謡曲「清経」の最後で、こう言って、清経(シテ)は地獄に落ちてゆく……。
地獄の場面から終わりは、清経が成仏するまで、一気に地謡の語りになるので、これがシテ自身の最後のセリフになる。(labo!版「清経」では違ってるけどね)
「人間、死ねばみんな一緒だ」
というコトだけれど、「死ぬ」ということはそんなにカンタンじゃないし、それ以上のコトを言っている。
それは、生きている人にとって「死」がどういう意味をもっているのか、というコト。ここにお能の本領があるし、特に世阿弥の思想をつらぬく、真んまん中のまなざしがある。
つまりは「死んだらどうなるのか?」という不安への答えだ。
「死んだらなんにもなくなるさ」
現代の人は漠然とこう思っている人が多いかもしれない。それが間違っているというのではない。ただ、「死んだらどうなるのか?」という考えから、「では、どう生きるか?」ということへつながってくる。だから、漠然とではダメなのだ。
「死んでしまえばいいさ」
ということを漠然と思っていると、「自殺を悪いことだ」と言い切れなくなる。
「だって死んだらなんにもなくなるじゃないか」
そういってしまうと、この世での価値観がすべてになってくる。お金や地位や快楽や、人からどう見られるか、なんてことが価値観のすべてになってくる。
大人の贈賄や、少女の売春、少年の殺人がなぜいけないのか。それに答えるための、究極のエティックがわからなくなってしまう。
「悪いことをしたら地獄に落ちる」
そう信じていた昔の人を、迷信とあざ笑ってはいけない。
彼らは「漠然と」そう信じていたのはない。「切実に」そのことにおびやかされながら生きていた。切実だから、そう「信じるコト」が、この世を正しく生きていくための人々の知恵になっていたんだと思う。
「この世を正しく生きていく」なんて!
なんて懐かしい響きの言葉だろうか……。
僕はそんな懐かしさを、お能のなかに聞き取っているのかもしれない……。
「言ふならく」というのは、「人がみんな言うとおりに」ということ。
「奈落」というのはもちろん「死後の世界」。
だから「死後の世界もこの世と同じだよ」と、このセリフは、当たり前のように言っている。
どう同じかというと、「うたかた」だよ、と。「夢」だよと。
夢。そう、どこにも本当の実体のない、フワフワした陽炎のようなもんだよ、と。
僕らはみんな、そんな陽炎みたいなもんで、だから、泣いたと思ったらすぐ笑い、笑ったと思ったらすぐに泣いている。そういう不安定な存在なんだよ、と言っている。
「それだっていいジャン!」
と言ってしまえばそれまでなんだけどね。
でも、きっと、笑うより、苦しみのほうがずっと多いはず。この世の中は。そして、それは死んでも変わらない。向こう側の世界でも、魂はこの世での心の苦しみをずっとひきずっていく。苦しみにもがいていく。
だから僕は、苦しみのまま死にたくないと思うのだ。自殺なんかまっぴらゴメンだ。
願わくば、心おだやかに死にたいと願う。成仏したいと思う。
成仏とは「本当に死ぬ」というコト。魂の迷いを永遠に切断するというコト。
お能はそういう「事実」を前提にしている。
(ちなみに訳語は折口信夫センセイのものです……)
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