作:アントン・チェーホフ
Anton Chekhov

第2幕

真昼のまばゆい陽射し。湖の上。木陰の下、凍った水の上に、ベンチとイス。下手が家へ。

7 どっちが若い?

三人並んで、中央にアルカージナ、上手にドールン、下手にマーシャが、ベンチに座っている。
アルカージナ、妙にソワソワ。マーシャ、ボンヤリ。
ドールンは本を手に二人を見たり前を見たり……。

アルカージナ:(命令口調でマーシャに)立って。

二人、立つ。

並んで。あんたは22。あたしは、まあ、その倍。(間)ドクター、どっちが若く見えて?

ドールン:もちろん、あなたです。

アルカージナ:(嬉しい)ホラね! なぜだかわかる? 働いてるからよ! いろんな人に会って、気を使って、ポジティブに生きてるからよ! ところがあんたときたら、四六時中、家ン中にこもってて、ちっとも生きちゃいないのよ。あたしはね、先のことは考えないって主義なの! 年をとるったって、死ぬったって、なるようにしかならないんだから。

マーシャ:(ぼんやりと)なんだかあたし、自分が大昔から生きているような、ズルズル長いドレスの裾を引きずって生きてるような感じなんです……。ときどき生きてるのも嫌になって……(と、腰をおろす)いいんです、そんなこと。さ、気合い入れなきゃ、バシッと行こう、バシッと。

ドールン:「♪ことづてよ、おお、花々……」(オペラ「ファウスト」第三章、ジルベールのアリアより)

アルカージナ:それからね、あたしは自分に特別厳しいの。イギリス人みたいに、いつも背筋をシャンとさせて、服にも髪にもちゃんと気を使うのよ。今までに、あたしが外へ出るとき、こんな庭ですらよ、部屋着のままで、髪もボサボサで、なんてことあった? ないでしょ!(なかば観客に)そういうこと。そこいらのオバサンみたいにルーズになって、自分を甘やかせたりしないの。ほらあ、どう?(と、腰に手をあてて、スキップして)見て。小鳥のリズムよ。少女の役だってまだできるわ。

ドールン:ええっと、先を続けましょうか?(本を取って)粉屋とネズミのところでしたね?

アルカージナ:ちゅうちゅう、ネズミネズミ。続けましょう。(と、座って)貸して。あたしの読む番。(本を奪い取って、続きを探す)ネズミネズミと……、ちゅうちゅうちゅう……。「――だから当然、社交界のご婦人方が小説家を贔屓にして、これを身近に近づけるのは、粉屋が納屋にネズミを飼っておくようなものです。なのに依然として小説家はモテますし、女はこれぞとおぼしき作家に狙いをつけたら最後、彼を手なずけるまで、もう、お世辞、お愛想、お色気の限りを浴びせかけるのです――」……そうお? そうかしら? フランスじゃそうかもしれないけど、ロシアじゃあ、狙いもへったくれもないわよ。手に入れようなんて考える前に、自分のほうからメロメロになっちゃうんだから。そうでしょ? あたしとトリゴーリンがいい例よ……。

8 お昼寝日和(人生談義1)

下手から、ニーナとメドヴェジェンコに介助されて、ソーリンが杖を担いでやってくる。三人とも妙にハッピー。
ドールンとマーシャは、申し合わせたように席を立つ。

ソーリン:(孫を可愛がるジジイのように、ニーナに)ン、ン、ン? なんだいなんだい? そうかい! そりゃハッピーじゃろうなァ!(アルカージナに)いやいやハッピーなんじゃよ。そりゃそうさ、お父さんもお母さんもトヴェーリへ出かけて、まるまる3日も、この子は自由の身なんだぞ。

ニーナ:(アルカージナに隣に座って)そうなんです! あたし、みなさんとずっと一緒にいられるんです!

ソーリン:今日はまた一段と可愛らしいだろ、この子は。

アルカージナ:ホントね、ずいぶんオシャレして……。カワイイお嬢さんだこと。(とニーナにキス)誉めすぎると、幸運の女神が嫉妬するわね。トリゴーリンはどこかしら?

ニーナ:浜辺で釣りをしてました。

アルカージナ:まぁ、よくもあきずに。(と、本を開く)

ニーナ:なんですの?

