作:アントン・チェーホフ
Anton Chekhov

第3幕

朝の光に包まれた食堂。食器棚とテーブルとイス。
窓が一つ。床には出発の準備を伝えるスーツケースなど。

12 あたしの先生

トリゴーリン、一人で最後の朝食を食べている。
マーシャ、ウォッカのグラスを手にホロ酔い気分。

マーシャ:せんせぇ……。

トリゴーリン:(食べながら)ン。

マーシャ:こんなことをお話しするのも、先生が作家だからなのよ。よかったら、どこかで使ってくれてもかまわないの。……正直言ってあたしね、あの人の傷がもっとひどかったら、生きていなかったかもしれない。けど、決めたの、頑張ろうって。この気持ちを自分の中から消そうって! 根こそぎ引っこ抜いてやろうって!

トリゴーリン:でも、どうやって?

マーシャ:結婚するのよ、メドヴェジェンコと。

トリゴーリン:あの学校教師と?

マーシャ:そう。

トリゴーリン:それで、なんとかなりますか?

マーシャ:さあ? わかんないけど。でも、いつまでも望みのない恋をしてたって、何年も何年もただ待ってたってさ……。愛はないけど、結婚すれば新しい悩みも出てきて、古い悩みなんかきっと忘れられるでしょ? それだけでも変化よ。もう一杯どう?

トリゴーリン:大丈夫かい?

マーシャ:あら!(二つのグラスになみなみ注ぎながら)そんなふうに見ないでくださる? 先生がご想像なさってるより、女ってお酒、飲むんですよ。まあ、あたしみたいに大っぴらにやるのは少ないけど、でもみんな隠れて結構やってるわ。それも、たいていコニャックやウォッカ。(グラスを合わせて)お幸せに! あなたって親切な、いい方だわ。お別れするのが残念。

二人、飲む。

トリゴーリン:僕だって発ちたくはないんだ。

マーシャ:どうしてもっといようって言わないの?

トリゴーリン:ムダでしょう、今度ばかりは。息子があんなことをしでかしたんですから。……ピストル自殺の後、僕に決闘を申し込んだそうじゃないですか? なんともまあ、スネて、イジけて、最後は新形式のお説教だ。場所はまだ、たっぷりあるのに、新人にもベテランにも。なにもツノ突き合わせることはないんだ。

マーシャ:嫉妬もあるんだわ。……ま、あたしの知ったこっちゃないけどさ。

間。ニーナが入ってきて、窓辺に立つ。

……あたし、申し訳ないって気もするの。だって、あたしの、あの学校の先生は、頭は良くないけど、ノンキだし、貧乏だし、あたしのことが好きだから。……でも、じゃあね、せんせぇ、あたしのこと忘れないでね。(しっかりと握手して)いろいろとどうもご親切に。できたら今度、ご本を送ってくださいね、サインを添えて。

トリゴーリン:うん。

マーシャ:嫌よ、「敬愛なるマーシャさんへ」なんて、ありきたりじゃ。こう書いて、「生まれもわからず、なんのために生きてるのかもわからない、マーシャさんへ」って! さようなら!

マーシャ、出ていく。

13「昼と夜」

ニーナ:(トリゴーリンに握った片手を差し出して)偶数? 奇数?

トリゴーリン:偶数。

ニーナ:ハズレ。豆は一つ。あーあ、賭けてみたんだけどな、あたしが女優になれるかなれないか……、誰かハッキリさせてくれないかなぁ。

トリゴーリン:誰にもなんともできないでしょう、それは。

間。

ニーナ:お別れですね。……たぶん、あたしたちはもう二度と会えません。記念にコレ、あなたのイニシャルを彫らせたの。こっちには、あなたのご本のタイトル、「昼と夜」。

トリゴーリン:へえ、すごいなあ。(と、ペンダントにキスする)ありがとう。

ニーナ:ときどき思い出してね、あたしのこと。

トリゴーリン:思い出しますよ、とりわけあの晴れた日のあなたのことを。覚えてますか? 一週間ほど前、あなたは明るい色のワンピースを着ていた……。僕たちは話をしてて、ベンチには白いカモメが……。

ニーナ:(重々しく)そう、カモメが……。

間。

ダメ。誰か来る。行く前にあと2分、あたしにちょうだい、お願い!

