2002.April

4月30日(火)

 今日で4月も終わりだが、突然、女友達のSが電話をかけてきて、チワワを買いたいけど、いろいろ教えて欲しいという。
 うちのチワワは今年で9歳。人間にすると、もういいオヤジなのだが、このところずいぶんほったらかしていたので、あらためていろいろ聞かれると困った。

「耳とか掃除するの?」
「ウチはしてないけど……」
「毛はやっぱりブラシかけたり?
「してないけど……」
「体はどのくらいのペースで洗うの?」
「ぜんぜん……」

 そういう感じ。なんかいい怪訝な飼い主で、われながら、我が犬が可哀想になってきた。

「予防摂取とかするんでしょ?」
「もう5年くらいしてない……」
「えええ!」
「面倒臭くて忘れてた……(今度、行こうかな)。でも、あれってホントに毎年やらなきゃいけないんだろーか?」
「…………」

 なんかゼンゼン、サンコーになってない?
 でも、このところ芝居で忙しくゼンゼンかまってやれなかった。悪かった。と、じっくり眺めて、「こいつ、ここにいるんだな」と思ったら、なんだか不思議な気がして、愛おしくなってきたのだった。
 ホントに不思議なもので、かまってやらないけど、頑丈にもよく育ってくれたなあ〜、とつくづく感謝。ノドの下をクチャクチャとあきるほど撫でてやったのだった。

4月29日(月)

 おお、ゴールデンゥィ−クの前半も終わってしもうたね。みんなはどんな休日だったんだろうか?
 今日は、「秘密の花園」の反省会がありました。いろいろな意見が出て、議論もちょいと白熱! 面白かったよ。詳しくは語れないけどね。

 でもね、唐サンの世界は作る方も、見る方も難しかったと思うけど、けっこうLABO! 的に遊べたと思っているんだ。だって、実際、楽しかったモノ。再び、唐十郎をやることはほとんどないと思うけど、でも素敵な経験だったね。特にあの「うねり感」は! 他では体験できない快感だったと思う。
 唐サンの世界は、きっとまだゼンゼン古典じゃなくて、いろいろな世代で受け取り方がちがうんだと思う。それくらい影響力が強いんだと思った。あの、ドロドロのアングラ時代を知っている人も、また、知らない人も、ね。

 ボクはただ、猥雑さとか、いかがわしさとかよりも、人間を描く手つきがあまりに繊細で、真実らしい、その誠実さに惹かれたんだよね。ほとんどチェーホフのように。
 それは追求できたんじゃないかと自負しています。
 それと、再び云うけど、神話的な論理展開の面白さ。でも、これは、東京以外で上演するともっと分かりやすいんだけどなぁ〜。東京は、つらいよ。んとに。日常の壁が厚いね。ブ厚いね。
 客の面の皮が厚いんだね。
 しようがねーや!

4月28日(日)

 深夜、中田のパルマが残留を決める。
 それにしても、ボクの日々は常に中田の動向とともにあるなあ〜とつくづく思う。イタリアのこれから、乾いた太陽の日射しを切なく恋うよ。

 中沢新一『人類最古の哲学』より。
「『もはや存在せず、恐らく決して存在しなかったし、これからも多分存在しないであろうが、それについて正確な観念をもつことは、われわれの現在の状態をよく判断するために必要であろうような一つの状態をよく知る』ことを願って、神話の夢は紡ぎ出されてきたのでしょう」

 くわえて、宇野浩二の『芥川龍之介』を読み始める。
「私は、芥川を思い出すと、いつも、やさしい人であった、深切な人であった、しみじみした人であった、いとしい人であった、さびしい人であった、と、ただ、それだけが、頭にうかんでくるである。それで、私には、芥川は、なつかしい気がするのである。時には、なつかしくてたまらない気がするのである」

 なにやら、まったく違う次元の二つの文章であるが、ボクには同じコトを語っているように思えてならない。なつかしさ。切なさ。もう取り戻せない、という人生の矛盾。
 大切なことは「正確な観念」をもつこと。本質的であること。そこから、あらゆる情感とセンスが生まれてくる。ホンモノの「切なさ」「なつかしさ」が生まれてくるのである。逆ではない。

4月27日(土)
 天気もよし。ゴールデンウィーク前半、みんな幸せな休日。
 頭の中は閑話休題。しばし、ポカンとして過ごす。
 犬の散歩に行く。勢いよく伸びる雑草。夏の息吹き。
 「青山ブックセンター」で中沢新一の新刊『人類最古の哲学』を買った。
 中沢サンなしにはボクはいないなあ〜、としみじみ思った。
 太古の世界の神話のお話。「神話論理」。1+1=3になる世界。
 よしよし。