アルカージナ:モーパッサンの「水の上」

と、ページを眺める。間。

まぁ、嘘ばっかり! ああ、落ち着かない!(閉じる)ねえ、どうしちゃったのかしら、うちの息子は? なんで、あんなにつまらなそうな顔でふさぎ込んでるの? 一日中ずっと湖で、あたし、ろくに顔も見てないわ。

マーシャ:ムシャクシャしてるんですわ。(やさしくニーナに)ねえ、あの人の戯曲をなにか読んでくれない?

ニーナ:(肩をすくめて)あたしがですか? つまんないですよ、あんなの?

マーシャ:(こみ上げてくる興奮を抑えながら)あの人! 自分で朗読すると、目が燃えるようになるのよ! 顔は青ざめて、悲しそうな、済んだ声はまるで本物の詩人だわ!

ソーリン:(いびき)グーグーグー。

ドールン:いい、お昼寝日和ですな。

アルカージナ:ねえ、ちょっと!

ソーリン:ン?

アルカージナ:寝てたの?

ソーリン:(慌てて)あいや、いやいや……。

間。

アルカージナ:ねえ、兄さん、ちゃんと治療は受けてるの? ダメよ、ほったらかしにしたら。

ソーリン:そりゃ、こっちが聞きたいよ! ドクター、あたしゃもう治療を受けるのも無駄ってことですか?

ドールン:(驚いて)治療? 60にもなって?

ソーリン:60だろうが80だろうが、生きたいに決まっとる!

ドールン:(吐き捨てるように)じゃあ、カノコ草でも飲んだらいい。

アルカージナ:どこか温泉にでも行ってきたらどうかしら?

ドールン:そう、それもいいでしょうが……、まあ、よくもないでしょう。

アルカージナ:よくわからないわね。

ドールン:わからないことはない。ハッキリしてますよ。

間。

メドヴェジェンコ:タバコをやめたらどうなの?

ソーリン:バカバカしいわい。

ドールン:バカバカしくはない。タバコも、酒も、あなたからあなた自身を奪い取るんです。ウォッカを一杯、タバコを一服。それであなたは、もはやソーリン・ニコライェヴィッチではなくなって、ソーリン・ニコライェヴィッチ、プラス誰かになってる。自分てものをなくして、どこか知らない誰かになってるんです。

ソーリン:ワッハッハ! 言いたいことをいいおるわ。自分はさんざ遊んで生きてきたくせに。じゃが、わしゃどうだ? 法務局に28年務め上げたァいいが、楽しいことなんかなんも、なんも知らんまんまじゃ、っちゅかなんちゅうか、まだまだ生きたいわい! 当たり前じゃろ。あんたはいいさ、あんたはそうやってのうのうと屁理屈並べてりゃいい。じゃが、わしゃまだ生きたいんじゃ。じゃから晩にはシェリーを飲むし、タバコもふかすんだ! それに……、まあ、そういうことじゃ。

ドールン:人生はマジメに生きるべきものですよ。こういっちゃなんですが、60にもなって治療してくれだの、若いときに遊べなかったのが口惜しいだの、愚かさですな。

マーシャ:そろそろお昼じゃないかしら?(と、立って、歩き出そうとして)あ……(と、よろよろする)足がしびれちゃった……。

マーシャ、去る。

ドールン:ああやって、食事の前に一杯だ。

ソーリン:「貧しき者こそ幸せなり」、なんて、どうせ嘘さね。

ドールン:なんてことを! それが法務省に務めていた人間の言うことですか?

ソーリン:そんなのはみんな人生に満足している者のセリフじゃ!

アルカージナ:ああ、つまらないわねえ! 何がつまらないって、この田舎のつまらなさに勝るものといったらないわね! 暑いし、静かだし、みんな何にもしないで、理屈ばっかりこね回してて……。あたし、みなさんと一緒にいるのは好きですし、みなさんのお話を拝聴してるのも、身にあまる光栄だとは思いますけど、ホテルの部屋で、台詞の稽古でもしてたほうがよっぽど有意義だわ。

ニーナ:(大きく)わかります! そうでなんでしょうね! 

ソーリン:(オロオロして)そりゃおまえ、あたりまえじゃろ。都会のデスクに座っててみ、取次ぎなしにゃ誰も通さんし、電話もあるし……、街にゃタクシーも走ってるしな、とまあ、そういうことじゃろ……

ドールン:「♪ことづてよ、おお、花々……」

9〈みんな仲良く〉その2

上手から、シャムラーエフ、入ってくる。追い詰められたその顔は、笑ってるのか、怒っているのかわからない。
それを追い掛けて、ポリーナ。

ポリーナ:ちょっと、あんた!