ニーナ、上手に去る。

14 口笛吹いて

入れ代わりに、アルカージナとソーリンが入ってくる。
ソーリンは、燕尾服に勲章をつけている。

アルカージナ:家にいなさいよ。リューマチなんでしょ。そんなんで出歩く人がありますか。(トリゴーリンに)誰かいたの? ニーナ?

トリゴーリン:ええ。

アルカージナ:あーら、お邪魔だったかしら?(座って)ふう。なんとか荷造りは済んだようね。ああ疲れた。

トリゴーリン:(ペンダントの文字を読んで)「昼と夜」、121ページ、11、12行……? 何が書いてあったろう? (アルカージナに)この家に、僕の本あったかな?

アルカージナ:ええ。書斎の、角の本棚に。

トリゴーリン:121ページ、か……。

トリゴーリン、去る。

アルカージナ:ホントよ、家にいなさいよ。

ソーリン:家にいたって、つまらんよ、おまえは行っちまうし。

アルカージナ:町でなにかあるの?

ソーリン:特にはまあ、そういうことじゃが……(と、笑って)市庁舎の起工式があるわい! ……ちゅうかなんちゅうか、一時間でもいいんじゃ、こんな穴蔵で、古びたパイプみたいに埃をかぶってるよりゃ……、1時ンなったら、馬車を回すように言ってあるから、なあ、一緒に出掛けよう。

間。

アルカージナ:ここで暮らすよりほかないのよ、兄さんは。あんまり退屈がって、風邪なんかひかないでね。あの子のことはお願いします。面倒見てあげてちょうだい。

間。

……発ってしまえば、あの子がなぜ自殺なんかしようとしたのか、わからないままだわ。結局、嫉妬でしょ? だから少しでも早くここからトリゴーリンを連れ出したいのよ。

ソーリン:なんちゅうのかなぁ……、理由は他にもあったさ。そうじゃろ? あの子だってまだ若いし、才能もあるんだろうし、なのにこんな田舎で、金も地位も将来の見通しもないままじゃあ、なんもすることのないままじゃあ、腐ってくような気がするのさ、恐いのさ。わしゃ、あの子が好きじゃ。あの子もわしを慕ってくれとる。じゃがなんちゅうのかなぁ、ここにいるのが納得できないんじゃろなぁ、居候みたいな感じなんじゃろ。あの子にだってプライドがあるさ。

アルカージナ:ああ、ホント、苦労されられるわ!

間。

働きに出させたらどうかしら?

ソーリン:(あきれるが、ためらいがちに)それより何より……。なあ、おまえ、いくらかでも持たせてやったらどうじゃろ? 身なりをキチンとさせて、ちゅうか、見てごらん、年がら年中、同じ擦り切れたジャケットで、コートの一つも持っとらん!(と、笑って)旅行だって悪くないぞ。外国かどこかへ、なあ、金だってそんなにかからんじゃろうよ。

アルカージナ:そうねえ、着るものくらいだったら、でも外国となるとねえ……。ダメ。今はダメよ。着るものだって。(きっぱりと)お金なんかないわ。

ソーリン:(口笛を吹いて)

アルカージナ:ないのよ!

ソーリン:(口笛を吹いて)わかった。わかった。わしが悪かった。そうともさ、おまえは気立てのいい、やさしい女じゃよ。

アルカージナ:(泣いて)だってないんだから!

ソーリン:わしが持ってりゃなあ、それこそ、ポンと出してやるんだが、あいにくわしも一文なしだ。(と、笑って)わずかな年金も、牛だ、蜜バチだ、みんな農場に取られて、捨てるようなもんじゃ。牛は死ぬ、ハチも死ぬ、馬にすら使う金がない……。

アルカージナ:そりゃ少しはあるわ、でもあたしは女優よ。衣装代だけだって、破産しそうなのよ。

ソーリン:ああ、ああ、わかっとる、わかっとる、おまえの気持ちはわかっとるよ。そうともさ……、ああ、じゃがわしゃ何だか……(よろめいて)めまいが……(テーブルにもたれる)気分が悪い、とまあ、そういうことじゃろ!(倒れる)

アルカージナ:(驚いて)ちょっと!(助け起こそうとして)しっかりしてよ! (叫ぶ)誰か! 誰か来て!

