![]() Anton Chekhov ![]()
マーシャ:(叫んで)コースチャ! コースチャ!(まわりを見て)どこに行ったのかしら?(と、メドヴェジェンコを見る) メドヴェジェンコ:(マーシャを見る、がすぐに目をそらす)
マーシャ:だって、ここのピノ伯父さんなんか、しょっちゅう、どこだ? どこだ? コースチャはどこだ? って、あの人なしにはもうダメなのよ。 メドヴェジェンコ:みんな恐いんだよ、一人になるのが。
(興奮して)ひどいな! もう二晩続けてこんな調子だ! マーシャ:(部屋のそこここにあるのロウソクを点けながら)湖がごうごう言ってるわ。 メドヴェジェンコ:(窓の外を見ながら前へ進み)真っ暗だ。むき出しのままでさ、壊すように言えばいいのになあ、あの舞台。だって、ガイコツみたいだよ。幕なんかバサバサ言って、気味が悪いよ。夕べ通りかかったら、中で誰かが泣いてるのかと思った。 マーシャ:だからなに?
メドヴェジェンコ:帰ろう、マーシャ。 マーシャ:今夜はダメ。泊まるの。 メドヴェジェンコ:(泣いて)帰ろうよ! ミーシャも泣いてるよ! マーシャ:なによ。マトリョーシュカがいるでしょ。
メドヴェジェンコ:でも、かわいそうだ。3日もママがいなかったら。 マーシャ:あんたもつまんない男になっちゃったわねえ! 昔はなんだかんだ、理屈言ってたじゃないのさ。それが今は、帰ろうよ、泣いてるよ、帰ろうよ、泣いてるよ……。他のことは言えないの? メドヴェジェンコ:(プレッシャーを感じつつも)帰ろうよマーシャ! マーシャ:一人で帰んな。 メドヴェジェンコ:僕ひとりじゃ、お父さんが馬を貸してくれないよ。 マーシャ:くれるわよ、頼んでみれば。 メドヴェジェンコ:うん、じゃあ頼んでみるけど、でも、明日は帰ってくるだろ? マーシャ:フン。明日ね……、うるさいわねえ!
マーシャ:なにソレ、ママ? ポリーナ:ピノおじさんがさ、コースチャのそばに寝たいってきかないんだよ。 マーシャ:あたしやるわ。(ソファにベッドの用意をする) ポリーナ:(溜め息)やれやれ。年とともに、子供に返っていくもんなのかねえ……(机のところへ行き、ひじを突き、原稿を見やる)
メドヴェジェンコ:じゃ、僕はこれで。おやすみ、マーシャ。(妻の手にキス)おやすみ、お母さん(と義母の手を取ろうとして) ポリーナ:さっさと帰っとくれ! メドヴェジェンコ:おやすみ、コースチャ……。 トレープレフ:(黙ったまま手をあげる)
ポリーナ:(原稿に目をやりながら)あんたがねえ、本物の作家さんになるなんて、誰が想像したろうねえ、コースチャ。今じゃ、雑誌社からお金が送られてくるんだからねえ、ありがたもんだねえ。(トレープレフの髪を撫でて)いい男になったしね……。ねえ、コースチャ、もう少しやさしくしてやっとくれ、マーシャにさ。 マーシャ:(ベッドを作りながら)ほっといてよ、ママ! ポリーナ:あたしが言うのもなんだけど、いい娘なんだよ。
女ってもんはねえ、コースチャ、ときどき優しく見つめてもらいさえすりゃ、あとはなんにもいらないんだ。このあたしがそうだったんだからさ。
マーシャ:ママあ! やめてよ! 嫌がってるでしょ。 ポリーナ:おまえが不憫でしょうがないんだよお。 マーシャ:大きなお世話よ。 ポリーナ:ああ、胸が痛むよ、この胸が! 何もかもお見通しさ、何もかもね。 マーシャ:やめてよ! 自分を甘やかしちゃダメなのよ。期待して待ってたって、潮の流れは変わらないわ! どっちにしたって、ウチの人、よそへ転勤になるらしいから、そうしたらあたし、ぜんぶ忘れる。なにもかもぜんぶこの胸から根こそぎ引っこ抜いてやるわ!