シャムラーエフ:(無視して)どうもみなさん! 本日はお日柄もよろしゅう。(と、アルカージナに挨拶して)いやいや、奥さんに置かれましては、実にご機嫌うるわしゅう。なんでも、今、家内に聞いたところよりますと、今日はまた、家内を連れて、町までお出掛けになるご予定で?

アルカージナ:ええそうよ、そういう予定よ。

シャムラーエフ:ホウ! それはそれは(周囲を見回し)、結構ですなあ……、しかし奥さん、いったいどうやってお出掛なさるおつもりで? いや、というもの今日は、わたくしどもみんな麦の荷出しにてんてこ舞いでして、いったいどの馬を使うおつもりで?

アルカージナ:どの馬なんて、そんなこと、あたしの知ったこっちゃないわ。

ソーリン:荷車用のがあるだろ、荷車用のが。

シャムラーエフ:(キレて)荷車用だあ? じゃあ、その馬具はどこにあるっていうんだ? ええ、いったいどこに? バカも休み休み言ってほしいもんだ。……ねえ、奥さん! あたしゃね、奥さんの才能にはまったく、真実、敬服しているもんですが、ああ、もう、残りの命を10年分、捧げてもいいと思ってるくらいですがねえ。でも、いっさい馬は出せませんよ!

アルカージナ:(笑って)でも、どうしても出掛けなくちゃいけないとしたら? バカじゃないの!

シャムラーエフ:奥さん! あなたには農場経営というものがてんでわかってない!

アルカージナ:(突然、烈火の如く)なによ、冗談じゃないわ! あたし帰るわ、モスクワに。村に行って馬を用意してちょうだい! でなきゃ駅まで歩くわよ!

シャムラーエフ:あたしだって、辞めますよ、こんなところ! 別の人間を雇えばいいんだ!

シャムラーエフ、上手へ出ていく。

アルカージナ:いつもこう! いつもいつもこうなのよ! 毎年毎年、なんであたしが侮辱されなきゃならないの! 二度と来ないわ、こんなところへは!

アルカージナ、下手へ出ていく。(この後、浜辺まで行ってトリゴーリンを連れて家へ戻る姿が見える、らしい)

ソーリン:(いまさらキレて)なんちゅうか、この……、まったく……、信じられんぞ! ええ! 馬という馬をいますぐここに連れて来い!

ニーナ:(一緒になって、ポリーナに)あの人は大女優なんですよ! わかってるんですか? あの人の言うことは、どんなお願いだって、たとえわがままだって、農場の経営なんかよりずっと大切なはずだわ! 

ポリーナ:(がっくりして)あたしに何ができるんです? あたしに?

ニーナ:信じられない!

ソーリン:(ニーナに)さあ、行って、あいつに、帰らないよう説得して来よう。(と、立ち上がろうとする)

ニーナ:(立とうとするソーリンを助けて)ええ。行きましょう。

メドヴェジェンコ:(オロオロしながらも同じく助ける)

ソーリン:(シャムラーエフの去った方を見て)ったく信じられん! なんて失礼な奴なんだ!

ニーナ:(ソーリンを抱えながら)ほんとサイテー!

ソーリン:サイテーじゃ。……じゃが、なあに辞めはしたりはせんさ、わしがまた、話をつけるよ……。

三人、下手へ去る。

10 人生の黄昏れ

ドールンとポリーナ。

ドールン:騒々しい連中だ……。まあ、あんたの亭主は雇われてる身だから、追い出されて当然なんだが、結局は、あのピノキオじいさんと大女優の方で詫びを入れて収まるのがオチだよ。

ポリーナ:荷車用の馬まで畑に駆り出しちまったのよ、ウチの人……(ドールンに寄って)気が狂っちまうわ、あたし。毎日毎日こんなんで、病気になりそう。あの人は下品で、ガサツだし……(マジになって)ねえ、あたしを引き取ってちょうだい……、あたしたちの時間はもう残り少ないわ。お互い若くもないし、これ以上、人目を避けたり、嘘をついたりしたくないの、せめて生涯の終わりだけでも……。

間。

ドールン:僕はもう50過ぎだ。生活を変えるには、遅すぎるよ。

ポリーナ:そうやって逃げるのも、好きなヒトが他にもいるからなのね。みんないっぺんに引き取るわけにはいかないものね。わかってるわ。ごめんなさい。退屈でしょ、あたしなんか。

ニーナが遠くに現れ、花を摘んでいる。

ドールン:そうじゃないさ。

ポリーナ:嫉妬よ。あたし、嫉妬してるのよ。……わかってる、あなたはお医者さんだし、女の人を避けるわけにもいかないし……

ドールン:(近づいてくるニーナに)どうですか、むこうの様子は?