15 ぼくのママ

頭に包帯を巻いて、コップの水を持ったトレープレフと、
杖を持った、メドヴェジェンコが駆けつける。

アルカージナ:気分が悪いって!

ソーリン:(起き上がって)なーんてな! ハッハッハ!(と、水を飲んで)ま、大丈夫大丈夫、そういうことじゃ。

トレープレフ:驚かなくてもいいよ、ママ。たいしたことじゃないんだ。このごろ伯父さん、すぐこうなるんだ。少し横になってれば、伯父さん?

ソーリン:うん、少しな……、でもわしゃ出かけるぞ、少し横になって、それから、出かけるんだ、だってそうじゃろう。

メドヴェジェンコから杖を受け取って立ち上がる。

メドヴェジェンコ:(ソーリンの腕を取って嬉しそうに)こんな謎なぞがあったね。朝は四本足、昼は二本足、夕方は三本足って。

ソーリン:それで夜にはバタンキューか! 一人で歩けるちゅうに。大丈夫じゃ、大丈夫大丈夫……。

メドヴェジェンコとソーリン、去る。

アルカージナ:驚かさないでよ、もう!

トレープレフ:田舎暮しがよくないんだ。気が滅入るんだよ。ママが突然、気前よくなって、2000くらい貸してあげたら、それで伯父さんも一年は町で暮らせるのに。

アルカージナ:ないわよ、お金なんか。あたしは女優よ、銀行家じゃないわ。

間。

トレープレフ:包帯を替えてくれない、ママ? ママは上手だから。

アルカージナ:(食器棚からヨードチンキと包帯を取り出して)遅いわね、ドクターも。

トレープレフ:10時には来るって言ってたんだけどな、もう12時だ。

アルカージナ:座りなさい。(頭の包帯をほどきながら)ふふふ、ターバンみたいね。昨日、お勝手に来てた人が、あんたのこと見て、あれは何人だって言ってたわよ。でも、ほとんど直ってる。ほんの少し、ほんのちょっと開いてるくらいだわ。(と、頭にキスして)あたしが行っちゃったら、あんなピストルごっこはもうしないで、いい?

トレープレフ:うん。あのときは本当に絶望しちゃって、自分でもどうしようもなかったんだ。二度と起こらないよ、あんなこと。(と、母の手にキスして)ちっちゃな、魔法の手だ……。ずっと昔、ママが国立劇場に出てて、僕はまだ子供だった頃、アパートの中庭でケンカがあったの、覚えてる? 一緒に住んでた洗濯屋の女の人がひどく殴られたの、覚えてる? あの人、気を失っちゃってさ……。ママ、何度もお見舞いに行ってあげてたよね。薬を持ってったり、子供たちを洗ってあげたり、覚えてない?

アルカージナ:そうねえ。(新しい包帯を巻いている)

トレープレフ:同じアパートにバレリーナが二人いて、よくお茶を飲みに来てたのは?

アルカージナ:それは覚えてる。

トレープレフ:二人とも、とても信心深かい人たちだったなあ。

間。

このところさ、ここ何日かさ、僕、ママのことが好きでしようがないんだ。子供の頃みたいに……。僕にはもう、ママしかいないんだ。なのに、なぜ、ママはあんな男と一緒にいるんだろう?

アルカージナ:あなたにはわかってないのよ。いい、あんなに立派な人はいないのよ。

トレープレフ:そのリッパな人が、僕に決闘を申し込まれたと聞くと、とたんに弱腰ンなって、逃げ出すんだもんなあ。情けねえよな!

アルカージナ:何言ってんのよ! あたしから出て行きましょうってお願いしたのよ!

トレープレフ:いやあ、リッパリッパ! そりゃ立派だねぇ! でも、こうやって僕たちが、あいつのことで言い合ってる間にも、あいつは客間か庭か、どこかそこらで僕たちのことをあざ笑ってるんだぜ。ニーナの頭に、自分がいかに立派かっていうことを吹き込もうとしてるんだぜ。

アルカージナ:あんた、そういうことを言って、自分が情けなくならないの? ……あたしは、彼を尊敬してるわ。信用しているんです。だから、あたしの前で、彼をけなすのはやめてちょうだい?