ポリーナ:コースチャだ、あの子も悲しいんだねえ。 マーシャ:(音も立てずにワルツを踊りながら)大切なのはね、ママ、目の前からあの人がいなくなるってこと! ウチの人が転勤したら、あたし、なにもかもひと月で忘れてみせるわ。みんな、みんな、くだらないことよ! 20 なりたかった男(人生談義2)
メドヴェジェンコ:……だけど、ウチはいま六人家族なのに、小麦粉1キロ2コペイカもするんですよ。 ドールン:なるほど、そりゃタイヘンだァ。 メドヴェジェンコ:いいですよ、あなたは。笑ってられるんだから、お金があるんだから。 ドールン:お金ねえ? 僕かァね、きみ、この30年、昼も夜も人の言いなりになって、来る日も来る日も診察を続けてきてだよ、残った金なんか、ただの2000ルーブルだよ。それもこないだの外国旅行でスッカラカン。一文なしだ。
マーシャ:(夫に)帰ったんじゃなかったの? メドヴェジェンコ:(申し訳なさそうに)だって、馬を出してくれないって。 マーシャ:(イラついて、低い声で)顔も見たくない! メドヴェジェンコ:(ガックリして、マーシャの反対側へ逃げる)
ソーリン:(目を覚まして)妹の奴はどこじゃ? ドールン:駅までトリゴーリンをお迎えです。すぐ戻りますよ。 ソーリン:お迎えは、わしもじゃろ、あんたが妹を呼び寄せたとなると……。
なのに、おかしいじゃろお! こん医者は! 薬のひとつもくれんで! ドールン:さてさて、何をお望みで? カノコ草ですか? 炭酸ソーダ? それともキニーネで? ソーリン:来た来た、屁理屈。やってられんよォ!(と、自分の居る場所を認識して)なに? ここで寝ろっちゅうのか? ポリーナ:ご自分でこうしたいっておっしゃったんですよ。 ソーリン:そりゃそりゃ、どうもどうも。 ドールン:(聞き取れない声で)「♪月ノ光ハ夜空ニ浮カビ……」 ソーリン:どらひとつ、コースチャに小説のネタでもやろうかな! お題は、と……、うん。「なりたかった男」……。わしゃ、若い時分、作家になりたかった。じゃがなれんかった。喋りの上手い男にもなりたかった。じゃが、わしの喋りときた日にゃ(と、身振り手振り、自分をマネて)「……っちゅうかなんちゅうか……つまりは……とまあ、そういうことじゃろ……」てな具合でなァ。なかなか話のまとまりがつけられんで、ひや汗タラタラじゃったわ。ハッハッハッ! 女房も欲しかったが、それもかなわんかったし、最後にゃ、都会で暮らしたかったが、こうして田舎で終わろうとしとるし、……とまあ、そういうことじゃろ。 ドールン:あなたは法務局のお役人になりたかった、そして、なれた。 ソーリン:なりたくてなったわけじゃない。事故みたいなもんじゃ。 ドールン:62にもなって人生に不満を言ったって、こう言っちゃなんですが、愚かなだけですよ。 ソーリン:わからん奴じゃあ! わしゃ生きたいと言っとるだけじゃ! ドールン:それが愚かだというんです。どんな命にも終わりがある。自然の法則です。 ソーリン:なにを! さんざ遊びまわった奴がよう言いくさるわ! てめえの腹はいっぱいなもんで、他人は死のうが生きようがどうでもっていいわけじゃろ! そうじゃろ! じゃがな、あんただっていざ死ぬって時にゃビビるに決まっとる! ドールン:死を恐れるのは動物的な本能で、そんなものは克服できるんです。……ただ、永遠の命を信じている人たちだけが、本当に死を恐れるんですよ、自分の罪を恐れる人たちだけが……。でも、あなたはそうじゃない。あなたは信仰を持ってはいないし、それにどんな罪を犯したっていうんです? あなたは法務局に25年間務めた、それだけでしょう。 ソーリン:ハッハッハ! 28年じゃ!