ニーナ:大女優さんは泣いてます。ピノおじさんは喘息の発作で……。

ドールン:(歩き出して)さて、行って、二人にカノコ草でも飲ませるとするか。

ニーナ:(ドールンに花を差し出して)あの、これ!

ドールン:やあ、ありがとう。

ポリーナ:(ドールンに寄って)まあ、可愛らしいお花ね!

ドールンとポリーナ、歩き出す。

(去り際で、声を落として)ちょっとよこしなさいよ! あたしによこしなさいってば!(花を奪って引きちぎると、投げ捨てる)

二人、去る。

11 カモメ

ニーナ一人、なかば観客に向かって。

ニーナ:変でしょお? 大女優があれしきのことで泣きわめいたりする? それに、あの作家さん。新聞にもよく出てるし、外国語に翻訳されたりもしてる作家さんなのに、一日じゅう釣り竿たらしてて、ちっちゃいフナ二匹。そんなんでいちいちはしゃいだりするの? あたし有名人て、もっとプライドが高くて、近づきにくい人種だって思ってた。一般人のことなんかこう、見下しててさ。お金だとか人づきあいだとか、狭いことに執着しているみんなをさ、こう、栄光と名声の高みから、見下して笑ってるんじゃないかって……、なのに、なにあれ。ぜんぜん、フツーじゃないの。

トレープレフがやってくる。銃とカモメの死体を持って。

トレープレフ:ひとり?

ニーナ:そうよ。

トレープレフ、カモメをニーナの足元に置く。

ニーナ:なにこれ、どういうイミ?

トレープレフ:今日、僕は恥ずべきことをした。このカモメを撃ち殺したんだ。これを君の足元に捧げよう。

ニーナ:あなた、どうしちゃったの?(と、カモメを取って眺める)

間。

トレープレフ:いまに僕は自分自身を撃ち殺すんだよ、こんなふうに。

ニーナ:……あなた、変わったわね。

トレープレフ:そうだよ! 君が変わったからだ。僕に対する君の態度。僕を見る君の冷たい目。今だってそうだよ、うっとうしいんだろ、僕の存在が。

ニーナ:それに怒りっぽくなったし、何を言いたいんだか、ちっともわからないし、こんな(と、カモメを見て)なにこれ? ごめんなさい、ぜんぜんわからない。(と、カモメをベンチに置いて)ついてけないわ、あたし単純だから。

トレープレフ:あの夜からだ。僕の芝居がコケにされた夜からだ……。女って奴は絶対に失敗を許さないんだ。あんな芝居、全部引き裂いて、焼き捨ててやった! ああ、僕が今、どんなにみじめか、わかるか! 信じられないよ! 君が急にそんなに冷たくなるなんて! まるである朝目が覚めたら、湖の水が全部干上がってたか、地面に吸い込まれてたみたいだ。(カモメを見て)……わからない? 単純だからついてこれないって? 単純だよ! あの芝居は失敗だった。だから君は、僕の才能を見限って、僕をそんじょそこらの低能と同じ目で見るようになった。単純じゃないか!(床を踏んで)クソ! クソ! クソ!(頭を抱えて)頭に釘を打ち込まれたみたいだ……、クソ! プライドがなんだ! クソだ! そんなもん!

トリゴーリンが見える。本を読みながらやってくる。

ホラ、本物の才能だ。本を片手に、まるでハムレットだ。(マネをして)「言葉……言葉……言葉……」それ見ろ、あの太陽の光のまだ届かぬうちに、君の顔はほころび始めた。まるでとろけそうだ。邪魔はしないよ。

トレープレフ、上手へ走り去る。

11 破滅

トリゴーリン:(手帳に書き込みをしながら)嗅ぎタバコを吸い、ウォッカを飲む女。うん。……いつも黒い服。……学校教師に好かれている。

ニーナ:こんにちは! トリゴーリンさん!

トリゴーリン:やあ。(と、笑ってニーナに近寄って)どうやら、僕ら今日中にここを発つことになりそうです。もうお会いできないかもしれませんね。(笑って)いや、あなたのような若いお嬢さんとお会いできるようなチャンスは、僕にはそう滅多にないもので……、自分が18、9だった頃のことなど覚えてもいないし、そのせいで僕の小説に出てくる女の子たちは、みんな作り物っぽいんです。一時間でもいい、あなたと入れ代われたら、あなたの考えていること、若いということはどういうことなのか、わかったのに、なんて思っていたんですが……。

ニーナ:あたしは、あなたと入れ代わってみたいなあ。

トリゴーリン:また、どうして?