4月26日(金)

 中田がゴールを決めた。僕はやはり尊敬してしまう。なんてすごい男だろうと。しかし、彼とて、一人で自分を支えているわけではないのだ。たくさんの人が彼を支え、そしてそういう力を自分にプラスに転換していく能力があるのだ、と思う。

 演出をしながらいつもいつも反省するのは、演出という「仕事」をするための適切な環境をもっと整えなくっちゃダメだ、というコト。やはり、金を稼ぐための「労働」のかたわらで、あくせくしながら稽古場に通うのは辛い。あまりに、自分を整えるための時間がなさ過ぎる。
 自分が不器用な演出家であることは百も承知。だから、ボクには、稽古場に入る前の準備がとても大切なのだ。その場だけでは、集中力を持続できないし、よりよい発想をするための条件も用意できない。しかし、そのための準備時間があまりになさ過ぎる。移動の電車の中と、稽古から帰った、深夜の1〜2時間しかない……。

 金、金、金……。たかが、金なのに、「じっと手を見た」石川啄木の気持ちがよくわかる。啄木は晩年、社会主義に走ったが、ボクだって、今の貨幣経済の体制がいいなんてちっとも思わない。というより、どーも気に入らん。好かんぞ! んとに!
 あの、NIESという経済システムは、今、どうなっているのだろうか? 日本に輸入される見込みはないのだろうか? 導入されれば、ボクはまっさきに、その地域に引っ越すだろう。
 労働と地域社会の福祉とが、もっと密接に結びつけばいいのにと思う。自分の「労働」が誰のためになっているのか、その顔が見えればいいのにと思う。
 そうすれば、ボクはその地域のために芝居をするだろう。芝居など、しょせん、ぜんぜん、マスを相手にしたメディアではないのだから。顔の見える範囲の地域に貢献できればそれがイチバンいいのだから。
 もっとハッキリと、スッキリと、ステキな社会を夢見るコトができたらいいのに、と切に願う、それも、昨今、すでに10年来の夢なのであった――。

4月25日(木)
 物語のツボ、というものについて考える。芝居はしょせん純粋な芸術ではない、と云ったのは、フランスの詩人マラルメだが、そうかもしれない。音楽や美術や詩に比べるとどうしても猥雑なものが混入する。そこには肉体の不器用さがあり、物語という枠組みが存在する。必ずしも、見る者が楽しめるように、ということではないのだが……。
 しかし、物語というモノは重要である。そうして、できれば「人間的な何か」を理解するための単なる枠組みでない、生きている物語を生み出したいと思う。そうすると、生きているコトがフカカイであるように、物語そのものもフカカイなものになるだろう。それでいいノダ。
 にもかかわらず、物語には「新しい」というものはない。これも自明の理である。人間身体の組成が太古の世から変わっていないように、物語も変わっていない。ただ、われわれは、われわれが忘れている物語。太古の人々が育み、共感していた、深遠で、理解不能な、ホンモノの物語世界があったコトを、そして、それがまだ可能であることを確かめたいのだ。
 夜、ふとんの中で見る夢のように、不可解で、切実な物語を描きたいと思う。

4月24日(水)

 ゆうべ、寝る前に、強烈な妄想に襲われた。これはイカン。酔いが足りない、と思い、コンビニに酒を買いに走った。水曜日、午前3時。
 妄想というより、自己嫌悪なのだが、胃の腑がねじれるように神経が苦しかった。ある種の人は「氷のように冷たい神経の世界に生きている」という。そういう人もいるのかもしれない。
 けれど、ボクの妄想への特効薬は、そのように特殊な自分を描写するコトではない。そうではなく、人に共通した、普遍的な「精神の科学」を信じるコトだ。心理学といってもいい、倫理といってもいい、感情の経済学といってもいい。学問などというと、融通の利かないモノのように思うかもしれないが、ボクにとっては違う。生命とは、すこぶる論理的なモノのような気がしてならない。感情そのものにも、論理があると思えてならない。ただ、1+1=2であるような、形式論理ではなく、1+1=3であったりするような、摩訶不思議な論理なのだ。そこでは、個体がガガガと瓦解していゆく。
 そのように考える時、ボクはおのれの狭い呪縛から、少し解放される。
 (わからないのは、そんな人間が芝居をしていていいのか、というコトだ)

 ベルグソンの『笑い』をおもむろに手に取って、読み始めた。
 個体からも離れ、また国家からも離れ、中間で、人間を具体として扱うその手つき。その、あまりに哲学的な(とボクには思える)手つきが、心地よい。
 しだいに眠りが瞼を閉ざした……。

2002.06
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