ドールン:仕事のおジャマかな? トレープレフ:かまいませんよ。 メドヴェジェンコ:(手を挙げて)はい。質問。ドクターは、どの国がいちばんよかったですか? 外国じゃ? ドールン:……ジェノバだな。 メドヴェジェンコ:ジェノバ、なぜ? ドールン:あの街は、庶民が生きてるんだ。……夕方、ホテルを出ると、大通りいっぱいに人の波でね、それに飲まれるように、あてどなく、気の向くままに流されていくと、いつしか彼らと生活を共にし、魂までが一つに融け合っているような気がしてくるんだなァ。そして、一つの世界霊魂というものが、……ちょうどそう、いつだったか、君のお芝居で、ニーナさんが演じたような、ああいうものが、存在しているんだなァということがわかる。……ところで、ニーナさんは? 今どうしてますか? トレープレフ:元気ですよ、僕の知るかぎり。 ドールン:なんだか妙な具合になってるという話も聞いたけど、どうなの? トレープレフ:話すと長くなりますよ。 ドールン:まあ、手短に頼むよ。
トレープレフ:彼女は家を出ました。それからトリゴーリンといっしょになって……、そこまでは知ってますね? ドールン:知ってるよ。 トレープレフ:子供ができました。その子は死にました。トリゴーリンの彼女への愛は冷め、やがて元のさやへと収まりました。なにもかも最初から予想していた通りに。もっとも、あの男が元の女を捨てたためしなんかなくて、ただ気弱な性格からあっちにもこっちにも引きずられていただけなんです。まあ僕の知るかぎり、ニーナの生活は最低でした。 ドールン:舞台はどうだったの? トレープレフ:もっとひどかったんじゃないかな。モスクワ郊外の小さな小屋で初舞台を踏んで、それから地方の旅に出たんです。そのころ僕はずっと目を離さずにいて、巡業先へはどこへでも追い掛けて行ったんですけど、デカい役ばかりもらってた割には、芝居は幼稚で大袈裟で、やたらめったらわめいてるだけでした。時折、叫んだり死んだりする瞬間に、ハッとすることもあったんですが、ほんの時たまだけで。 ドールン:でも、才能はあるんだろ? トレープレフ:難しいところでしょうね。多分あるんでしょうけれど。こっちじゃ顔を見てるけど、向こうは会おうともしません。ホテルに行ってもメイドが通してくれなくて。ま、気持ちはわかりますからね、僕も無理に会おうとはしなかったけど……、
あとはなんだろう? そう、家に戻ってから、手紙をもらいました。理知的で心のこもった、いい手紙でした。泣き言は一言もなくて。けど僕にはわかったんです、彼女の深い悲しみが。行間に滲んでいる痛んだ神経が……。頭も少しおかしくなってたかもしれません。サインがいつも「カモメ」なんです。プーシキンの「川の妖精」に、自分のことをカラスだという粉挽きじいさんが出てくるんですが、あんな感じで、手紙の中でも自分は「カモメ」だって……、ところで今、彼女ここに来てますよ。 ドールン:ここって? トレープレフ:町にです。町のホテルにも4、5五日は泊まってます。僕も訪ねようとは思ってるんだけど、先に行ったマーシャによれば、誰にも会いたくないって。でも、(メドヴェジェンコに)昨日の夕方会ったんだろ? 原っぱで? メドヴェジェンコ:会ったよ。町へ帰る途中みたいだったなあ。「みんなに会いにきてくださいよ」って言ったら、「そのうちに」って言ってたけど。 トレープレフ:来やしないさ。
(立って机へ)父親も義理の母親も、もう知らん顔ですよ。家に近づかないようにって、見張りまで置いて……。 ドールン:(トレープレフを追う)
(ドールンに)小説と違って、現実は難しいもんですね。 ソーリン:いい子じゃったのになァ。 ドールン:なんです? ソーリン:いい子じゃった。いっときは、この元法務局のピノじいさんまでがご執心じゃったわ! ドールン:老いたるドンファンですか!