トレープレフ:でも、こっちはソンケイなんかしてませんから、あしからず。ママはあいつの才能を僕に認めさせたいんだろうけど、僕は嘘がつけなくってねえ! あいつの本なんかヘドが出るよ!

アルカージナ:負け犬の遠吠えねえ! 才能のないシロウトは、本物のプロフェッショナルを前にするとやたらめったら吠えるのよ。始末に負えないったらないわ!

トレープレフ:何がプロだぁ! 悪いけど、僕はおまえたちの誰よりも才能があるんだよ!(と、包帯を引き裂いて)カビのはえた、クソ石頭なおまえたちが、さんざおいしいところを独占して、自分たちだけを正当だと決めつけてるんじゃないか! それ以外のものは排除して、抹殺してるんじゃないか! 僕は認めないぞ、誰も! おまえも! あの野郎も!

アルカージナ:いいかげんになさい! 自分を何様だと思っての、このボウヤが? 退廃デカダンのくせに!

トレープレフ:てめえこそ、大好きな劇場にさっさと引っ込んで、みじめな三流芝居をやってろよ!

アルカージナ:悪いけどねえ、あたしゃ、そんな芝居に出た覚えは一度もないわ! あんたこそ、なにさ、マトモなコントの一つも書けないくせに! この、キエフの商売人! 貧乏人!

トレープレフ:ケチンボ!

アルカージナ:居候!

トレープレフ:ああっ……!(座り込んで静かに泣き出す)

アルカージナ:マザコンボウヤ!

アルカージナ、興奮して歩きまわる。

泣かないでよ……、泣かないで!(と、泣く)ねえ!(息子の額、頬、頭にキスキスキス!)お願いだから、いい子だから……。ひどい母親ね。かわいそうなのは、あたしなのよ……。

トレープレフ:(ママを抱いて)わかってよ、ママあ! 僕には何も残ってないんだ。ニーナは僕のことなんか愛してもいないし、僕にはもう何も書けないよ……。

アルカージナ:泣かないの! なにもかもよくなるからね。あの人がいなくなれば、あの子もまたおまえのところに戻ってくるわ。(涙をふいてやって)さあ、おしまい。仲直りよ。

トレープレフ:(ママの手にキスして)うん、ママ。

アルカージナ:(やさしく)彼とも仲直りしてね。もう決闘はなし。そうでしょ?

トレープレフ:うん……。でも、顔を会わせたくない。辛すぎるよ……。

16 私の王様

トリゴーリンがやってくる。

(それを見て)じゃあ……(急いで薬品を棚に戻しながら)後でドクターに巻いてもらうよ……。

トリゴーリン:(本をめくりながら)121ページ、11、12行……と、ここだ。「いつか私の命がお入り用でしたら、取りにいらして……」

トレープレフ、包帯を拾い上げて去る。

アルカージナ:(時計を見て)もうすぐ馬車が来るわよ。

トリゴーリン:(自分に)「いつか私の命がお入り用でしたら、取りにいらして」

アルカージナ:荷造りは出来てるの?

トリゴーリン:(イライラと)わかってるよ。(目を閉じて)この、純真な心の叫びの中に、俺には悲哀の声が聞こえる……。なぜだろう? なぜ、俺の胸はこんなにドキドキするんだろう?「いつか私の命がお入り用でしたら、取りにいらして」(アルカージナに)……ねえ、もう一日いよう!

アルカージナ:(首を振る)

トリゴーリン:あと一日、もう一日!

アルカージナ:わかってるわ、あなたが何に後ろ髪を引かれているのか。しっかりなさい! 酔ってるんでしょ。さあ、頭を冷まして。

トリゴーリン:きみこそ、頭を冷やしてくれ……。落ちついて、理性的になって、考えてくれ、本当の友だちとして。頼む。(と、アルカージナの手を握って)きみは自分を犠牲にできる、賢い女だ。そうだろう? 親友として、僕を自由にしてくれるだろう?

アルカージナ:(大きな声で)あんな田舎娘のどこがいいのよ?

トリゴーリン:魅かれてる! どうしようもなく! たぶん、僕には必要なんだ。

アルカージナ:あなた、自分を見失ってるわ……!

