NO.2

 

「とるに足らないと思っていたバカげたことが、突然、重大ごとに変わってしまう。
どうしてそうなるのか、ぜんぜんわからないよ!」

 A. チェーホフほど世界中のいろんな国で愛され、尊敬されている劇作家はいないのではないか。本国ロシアはもちろん、ヨーロッパでもアメリカでも。もちろんご存じのとおり、この国でも。なぜなんだろう?

 このセリフは『三人姉妹』の第四幕、決闘へと向かうトゥーゼンバフ君が、恋人に言い残す最後の言葉、その言い出しだ。
 幸せを求めながら死へと向かわなければならない、いや死ぬとはかぎらないけれど、どうにもぬぐい切れない不安と焦りのなかで、個人的な想いとはウラハラに大きな流れに押し流されていく人間の悲しさと愚かしさ。自分でもわかっているのだ、わかっていながら人はどうしても愚かな選択をしなければならなくなってしまうのだ。
 人生には、あまりにも劇的すぎて、一歩まちがえば鼻白むような決定的瞬間がある。だれにもある。けだしその瞬間は、いつも個人の心のなかだけで静かに起こり、静かに消えていく。はた目にはなにか滑稽なことのように見えるかもしれない。それを、チェーホフは最小限の仕掛けだけで、最大限にリアルな場所へと引き出してくる。

「僕は晴れ晴れとした気持ちだ。まるで生まれてはじめて、あのモミやカエデを見るようだ。むこうでも、僕をじろじろニヤニヤ見ている気がする。じっと見つめられているような気がする。美しいなあ!」

 このセリフが書かれてから、ちょうど100年が経とうとしている。現代の僕らの身の回りにあるものはすべて、この100年の間に生まれたものばかりだ。100年の間に人々の生活はあまりにも大きく変わった。
 しかしチェーホフのなかには、そんな時代の変化をすべて見越していたような、透明で鋭い、冷たくてやさしいまなざしがあって、ドキリとする。

「ああいう美しい木々に囲まれた人生ならば、もっと美しくたっていいはずじゃないか!(オーイ!ホッホーッ!と、呼ぶ声がする)行かなくちゃ、時間だ……」

 季節は秋。厳しい冬がもうそこまで来ている。時間はない。そして物語ももう終わろうとしている。最後の風が吹いてくる。

「ああ、あの木! あの木は枯れている、なのにそれでもほかの木といっしょに風に揺られている。あれと同じだ。もし僕が死んでも、やはりなんらかの形で人々の人生とかかわって、いっしょに揺られていくような気がするよ。さようなら、イリーナ……。(と、彼女の両手にキスをする)」

 だから100年が経ってみて、この言葉はちょうどチェーホフ自身の言葉のような気がしてくる。あなたはたしかに、死んでもからも僕らの「人生とかかわって、いっしょに揺られて」きたのですから。
「死ぬことをいかに許すか」――そういうことは奇蹟のように難しく、大切なこととして、僕らのまわりに残っていく。なんども、なんども。人の数だけ。

「きみが僕に書いてくれたものは、僕の机のカレンダーの下にあるからね……」

 A. チェーホフが書いてくれたものは、20世紀というカレンダーの下に埋まっている。

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