ニーナ:有名で、才能のある作家になるのってどんな感じなのか知りたいの。どんな感じなんですか? 有名人って?

トリゴーリン:どんな感じって。(ちょっと考えて)どっちかでしょうね。あなたが僕の立場を大げさに考えているか、それとも僕が自分の立場に鈍感なのか。

ニーナ:でも、新聞とかで自分のことを読んだりしたら?

トリゴーリン:ホメられた時は嬉しいが、けなされれば2、3日は落ち込みますね。

ニーナ:いいなあいいなあ、うらやましいなあ! 

トリゴーリン:…………。

ニーナ:運命って人それぞれなんですね。クソ面白くもない、退屈な生活を引きずって生きている人たちもいるかと思えば、あなたみたいに、百万人に一人の、有意義な人生を生きている人がいる!

トリゴーリン:僕が?(肩をすくめて)有意義で、有名で、幸せな人生? そういう言葉は……、申し訳ないが、甘すぎるデザートと同じで、僕は絶対に口にしない。あなたは若い、それに優しすぎます。

ニーナ:ステキだわ、あなたの人生って!

トリゴーリン:どこが!(と、時計を見て)申し訳ありませんが、そろそろ仕事に戻らせてください。時間に追われているもので……。(と、立ち止まって)ハハハ、まいったな。痛いところを突かれた。どうも大人げもなく……、いいでしょう、お話しましょう、僕のその有意義な人生について。さて、どこから始めましょうか……。

間(二人はそれぞれの所在場所を発見する)。

強迫観念って、わかりますか? 昼も夜も四六時中、月なら月のことしか考えられなくなるっていうやつです。僕もそれなんですよ。いつも月に追われてるんです。書かなきゃ、書かなきゃ、書かなきゃって……。やっとの思いで書き上げたと思ったら、すぐにも次のに取りかからずにはいられない。そうやってまた次の、さらに次のと休む暇がない。教えてほしいくらいだ、こんな生活のどこが幸せなのか。むごい生活ですよ。……そう、今だって、君とこうして話しながら頭の中じゃ、机の上で待ってる書きかけの小説のことを考えてる。(例えば)ホラ、あそこにグランドピアノのような形の雲が見えるでしょう。僕はすぐ考える、あれはどこかに使えるって。「その時、空には、グランドピアノのような雲が浮かんでいた」。ホラ、このルリ草の匂い、これだって使える、「甘ったるい匂い……、未亡人が身にまとう紫色のドレス……、そして、夏の夕暮れ」。ね、こうして話しながら、飛び交う言葉の一言一句をつかまえては、片っ端から記憶の貯蔵庫にため込んでいるんです、いつか使えるだろうってね。……時には考えます、ひと仕事終えて、劇場に行ったり、釣りに行ったりすれば、のんびりと我を忘れていられるんだろうなあ。ところがそうはいかない、飛び込んで来た新しい素材が、頭の中で鉄の玉のように転がり始めると、やっぱり机に向かって書きまくってる。いつもこう。いつもいつも、こうなんです。名前も知らない読者のために、自分の大切な花を根こそぎにして、花びらをむしり取っては一生懸命、蜜をかき集めてるような、あわれな働きバチ……。これがマトモな人生だろうか? 友だちも親戚も、顔を会わせれば、きまって言うことは同じ。「書いてるかい?」「次はどんなのだい?」。たとえそれが、やさしい気遣いから出た言葉だったとしても、ぜんぶ見せかけに思えてくる。ある日突然、後ろから捕まえられて、ゴーゴリの「狂人日記」のように、精神病院に押し込められるんじゃないかと、不安に脅える日もある。……まださほど忙しくもない、かけ出しの新人だった頃も、そう、書くのは苦痛だったなあ。とにかく売れてないってだけで、自分が半端に思えてね。文学関係者のまわりをうろついては、相手にもされず、認められず、マトモに誰も見返せない。つらかったなあ、ホント、あれは苦痛だった。