トリゴーリン:……人はときどき、歩きながら眠ることがある。こうして話をしながらも、僕はじつは眠っていて、あの子の夢を見ているのかもしれない……。うっとりとしながら、やるせない夢を……。お願いだ、行かせてくれ!

アルカージナ:(震えて)いやよ……、いやよ……、あたしは普通の女だわ……。やめて、そんな話し方……、あたしを苦しめないで、恐いの……。

トリゴーリン:その気になれば、きみだって賢い女になれるんだ……。ああ、夢のようにかぐわしい、狂おしい恋……。詩的でみずみずしい、魔力にあふれた愛……。ただそれだけ、ただそれだけがこの世でしあわせを与えてくれる。でもまだ、僕はそんな愛を味わったことがない……。若いころはあまりに忙しかったんだ。出版社の首にぶら下がって、ただただ貧乏と戦って……。それが今、向こうから手招きをして僕を誘っているんだよ。避ける理由がどこにあるんだ?

アルカージナ:狂ったのね!

トリゴーリン:それでもいい!

アルカージナ:ああ! なんで今日はみんなあたしをいじめるのォ!

トリゴーリン:(頭を抱えて)わかってくれない! わかってくれない!

アルカージナ:あたし、そんなにトシを取ったの? 醜くなったの? あたしの前で、平気で他の女の話をするなんて!(トリゴーリンを抱いて、キスして)気が狂ってしまったんだわ! あなた! ねえ、あなた! あたしの大事な、あなた! あたしの人生の最後の1ページ!(跪いて)あたしの喜び。あたしの誇り。あたしのしあわせ!(膝を抱いて)あなたに捨てられたら、一時間だって生きていけない。本当に気が狂ってしまう。あたしの大事な人、素敵なあなた、あたしの王様!

トリゴーリン:(びびって)誰か来るよ……。(女を起こそうとする)

アルカージナ:かまわないでしょう。あなたを愛することが恥ずかしいことなの?(男の両の手にキスして)宝物だわ。……あなたはバカなマネがしたいんでしょうけど、あたしが許しません。絶対に許しませんからね! ハッハッ! これはあたしのものよ! あたしのもの……、このおでこも、この目も、この柔らかい髪の毛も、全部あたしのもの……。あなたは本当の天才で、かしこくって、現代の最高の作家だわ。ロシアでただ一つの希望だわ。誠実で、まっすぐで、新鮮で、驚くようなユーモアがあって、たったひと筆で、風景や人間の本質を描き切る。あなたの描く人間は、生きている。読んで魅き込まれない人はいないくらい。嘘だと思うの? 見て、あたしの目を見て! これが嘘をついている目? どう! ……わかった? あたしだけよ、あなたの本当の価値を認めてあげられるのは。あたしだけ。あなたの真実を口にできるのは、そうでしょ。ステキよ、あなたは……。さあ、じゃ、一緒に行くわね?あたしを捨てないわね?

トリゴーリン:……俺には意志というものがないのか、俺には……。こんな、芯のない、愚にもつかない、なさけない男が、本当に女から愛されるのか? ……さあ、連れていけ、どこへなりと! だが一瞬でもそばから離すなよ!

アルカージナ:(小さく)これであたしのものだわ。(なにもなかったかのように)でも、行きたければ行ってもいいのよ? あたしは行くわ。あなたは後から来ればいいじゃない、一週間もしたら。急ぐ必要もないんでしょ?

トリゴーリン:いや、一緒に行くよ。

アルカージナ:お好きなように。……まあ、じゃ出かけましょ。

間。

トリゴーリン:(手帳を取り出して書きつける)

アルカージナ:なに?

トリゴーリン:今朝おもしろいフレーズを聞いたんだ、「処女の森」だってさ。これは使える……(伸びをして)あーあ、また汽車か。駅に、食堂車に、カツレツに、おしゃべりか……。

17 時間です!

