NO.3

 

心配することがあるとしたって、幽霊が出やしないかってことだけだろ! 
男をつかめ! そうすりゃ夜中に幽霊を恐がる心配なんかしなくなるンだ。

 
こういった乱暴で男っぽい語り口が、たしかに、ブレヒトの魅力のひとつだ。こういう好戦的な姿勢から、彼は世界の常識を、政治を、演劇を笑い飛ばし、破壊しまくった。いかにもドイツっぽい荒々しさではあるが、それから50年あまり、今や、それとわからないうちに、全世界の演劇は彼によって徹底的に変革されてしまっているのも事実だ。いま日本の演劇とて、その例外ではない。

 このセリフは、彼の初期作品『夜打つ太鼓』の第1幕に出てくる。

 知識を語っても仕方のないことだが、ブレヒトの芝居は「叙事的演劇」と言われる。これは客に叙情的な感動を与えるな! という発想だ。そんな、感動がない芝居が面白いのか? と思えるが、本当のブレヒトはもちろん面白い。たとえて言えば、爆発的に笑える喜劇のような衝撃力を持っている。逆に言えば、客に対して「決して情感に流されるな!」というメッセージでもある。
 そのための方法が「異化」という奴。「異化効果」ともいう。しかし、この効果を言葉で説明するのは難しい。百科事典を調べてもなんのことやらさっぱりだろう。本当に知りたければ、百聞は一見、どこでもいい、舞台へと足を運べばいい。いま世界中で「異化」していない舞台など、まったくないであろうから。それくらい応用範囲は無際限にあって、ほとんどは「お、これは異化だ!」などと気づかぬまま受け入れてしまうものなのだ。
 それでもたとえて例を挙げれよう。
 これは別役実氏の例だが……。

 舞台に一人の男がいる。彼はリンゴを一つ手にしている。そうして、彼は誰にともなくつぶやいたとする。「これはリンゴである」

 言葉で書くとなんの変哲もないが、舞台でじっさいに(もちろん役者の意図も必要だが)こういうことが起こると、見ているほうはむしろ疑問に思うのだ。「では、リンゴではないという可能性もあるのか?」と。
 これが「異化」である。もうこれだけで一つのドラマが客の頭の中で始まってしまう。ま、別役さんが得意な「異化」ともいえよう。
 別のやり方もある。

 同じ男がリンゴを持ってつぶやいたとする。「これはリンゴではない」

 これは70年代に有効だった「異化」である。モノとコトバが真っ向からぶつかって、現実と幻想とが拮抗し、すれ違うドラマが始まるのだ。しかし、この手の方程式は、構図が単純すぎるので、冷戦終結以降はホントに無効になってしまった。
 まだ、別のやり方もある。

 同じ男がリンゴを持ってつぶやいたとする。「これはリンゴなのだろうか?」

 これはさらに古典的な「異化」ともいえるが、しかし、古典は死なずで、衝撃は少ないが、おおむね、いつでも有効な「異化」である。客の視点はリンゴより、むしろそうつぶやいた男のほうに向かう。「リンゴをリンゴとして見えなくなっている、この男から、どんな話が始まるのだろう?」とかね。心理劇やリアリズム劇でもありがちなパターンだ。

 もちろん、ほかにやり方はある。いくらでもある。リンゴをリンゴとして扱わなければいい。お尻に挟んでもいい、頭にぶつけてもいい、桑田のようにそれに向かってブツブツつぶやいてもいいし、状況によってはなんでもござれだ。
 場合によっては、リンゴとして齧っても「異化」になる。
 重要なのは意味ではなく、客が受け取る効果なのだ。

 こういうふうに見てくると、「異化」というものは、別にブレヒトの発明品ではないことがわかる。そんなもん大昔から演劇の常套手段だ。ハムレットの”To be , or not to be. That is a question”もそうだし、世阿弥が「珍しきは花なり」と言ったのも、「珍しいこと」が「異化」で、「花」がその「効果」なのである。
 ただ、そういう効果が大切なんだよ、ということを鋭く見抜いて、客を泣かせるためでなく、また単に笑わせるためでもなく、動揺させ、考えさせるために用いたのがブレヒトなのだ。

「異化」にはその時代に合わせて、有効なスタイルがある。
 アメリカの同時多発テロ事件以降、世界は未知の領域に入った。おそらくこれから、演劇にもまったく違った顔の「異化」が必要とされるだろう……。
 問題は「リンゴ」が何かではない、どう扱うか、なのだ。


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