NO.1

 

ぼくは月へは行かなかった、もっと遠いところへ行ったんだ……
だって時間という距離ほど遠い隔たりはないじゃないか……

 テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』の、最後のさいごの、おしまいのはじまりの台詞です。
 おしまいのおしまいは、こうです。

「――だっていまは、すざまじい稲妻が世界を照らしているんだ! そのろうそくを吹き消してくれ、ローラ――そして、さようなら……

ローラはろうそくを吹き消す。舞台溶暗。幕――」

 ローラというのは、語り手トムの、愛すべき姉のこと。内気で不幸な、ビッコの姉のことです。

 どこかで清水邦夫さんが書いてます、テネシーとチェーホフほど、女性を誠実に美しく、かつ精妙に、包み隠さずに描いた劇作家はいない、と。
 じっさいに、テネシーには一人の妹がいました。彼の家はアメリカ南部のもと大富豪で、しかし時代の流れとともに落ちぶれ、社交界での夢に破れた妹は、精神に異常を来し、暴れ、そしてロボトミー手術(前頭葉切除)という、今なら非人間的ともいえるしかたで「処理」され、廃人になったということです。
 そのせいかどうか、テネシーの物語には、強さと弱さ、美しさと醜さ、若さと老い、狂気と常識のあいだで引き裂かれる「本物の女」がたくさん出てきます。というよりも、それこそがテネシー・ウィリアムズという「物語」であるかのようです。

 意外と知られていないことですが、テネシーは、日本の60年代アングラ演劇に大きな影響を与えている人でもあります。
 テネシーのようなリアリスチックな手法の作家が?と、ホントに意外に思えるのですが、学生運動いまだ衰えぬ、当時の喫茶店の片スミで「テネシーはすごいよ!」と唐十郎さんと別役実さんは、興奮しながら語り合ったそうです。寺山修司さんの『青ひげ公の城』という、いろいろな名戯曲を劇中劇に使った作品でもホントに寺山さんが思い入れをもって扱ったのは、やはりテネシーでした。三島由紀夫は、『ガラスの動物園』の日本初演を見て、「いまだ無名の作家ではあるが、本物の詩人の才能を感じる」というようなコトを日記に書いています。

 ピカソやマティスがそうだったように、「女」というものを描くことがホントの「芸術」だったのかもしれません。

 トムは言います、時間という距離を無効にするように――

 「そのろうそくを吹き消してくれ、ローラ(Blow out your candle, Laura)」

 そして、今も昔も、女はベッドの中で言うのです。
 毎晩、どこかで……。

 「ねえ、電気を消して……」

 カチャ……。

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