ポリーナ:お帰りになったんじゃないかしら? トレープレフ:うん。ママの声だ。
シャムラーエフ:ハッハッハ! トシにゃ勝てませんなァ、まったく、自然の脅威ですなァ! ところがどうだ、奥さんはァ、相も変わらずお若い! 目の冴えるような、その小粋なブラウス、その優雅な物腰! アルカージナ:嘘おっしゃい! 心にもないことを。 トリゴーリン:(ソーリンに)いやあ、お久し振りです、また何かご病気で? タイヘンだなァ!(マーシャを見つけて嬉しそうに)やあ、マーシャ! マーシャ:覚えててくれました?(握手) トリゴーリン:もう結婚したの? マーシャ:とっくの昔にね。 トリゴーリン:いやあ、しあわせそうだなァ。
アルカージナに聞ききましたが、もう昔のことは水に流していただけたようで……。 トレープレフ:(手を差し出す) アルカージナ:(息子に)ホラ、おまえの新作が載ってるって、持ってきてくれたのよ。 トレープレフ:(雑誌を受け取って、トリゴーリンに)どうも、ご親切に。 トリゴーリン:(座りながら)いやあ、ペテルブルグでもモスクワでも、もうあなたの話で持ち切りですよ。いったい全体どんな人間なんだって。いつも聞かれるんです、いくつぐらいなんだ? おい、髪は黒いのか、明るいのか? それがどうしてだか、みんないい年のオヤジだと思ってるんです、あなたのことを。本名さえ知らないんですからねぇ。いつもペンネームを使うでしょ? どうにもミステリアスな存在ってわけですよ。 トレープレフ:しばらくいるんですか? トリゴーリン:いや、明日にはモスクワに。しようがないんです。すぐにも仕上げないといけないのが一本あるし、短編集にも一つ書く約束をしてるし。まあ要するに、相変わらずですよ。
天気の方じゃ、僕を歓迎してないようですけどね。ひどい風だな。もしこれがおさまったら、明日は朝からまたコレ(釣り)に行きたいと思ってるんだけど、それにここの庭も見ておきたいし、ホラ、あのあなたがお芝居を演った場所、覚えてるでしょう? まあ、モチーフは固まってきてるんだけど、背景となる場所の記憶をもう一度新たにしておこうと思ってね……。 マーシャ:(父親に)パパあ、馬を出したげてよ、帰るって言ってるだから。 シャムラーエフ:(マネして)「馬を出したげてよ、帰るって言ってるだから」(きっぱりと)バカ言え、今駅まで行ってきたばかりだぞ。 マーシャ:ほかの馬だってあるじゃない…… シャムラーエフ:(娘を無視する) マーシャ:(お手上げ)ムダだわ。 メドヴェジェンコ:大丈夫だよ、マーシャ、歩くよ……。 ポリーナ:(あきれて)歩く! この風ん中を!(テーブルについてトランプを並べ出す)さあどうぞ、皆さん。 メドヴェジェンコ:なに、たったの4マイルですから……、おやすみ(と妻の手にキス)。お母さんも…… ポリーナ:(しぶしぶ手を出してキスを受ける) メドヴェジェンコ:あの……、みなさんにご心配はおかけたくないんですけどね、家で赤ん坊が待ってるもんで……(みんなに礼して)すみません。
シャムラーエフ:なあに、歩けるさ! 将軍様じゃあないんだから! ポリーナ:(テーブルを叩いて)さあさ、始めましょう! 時間をムダにしないように。すぐにお夜食の知らせが来ますからね!
