NO.8

 

 というわけで、必然的に唐十郎の出番となる。
 なぜかって? そういう流れなんだもん。
 名作「少女仮面」からのセリフ。

 今だから白状するけど、学生時代、吉祥寺東急の古本市で見つけた角川文庫の唐十郎「少女仮面」、ぜんぜんわけがわかんなかった。なんなんだ、こりゃ?だった。筋も見えないし、セリフのあやも意味もチンプンカンプン。途中で挫折しちゃった。

 それが最近、このところガゼン面白いのだ。
 よくわかっちゃうんだな。
 話の展開も、コドーグもセリフもいい、けど特に歌がいいんだな。これが。
 LABO! でいろんなヒトの作品をやってきたおかげかしらん。
 たとえばこんな歌――
「母さん、聞いてよ、肉体は、大きな理性でございます。ならば息子よ、理性とは大きな肉体のことなのけ? すると大足、ピクリと止めて、
『論理はそう簡単にはUターンすることはできません』
ニャロメ」
 てな感じ。

 同じ時代のアングラ演劇でも、寺山修司のは読んでも面白くないのよね。
 なぜだろう?
 自己吐露の仕方が違うのかな。寺山サンのはなんだか「自己」が不安定な気がする。書くことで、上演することで失ったものを取り戻そうとしている感じ。それに比して、唐サンのは安定しているんだな。「自己」が安定しているんだ。寺山サンは言葉の力を信じてたよね、それよりも唐サンは言葉なんかクチャクチャのペッペッペッーだ!みたいなところがあって、芝居は面白くなきゃ!っていうサービス精神があるのだ。
 ユーモアとアイロニーの違いといってもいいかも。

 ボクはガゼン、ユーモアをとるね。

 みんなはどうなんだろう?
 どっちにせよ、古臭く感じるのかな?
 でも、古臭いってのは舞台ではたいてい無意味な感性だよね。上っ面だよね。ナマな役者の肉体を通した時にしか、その答えは出てこない。これは通用する、これは通用しない。面白い。面白くない。その違いは、古いとか新しいとかではなく、ただ本物か駄作かの違いだけだ。

「手術台の上のコウモリ傘とミシンの出会い」
 有名なシュールレアリスムの比喩。こういうところから唐サンは出発して、舞台の上にあらゆるものを混同して並べてしまう。ハイブリッド=混血児。そういう手法はもはや小劇場演劇の常套手段になっているけど、やっぱり「原点」はすごいと思ってしまうのよん。

 風景は変わっても、欲望の構造はそうは変わらないのだ。

過去のメイせりふ>>> 1 2 3 4 5 6 

BACK