NO.6

 

 如月小春について、まるで他人事のように書くなんて無理。
 けれどその書いた言葉について考えると、溢れるように言いたいことが出てくるノダ。
 (今回はその「言いたいこと」の一つ)

 しかし……、一体全体、これはセリフなのだろうか?
 たしかにセリフだ。「A・R―芥川龍之介素描」の中にある。ある一つの肉体の「想い」の中にある。
 ところが出典は、芥川のエッセイから拾った文章であって、話し言葉ではない。それをセリフにしてしまう。

 こういうところに如月小春の才能と異常さが同居している。

 つぶやき。言葉。単語。助詞。音。記号。
 滑らかでない言葉のつながり。断片。どもり。吃音。
 意味。無意味。断然。連想。
 けれど、物語。ストーリー。流れ、がある。
 一字、一句、ゆるがせにはできない、のだ……。

 ひとつの単語、音のなかにあふれるように、物語が沸き立つように、書くこと。語ること。演じること。それが彼女にとっての「一番遠くから見て、確かな一編の物語」だったのでないか?

 自分と世界との間に、一枚の薄い(薄さという厚みすらない)フィルターがあって、それを通して、世界を眺めることが、彼女という人間であり、言葉であった。そのフィルターそのものが、彼女であった。そのフィルターのこちら側(観客にとっては向こう側)から、世界を眺める自分は、言語化され、表明される「自分」ではなく、世界とおなじように、他者によって発見されるのを待っている「迷子」だったのでないか、と思ってしまう。そのようにして誰かに「自分」を発見してほしかったのだ。そのようにして、自分=世界であると納得したかったのだ。
 そのようにして、不器用さと、たぐい稀な言語能力とが同居していたのだ……。

 だから、如月小春は今も言葉によって、われわれが世界を見るためのフィルターとして、生き続けている……。

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