アルカージナ:(トリゴーリンと一緒にテーブルへつきながら)秋の夜長にはね、ウチじゃいつもコレをやるの。あなたもどう? お夜食の前に。他愛のないゲームだけど、慣れるとそう悪くもないのよ。(と、みんなにカードを配る) トレープレフ:(雑誌のページをめくりながら)自分のところは読んでるけど、僕のページは切ってもいない。(雑誌を机に置いて、上手へ。途中、母の頬にキスする) アルカージナ:おまえもどう、コースチャ? トレープレフ:気がのらないんで、ちょっとブラついて来ます。
アルカージナ:掛け金は10コペイカからよ! ドクター、あたしの分、出しといて。 ドールン:はいはい。 マーシャ:みなさん、出しました? じゃあ行きましょう! 22! アルカージナ:どうぞ! マーシャ:3! ドールン:来た来た! マーシャ:よろしいですか、3で? 8! 81! 10! シャムラーエフ:待てよ、早いぞ! アルカージナ:大変な歓迎振りだったのよ、ハリコフじゃ! 頭がくらくらしたわ! マーシャ:34!
アルカージナ:学生たちがもう総立ちの拍手! 花カゴ3つに、花輪が2つ! それにコレ見て。(胸のブローチをはずしてテーブルに投げる) マーシャ:50! ドールン:50ねぇ。 シャムラーエフ:こりゃこりゃ! 値打ちもんでしょう? アルカージナ:ドレスだって最高だったのよ……、少なくとも着こなしは。 ポリーナ:あのピアノ、コースチャね。悩んでるんだわ、かわいそうに。 シャムラーエフ:新聞じゃ、だいぶ叩かれてたなァ。 マーシャ:77! アルカージナ:気にすることないのよ! トリゴーリン:まあ、運もあるんだが、まだ自分の文体も見つけてないんだな。変にあいまいなところがあって、ときどき狂人のたわごとのようになる。なにより人間が生きてない! マーシャ:11! アルカージナ:(ソーリンの方をうかがって)兄さん! 元気?
寝ちゃってるわ! ドールン:法務局のピノじいさんはご就寝と。 マーシャ:7! トリゴーリン:こんな、湖のほとりで暮らしてたら、僕はとてもモノを書こうなんて気にはなれないなあ。 マーシャ:90! トリゴーリン:そんな情熱はうっちゃって、毎日釣り三昧だ。 マーシャ:28! トリゴーリン:マスやスズキが上がる、しあわせだなァ! ドールン:僕はコースチャを信じますね。奴には何かがある、何かが! 奴はイメージでもって考える。だから、奴の世界は鮮明で、色鮮やかで、力強い。しかし悲しいかな、何に向かって書いているのかがいま一つ曖昧なんだ。或る印象はあるんだが、それがこっちに差し迫って来ない。(アルカージナに)でも、どうですか? 作家の息子さんを持って嬉しいでしょ? アルカージナ:それがね、まだ読んだことがないのよ、忙しくって。 マーシャ:26!
シャムラーエフ:(トリゴーリンに)ところでトリゴーリンさん、あなたからお預かりしてたものがございましたよ。 トリゴーリン:なんでしょう? シャムラーエフ:かもめですよ、かもめ。いつぞやコースチャの撃ち落とした、あなた、あれを剥製にしてくれないかって……。 トリゴーリン:僕かァ、覚えてないなァ。(考えながら)いや。覚えてないよォ。 マーシャ:61! 1!
アルカージナ:コースチャ! 窓を閉めて! 風が吹き込むじゃない!
