NO.7

 

 そうしてまた、別役実を読み始めた。ふたたび。帰りつくように……。
 LABO! にとって別役実は第2の故郷である。第1のを如月小春だとすれば……。

 かつて如月さんは言ったことがある。いまの日本で常にコンスタントにレベルの高い戯曲を書くことができる作家は、井上ひさしと別役実であると。それ以来、ボクにとって二人は特別の2対の存在になった。

 そうした状況は今も変わらないのだろうが、しかし、最近の別役さんの仕事は不可解である。のらりくらりとして、よくわからない作品が多い。最新作の「雨月物語」なんか、ここになにがあるのだろう、と訝ってしまうような筆運びだ。きっとなにかがあるのだろうが……。その前の「ちりもつもれば」はまだしも面白みがあるのに……。

 「常にコンスタントにレベルの高い戯曲を書くことができる」とはいいながら、別役さんの真骨頂は、80年代後半の一連の作品に限る。これは「わかる」。どんなに筋が不条理でも、破天荒でも「わかる」。
 これまでLABO! が取り上げた作品もそのあたりである。
 このセリフが入っている、「もーいいかい・まーだだよ」もそのあたりだ。

 この時期の別役さんのテーマは「帰ること」に集約されている。つまり「家族」とか、「故郷」とか、「失われた共同体」「街」とかが主役なのだ。
 帰っていく場所がどんどん消えていく……。そういう感覚だ……。
 しかし、そういう状況は80年代に限らない。今も同じだと思う。それは現代の資本主義=アメリカ主義に対する永遠のアンチテーゼだから。ボクらはハリウッド映画にもディズニーランドにも「帰っていく」ことはできない。それは、消費される商品にすぎないから。むしろ、ますます強くなっている、気がする……。
 けれど人は、必ず、帰っていく場所を必要とするのではないだろうか?

(世界のグローバリズムVS民族主義という抗争も、そこに焦点がある。今回のテロ問題も同じだ)

 情報はどんどん人を侵食するが、情報だけで人は生きられない。もちろん一人でも生きられない。顔の見える範囲の関係性がいちばん大切なのだが、その関係性に必然性が伴わなくなってきた。それが現代の不幸だ。
「別に友達なんか、こいつでなくてもいい」と思ってしまう。入れ替え可能だ、と。むしろ入れ替えのきかない親兄弟、夫婦カンケイがうっとうしくて仕方なく思えてしまう。
 人と人との「本当のつながり」ってなんだろう?
「帰りつくべきところ」ってどこだろう?

 さしあたり答えは戯曲のなかにあるのだが。そこは……。

 そういう切実さで別役さんは80年代を駆け抜けたのだ。

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