シャムラーエフ、ごきげんに登場。
続いて、ポリーナ、メドヴェジェンコ、ソーリン、マーシャ。

シャムラーエフ:(なかば観客に)どうも、みなさん! 本日はご来場、マコトにお日柄もよく、残念ながらご報告申し上げねばなりません。奥さん、馬の用意ができました。時間です。さあ、駅へと向かいましょう。汽車の時間は2時5分。……ところで奥さん、お忘れではござんせんでしょうなあ、例の件。あの、「名優スーズダリチェフや、今どこに?」。ぜひともお調べくださるよう。はたして、奴は今も生きているのか? 健在なのか? いやあ、昔よく一緒に飲み歩いた仲でしてね。「郵便強盗」じゃあ、天下一品の芸を見せてくれたもんでした。よくコンビを組んでた、あの、悲劇役者のイズマイロフ、こいつもなかなかの男でしたが……、いやいや、そうお急ぎにならずとも、あと5分は大丈夫。……そうそう、とあるメロドラマでしたか、二人は逃げる謀反人、不意を襲われあわや、という場面、「しまった! フクロのネズミだ」と言うところを、さてものイズマイロフ、なにを焦ったか「フクローの寝過ぎだ!」(と、大笑い)ガッハッハ! フクローの寝過ぎだ! って、ねえ、そりゃないでしょ? ホー! ホー!

とこう、シャムラーエフが喋っている間に、ポリーナ、マーシャは荷物を用意し、アルカージナは帽子、コートなど、旅支度。

ポリーナ:(カゴを差し出し)これ、スモモを。汽車ン中じゃ、こういうものが召し上がりたくなるんじゃないかと思いまして……。

アルカージナ:まあまあ、気を遣わせてしまって。

ポリーナ:奥さま、どうぞお元気で。なにかと行き届かない点があったとは思いますが、どうかお許しくださいませ。(と泣く)

アルカージナ:(管理人の妻を抱いて)完璧だったわ、申し分なしよ。あんたが泣いたりしなきゃねえ!

ポリーナ:もう残り少ないんです! あたしたちの時間は……。

アルカージナ:まあね、どうしようもないわね……。

ソーリンが帽子をかぶり、ステッキを手に現れ、

ソーリン:時間じゃ時間じゃ! 遅れるぞ! わしゃ先に行っとるからな、とまあそういうことじゃ。(と、出ていく)

メドヴェジェンコ:僕も行かなきゃ、なんせ駅まで歩きなんで。ではでは。(と、出ていく)

アルカージナ:では皆さん、ごきげんよう! さようなら! もし元気でしたら、また来年の夏にお会いしましょう。(と、観客に)さようなら! さようなら! あたしのこと忘れないでね。(と、観客に)ホラあんたたち、コレお駄賃。三人で分けるのよ!

シャムラーエフ:ぜひお便りを! あなたもさようなら、トリゴーリンさん。

アルカージナ:だけど、コースチャったらどこに行ったのかしら? もう行くからって、あの子に言ってちょうだい。さよならを言わなくっちゃ。それじゃあね、みなさん! ちゃんと三人でわけるのよ!

一同、退場。
舞台には誰もいなくなる。
と、ポリーナが戻ってきて、置き忘れたスモモのカゴを取って、

ポリーナ:ン、もう!(と出ていく)

と、トリゴーリンが戻ってくる。

トリゴーリン:俺はステッキだ。テラスだったかな?

上手に出ていこうとして、やにわに入ってきたニーナとぶつかる。

やあ、君か。僕らもう……

ニーナ:もう一度会えるって思ってた!(興奮して)あたし、決めたの! 賭けよ! 舞台に出るわ! 明日ここを出て、パパを捨てて、すべてを捨てて、新しい生活を始めるわ。モスクワへ行くの。あなたと同じように。……あたしたち、また会えるでしょ?

トリゴーリン:(みんなの去った方をチラッと見て)スラヴヤンスキー・バザールに泊まってる。待ってるよ……、住所は、モルチャーノフスカ通りのグロホーリスキ館……。さあもう行かなくちゃ……。

間。

ニーナ:もう少しだけ……

トリゴーリン:(声を落として)きれいだ。夢みたいだ、またすぐ会えるなんて……

ニーナ:(彼の胸に頭をあずける)

トリゴーリン:この目にも、この、うつくしい、やさしい笑顔にも……、このかぐわしさ、柔らかさ、天使のような純粋さ! 素敵だ……

長い長い、キス。

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Scene 1, 2, 3, 4