マーシャ:88! トリゴーリン:揃ったァ! アルカージナ:(明るく)すごい! すごい! シャムラーエフ:いやあ、お見事! アルカージナ:この人ったらホントついてるのよ、いつでも、どこでも。(立って)さあ休憩! なんか食べましょ。このご高名な作家先生は、今日はまだマトモな食事をとっていらっしゃらないようよ。(机の息子に)コースチャ、ひと休みしてあなたも食べたら? トレープレフ:いいよ、ママ。お腹すいてないんだ。 アルカージナ:なら好きにしなさい。(ソーリンを起こして)兄さん、お夜食よ。(ソーリンの腕を取って)ハリコフでの歓迎ぶりを話してあげましょうねえ……。
トレープレフ:(書こうとして、今まで書いたものに目を通して、なかば観客に)これまで、俺は、芸術に新しい形式を訴えてきました。それがだんだんとパターンにハマって来ている気がするんです。(読む)「壁のポスターが告知している……黒髪に縁取られた青ざめた顔」……告知している、……黒髪に縁取られた、……ダメだ!(線で消す)主人公が雨音の中で目覚めるとこからにしよう。あとはカットだ。月夜の描写も長ったらしいし、クドい。トリゴーリンだったらきっと、例の小技でやっつけちまうでしょう。「土手にきらめく割れた瓶と、水車の黒い影」……これで月夜ができちまう。なのに俺のは、たゆたう光、もの言わぬ星のまたたき、かぐわしい静寂の中に消えゆくピアノの調べ……。ああ、頭が痛い。
見えて来た! そうなんだ! 形式が新しいとか古いとかじゃないんだ。形式なんかにとらわれずに、おのれの中から自由に湧き出てくるものを書けばいいんだ!
なんだろう?(窓をのぞく)見えないな。(開けて庭を見まわす)だれだろ? 階段を降りてく。おーい?(出ていく)
ニーナ! ニーナ! ニーナ:(トレープレフの胸に頭を預けて震えて泣いている) トレープレフ:ニーナだあ! ニーナだあ! ニーナだあ! そんな予感がしてたんだ。(帽子とショールを取ってやって)僕の大事なニーナ! 大好きなニーナ! 帰ってきたんだね。泣くなよ! 泣くな! ニーナ:誰かいる。 トレープレフ:誰もいないよ。 ニーナ:カギを閉めて、誰か入ってくる。 トレープレフ:誰も来ないって。 ニーナ:お母さまがいらしてるんでしょ、カギを閉めて。 トレープレフ:(下手のドアにカギを掛け、上手のドアまで行って)カギがないや。これで塞いどこう。(ドア前にイスを押し付けて)心配ないって。誰も来ないよ ニーナ:(彼の顔をじっと見つめて)顔を見せて。(あたりを見まわして)あったかい。いいわね、ここは……。あたし、変わった? トレープレフ:うん、そうだな。やせて、目が大きくなった。でも、ニーナ、変な感じだよ、君と会えるなんて! なぜ会ってくれなかったの? もっと早く来てくれればよかったのに。町にいたんだろ? 僕は君を訪ねて、一日に何度も宿まで行ったよ。宿の、君の窓の下に立って、呼んでたのに、乞食みたいに。 ニーナ:あなた、あたしのこと憎んでるでしょ……。恐かったのよ、毎晩夢の中で、あなたが、あたしを見ながらあたしだって気づいてくれないのよ。お願いわかって! ……ここに来てすぐ、湖のまわりを歩いてみたの、あなたの家のそばにも何度も来たの、でも入れなかったの。座りましょ。
いいわねえ、ここはあったかくって、快適ねえ。
