後に。二人の女優の才能には、感謝。大きな拍手を!
 そして、久しぶりの稲葉さんと、LABO!のみんながいてくれたコト、手伝ってくれたみんなにも感謝。
 本当に素敵だった。

10月24日(木)

 ついに明日が本番である。

 明日、明日、明日、人生は死への足取りだ、とマクベスは言ったが、しかし、明日、朝、目を覚ますことすら苦しい人々が、世界にはたくさんいるのだ。
時には僕もそのひとりだ。
 明日、勇気をもって目を覚ますことができますように――。

 ダイジョウブ。

 ダイジョウブ?

 ダイジョウブ。

 最後の最後で(いつものことだが)、よい作品になった。
 間に合った、という心持ち。
 大丈夫!

10月08日(火)

「ピアニッシモ」快調に、ジリジリと、ゆるりと進む。
 なにしろ、太田省吾だ。相手が悪い。手強い脚本家の一番手だ。ボクにとっちゃ、まだ別役サンや唐サンの方がとっつきやすい。しかし、ボクには、わかる、これは、とんでもない脚本だってことが。

 人間ノ罪ハ、焦リト嫉妬カラ、スベテ生マレル。

 焦ってはいない。落ち込んでもいない。
 日々、1シーン、約3〜4ページくらいしか進まないのだが、それも仕方がない。余計なコトはいっさいしていないハズだ。
 俳優の二人が素晴らしい直感を持っているので、停滞することはない。カタツムリのような歩みだが、僕らは確実に進んでいる。霧に閉ざされた魅惑の街を。

 ただただ、赤裸々にその場に佇むコト。
 生きるのは恐ろしいコトだ。
「女は存在しない」というラカンのコトバが、今のボクの座右の銘である。
 舞台づくりの現場に常識は存在しないのだ。

 ジリジリと、ゆるりと、快調に!

仕事の合間に → おまけの写真ページ その4
いま仕事でやってるジャポニカ学習帳のおまけの図鑑ページつくりの余波で。

これはブタオザルの子どもたちと、ニンゲンの母親。
ん? ホントの母親なワケないよね?
上にいるのが、ホントの母親? それとも父親?

10月01日(火)

 台風一家じゃない、一過であ〜る。(ちなみに、あ〜る、というのはDarieサンの口調であ〜る)。犬のメシを、夜中に買いに出かけると、めずらしく東京の夜空に、星が見えた。

 CROWのLIVEが終わる。すさまじい反響だった。さすが、音楽の力はすごいと思いつつ。CROWの面々には感謝。Darieさんにも感謝。メイクのクワハラさんにも感謝。ヘアーメイクの方にも感謝。お客さまにも感謝。そして、役者のみんなにも、大きな拍手を!

 あれはある種のオペラだったな〜と思う。
 ワーグナーの再来か? 穿ちすぎかな?

 とにかくCROWの音楽は危ない。きわめて、危険である。
 ものスゴ過ぎるのだ。その危うさを極端にクローズアップしたかったのだが、まだまだ力量不足だった、と思うノダ(ちなみに、ボクはノダノダ口調が好きだけど、これは郷里の作家、深沢七郎のマネであ〜る)。

 音楽ハ死ト戦争ニ直結シテイル。

 ボクは今、神保町で仕事(というか労働)をしているが、千代田区が路上での喫煙を法的に取り締まるコトにしたそうだ。そうだ。そうだ、というのは、野外喫煙愛好家のボクには、どうにも納得できないからだ。ポイ捨てがいけないのはわかる、歩きながら吸うと道行く人にアブないのも分かる。分かるが、しかし、法律ですべてを解決しようとするのは、間違いだ、とも思う。法律がシャシャリでるということは、人間が信用できないからだ。

 それにしてもまいったなあ〜、なのであ〜る。

 で、今後は「ピアニッシモ」の公演である。
 太田省吾と血ヘド吐きながらの格闘である。
 ピアニッシモ、というように、これはCROWとはまた別次元の仕事なのだ。人間の心の中がこんなにも繊細で危うく出来上がっていることを、どれだけの人が知っているだろう?
 そういう仕事だ。

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