ニーナ:でも、最高にしあわせな瞬間だってあるわけでしょ? インスピレーションが湧いて、ペンに勢いが乗ってる時とか。

トリゴーリン:うん。書いている時は楽しいし、校正も悪くない。けど……、ひとたび印刷されて本になると、もう耐えられない。こんなつもりじゃなかった、書くべきじゃなかった……。どうにも、みじめな気持ちになって……、ハハハッ、そんなものを読んで、世間じゃ言うんだ、「面白かった! よく書けてる! でもトルストイには及ばないかな」「いい作品だねぇ、でもツルゲーネフの『父と子』のほうが上だねぇ」。……きっと死ぬまで「いいねえ」「うまいねえ」のくり返し。死んだあとだって、友だちは僕の墓の前を通りながらこう言うだろう。「ここにトリゴーリン眠る。いい作家だったが、ツルゲーネフにはかなわなかった」

間。

ニーナ:(立って)あたし、聞いてられません。あなたきっと成功に甘えてるんです。

トリゴーリン:成功? この僕が? 作家としての自分に、不満ないのに? 気に入らないのに? ……ときどき、自分でも頭がボンヤリして、何を書いているのかわからなくなるのに……。だけど、こういう湖とか、木とか、空とか、僕は大好きだ。自然を見ていると書きたいという情熱が湧いてくる……。でも、僕は風景画家じゃない。世の中に揉まれて生きている、一人の人間なんだ。だから当然、作家として、世の中の苦しみや、みんなの将来のことを描きたいと思う。社会や科学のことを書きたいと思う。けど結局は、あっちへ逃げこっちへ逃げ、悪戦苦闘しているうちに、社会も科学もどんどん先へ進んでしまって、気がつくと、汽車に乗り遅れた田舎者のようにひとりホームに佇んでいる……。つまり、僕に書けるのは風景だけなんです。ほかはすべて嘘で固めた作り物。もう骨の随まで、偽物なんです。

ニーナ:仕事のしすぎなんじゃないでしょうか? あんまり急がしくって、自分の偉さを自覚できなくなってるんだと思います。自分で自分が気に入らなくったって、普通の人から見たら、あなたは断然、素晴らしいんです! 絶大な力を持ってるいるんです! ……もしも、私があなただったら、哀れな世の中のみんなのために、この命をぜんぶ捧げて一心不乱に仕事をするわ! そうしていつかみんなの現実が、私の描いた世界に追いついた時、きっと全世界が、私を担ぎ上げて国中をパレードするんだわ!

トリゴーリン:パレードかあ! まるでアガメムノンだ!

二人、ほほえむ。

ニーナ:あたし、作家とか女優とか、そういう幸せな人間になれるんだったら、家族に見放されたってかまわないわ。貧乏したって、苦労したって、屋根裏部屋で黒パンばかり齧ってたって! きっと最初は自分の未熟さにうんざりするかもしれない。けど、そんなの当たり前じゃない。そのかわり、あたしは要求するの! 栄光を! 本物の、目のくらむような栄光を……、(顔を手で覆って)ああ、くらくらする!

アルカージナ:(舞台裏から顔を出して遠くに呼び掛けるように)トリゴーリン!

トリゴーリン:お呼びだ。荷造りだな、きっと……、行きたくないなあ。(湖を見回して)ここは天国だ! ステキだよ!

ニーナ:向こう岸に家が見えるでしょ?

トリゴーリン:うん。

ニーナ:前はママのものだったの、死ぬまでは……。あたし、あそこで生まれたのよ。あそこで生まれて、ずっとこの湖のほとりで暮らしてきたの。

トリゴーリン:すばらしい。すばらしい場所だあ。(カモメに気づいて)これは?

ニーナ:カモメ。コースチャが撃ち殺したの。

トリゴーリン:美しい鳥だなあ。……ああ、行きたくない。もう少しいてくださいって、アルカージナを説得してくれないかな? ハハハ(と、手帳になにやら書き込む)

ニーナ:なにを書いてるの?

トリゴーリン:ちょっとね、浮かんだんだ。(手帳をしまって)短編の題材さ。子供の頃から湖のほとりで暮らしている、一人の少女、君のように、カモメのように、湖を愛して、自由で幸せだ。ところがある日、ふらりと現れた男が彼女に目をつけて、退屈まぎれに破滅させてしまう、ちょうどこのカモメのように。

間。


アルカージナ:(また顔を出して)トリゴーリン! どこなの?

トリゴーリン:いま行くよ!(歩き出すが、振り返ってニーナを見る。アルカージナに向かって)どうしたの?

アルカージナ:まだここにいることにするわ!

トリゴーリン、去る。

ニーナ:(舞台前に進んで、ちょっと考えて観客に)夢だわ!

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Scene 1, 2, 3, 4