……ツルゲーネフにこんなフレーズがあるわ、「仕合わせとは、こんな夜に身を守ってくれる屋根と、暖めてくれる平和な場所を持つ人のことだ」……あたしはかもめ……違う!(額をコシコシする)なんの話だっけ? そう、ツルゲーネフ、「だから、天よ、身寄りなき旅人を助けたまえ!」ああ!(とむせび泣く) トレープレフ:泣かないでよ、ニーナ! 泣かないでよ! ニーナ:大丈夫、これで楽になれるから……。この二年間、一度も泣かなくことなんかなかったけのに、あたし夕べ、庭をのぞきに来たの、あのあたしたちの舞台がまだあるかと思って、そしたら、まだあったのね、泣いちゃった、二年振りに。そしたらつかえたものがスーととれて楽になったの。ホラ、もう泣いてないでしょ。(彼の手を取る)で、あなたは作家になった。あなたは作家に、あたしは女優に。二人とも過酷な世界に身を投げ込んだ……。あたし、あのころは子供のように幸せだったのね。朝目が覚めるともう歌い出してた。あなたのことが大好きで、栄光への道にあこがれて……、でも今は? 明日の朝、あたしはイェレーツ行きの汽車に乗る、庶民的な、汚らしい三等車。そして、イェレーツへ着くと、厭らしいオヤジたちにつきまとわれる生活! 最低の生活! トレープレフ:なんでイェレーツなんかに? ニーナ:この冬のシーズンの契約をしたから、もう行かなくちゃ。 トレープレフ:ニーナ、たしかに僕は君を呪った、憎んだ、君の手紙も、写真も、ぜんぶ引き裂いた! でもいつも、魂がどこかで君とつながっているのを感じてた! 君を愛するのをやめるなんて不可能だ、ニーナ。……君を失って、自分の書いたものが活字になるようになって、僕にはもう、どうにも人生が耐えられなくなった、みじめだよ……。突如、若さを奪い取られて、もう100年もこの世に生きさらばえて来た老人のような気がする……。君の名前を呼びながら、君の歩いた大地にくちづけしながら、どこを見ても浮かぶのは、君の顔、やさしい微笑み、ああ、僕の人生の最高の瞬間……。 ニーナ:(動揺して)なんでそんなこと言うの! なんで! トレープレフ:淋しいんだ。誰も僕を温めてくれない、誰も。僕は、冷たくひからびて墓穴の中で腐ってる死体だ。いくら何を書いたって、どこにも行き着かない、窒息しそうなんだ! いてくれ、ニーナ! お願いだ。でなきゃ僕が君と一緒に……。 ニーナ:(すばやく帽子とショールをつける) トレープレフ:ニーナ! どうして? 頼むよ、ニーナ!(しかし、ただ、ニーナが身支度するのを見ている)
ニーナ:門に馬車を待たせてありますの。送ってくださならなくっても結構よ。一人で行けますから。(泣いて)……水をちょうだい。 トレープレフ:(あわてて水をコップについで渡す)どこへ行くの? ニーナ:町よ。
お母さま、いらっしゃてるんでしょ? トレープレフ:うん。火曜日に伯父さんが倒れて、それで電報で知らせたんだ。 ニーナ:……なんでそんなことを言うの? あたしの歩いた大地にくちづけしたなんて。あたしなんか殺されても仕方がないのに。(ふっとよろめいて、テーブルにもたれる)……疲れたの、少しだけ、休ませて……、少しだけ……。(と、頭をあげて)あたしはかもめ……違う! 女優よ、女優! 「アッハッハッハ!」という笑い声が聞こえる。アルカージナとトリゴーリンである。 (ハッとして、上手のドアまで行ってカギ穴からのぞいて)あの人もいるの!(トレープレフのところに戻りながら)そりゃそうよねえ! あたりまえだわ! あの人、芝居なんかまったく軽蔑してたのよ、いつもバカにしてたのよ、あたしの夢を。それでいつのまにか、あたしも疲れてしまって……、結局、恋だのなんだの、それに、子供のことだっていつも気掛かりで、だから、あたし、つまらない女になっちゃったのよ! 芝居だって最悪! 手の使い方も知らない、どう立ってればいいのかもわからない! 声ひとつ満足に出せやしない! わかる? ヒドいなって、演ってて自分でわかるのがどんな気持ちか? あなたにわかる? あたしはかもめ……違う! ……。覚えてる? かもめ、あなたが撃ち落とした……、「ふらりと現れた男が目をつけて、退屈まぎれに破滅させてしまう、一人の少女」「短編の題材だよ」……違う!(額をコシコシする)なんの話だっけ? そう、お芝居の話ね! フフフ、私は変わったのよ、もう女優なの、私は、本物の! だから、演じるのが好き! 大好き! 夢中なの。舞台に立つと、ゾクゾクして自分が美しいって思えるの。今もね、ここに来てから、歩いて、考えて、歩いて、考えて、一日一日、自分がたくましくなっていくのを感じてたわ……。それでね、コースチャ、あたしわかったの、あたしたちの仕事ってね、演じるのも書くのも、大切なのは……、有名になることでも、売れることでもない。どうやったら生き延びてゆけるかってこと。どうやったら自分の十字架を背負いながら、それを信じていけるかってこと。あたしは信じてる。だから辛くはないし、これが人生だと思えば、生きるのも恐くない。 トレープレフ:(悲しい)君は……、君の道を見つけたんだね。どうやって進めばいいのかもわかってるんだ。でも僕は、まだ夢と幻想の渾沌とした世界で、それがなんのためなのかもわからない。信じられない。これが人生だなんて、信じられない。 ニーナ:シーッ! もう行くわ。さようなら。いつか、私が大女優になったら、そしたら見に来て、約束よ……(彼の手を強く握る)あーあ、遅くなっちゃった。もう立ってるのがやっとって感じ。疲れてるし、お腹もすいてるし。 トレープレフ:待ってて、なんか持ってくるよ。 ニーナ:いらない。送ってくださならなくっても結構よ。一人で行けますから。馬車はすぐそこです。……お母さまが、あの人を連れてきたの? いいの、わかってるから、あの人には何も言わないで……、あたし、あの人が好き! 前よりもずっと好き! 短編の題材……、好きなのよ! どうしようなく好きなのよ! 死ぬほど好きなのよ! ……昔はよかったわねえ、コースチャ、覚えてる? のどかで、あたたかで、楽しくって、無邪気だった、わたしたちの人生。やさしい、あでやかな花のような感受性。覚えてる? ……「人人もライオンもワシも雷鳥も、角のある鹿もガチョウもクモも、水の中の物言わぬ魚もヒトデも目に見えぬ微生物も……つまりは、命あるものすべて、すべてその悲しい輪廻から逃れて、消え失せて……もはや何千年もの間、この地球には生命は生まれず、あの哀れな月だけが虚しく明かりをともして久しい。草原には目覚めた鶴の声もなく、菩提樹の林にはコガネムシの羽音も絶えた――」
トレープレフ:(しばらくぼんやりして)誰かに見つかって、ママに話されるとマズいなァ。またママが傷つく……。
ドールン:(上手のドアを開けようとして)変だなァ。カギでもかかってるのかな?(イスを押しやって入ってくる)障害物競争だ。
アルカージナ:あたしはワイン。(トリゴーリンに)ホラ、あなたのビールもあるわよ。今度は飲みながら行きましょうか。さあ、みなさん、座って! ポリーナ:あとでお茶もお持ちしますわ。(ろうそくを点けて座る) シャムラーエフ:(トリゴーリンを引っ張って行って)これですよ。さっきお話した。(かもめの剥製を持って)あなたから頼まれたんですから。 トリゴーリン:(剥製を見て)僕かァ、覚えてないなァ。(考えながら)いやあ、覚えてないよォ!
アルカージナ:なにかしら? ドールン:なんでもないでしょう。私のカバンの中で、何か薬品が破裂したんです。ご心配なく。(下手のドアから出ていく)
思ったとおりでした。エーテルの瓶が飛び散ってました。
(聞こえないような声で)「♪ああ、もう一度、あなたの前に……」 アルカージナ:(テーブルに座って)もうおどかさないでえ。あのときのことを思い出しちゃったわ。(両手で顔を覆って)一瞬目の前が暗くなったわよ。 ドールン:(雑誌のページをめくりながら、トリゴーリンに)これですが、2か月ほど前でしたか、これにある記事が載ってましてね、確かアメリカからのレポートだったんですが、ちょっとあなたにお聞きしたくって……(と、トリゴーリンの背中に腕を回して舞台前へと連れて来て)いや、どうにも気になりましてね。(声を落として)アルカージナさんを、どこかへ連れ出してください。実は、コースチャが自殺したんです……。(と、雑誌のページを閉じる) |