![]() Anton Chekhov ![]()
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メドヴェジェンコ:どうして? ねえ、どうしていつも黒い服なわけ? マーシャ:人生お先真っ暗で、幸せなんかどこにもないからでしょ。 メドヴェジェンコ:そうなの? そうかなァ? だってあなた、病気じゃないし、お父さんは金持ち、ってわけでもないけど、でも苦労なんか知らないじゃない。僕なんかひどいよ。月二十三ルーブルの安月給から、保険だの退職金の積み立てだのさっ引かれてさ。それでも喪服なんか着ないよ。 マーシャ:お金の問題じゃないでしょ。貧乏してたって幸せな人はいるでしょ。 メドヴェジェンコ:理屈だなァ。そういう奴もいるかもしれない。けど、そうじゃないよ、現実は。僕なんか、おふくろと妹ふたりと、まだチビの弟といてさ、月たったの二十三ルーブルだよ。なのに人間、食わなきゃいけない、飲まなきゃいけない、ね。お茶もいる。お砂糖もいる。煙草も吸う。どうもこうも、どうにもならないんだよ。 マーシャ:(仮設舞台を見て)もうすぐ始まるわ。 メドヴェジェンコ:ああ、そうだね。主演はニーナ、作・演出はコースチャ。うまくやってるよなァ、あいつら。今夜はきっと、二人の魂が一つの芸術作品で結ばれるってわけだ。だけど、ねえマーシャ、僕と君の魂は……。ああ、チクショウ! 家にいても落ち着かなくってさ、行きに6マイル、帰りにも6マイル、毎日毎日エッチラオッチラやってきて、揚げ句の果てに無視されて。いいよ。わかってるよ。金はないし、家族は多いし、誰がこんな男と結婚するんだっていうんだろ? マーシャ:バカみたい。(嗅ぎタバコを吸う)わかるけど、どうしようもないでしょう。(嗅ぎタバコを差し出して)どう? メドヴェジェンコ:そんな気分じゃないよ。
マーシャ:蒸すわね、今夜はきっと嵐だわ。理屈はもうたくさん。それから、お金の話も。貧乏じゃなくったって、世の中には不幸なことがいっぱいあるわ。みじめな生活のほうが五百倍も気が楽かもしれない。あなたになにがわかるのよ。
トレープレフ:(作業をしている裏方を見守っている) ソーリン:わしゃホント苦手じゃ、田舎という奴ァ。(ステッキ突いて、うろうろしながら)これから先も、もう慣れるってことはないんじゃろうなってなあ。夕べだって10時には寝た。だのに目が覚めたのは9時だぞ。ハッハッハ! あんまり寝過ぎて、脳味噌が頭蓋骨の内側にくっついちまったわ! なのに昼メシ食ってからまた寝ちまって、結局疲れた。……悪夢というかなんちゅうか、まあ、そういうことじゃろ。 トレープレフ:おじさんは根っから都会的なんですよ。(マーシャとメドヴェジェンコに)言ったじゃないか! 始める時には呼ぶから、それまでは向こうに行っててくれ! ソーリン:マーシャ。犬の鎖をほどくようにって、お父さんに言ってくれ。ああ吠えられた日にゃ、妹だって眠れやしない。 マーシャ:ご自分でおっしゃってください。ごめんだわ、あたしは。(メドヴェジェンコに)ホラ行くわよ! メドヴェジェンコ:呼んでくれよ、始まる時には。
ソーリン:ってことはだ、また夜どおし吠えられるってわけか。なんていうか、ここじゃなにひとつ思う通りになりゃせん。昔もよく、バカンスといっちゃここへ来たもんだったが、いつもくだらんことにうんざりさせられてな。ハッハッハ! 着いたそうそうもう帰りたい! っちゅうかなんちゅうか、ホント、帰るとなったらそりゃあ嬉しくてなあ……、それがどうも、退職してからこっち、ほかに行き場がない。嫌でもここしかない、とまあそういうことじゃろ……。 トレープレフ:(裏方連中に)よーし! あと10分で本番だ! 休憩にしてくれ。
トレープレフ:(仮設舞台を指して)さあ、これが僕の劇場です! カーテンと両袖だけ。装置はなにもなし! 一切なし! 見渡すかぎりの湖と地平線。開演は9時半だ。ちょうど月が昇る時刻。 ソーリン:立派なもんだ! トレープレフ:でもニーナが遅れたら、すべてがオジャンだ。もう来てもいい時間なんだけど……。あいつ、親父とママ母がうるさくて、脱獄するみたく家を抜け出して来なくちゃならないんです。ひどいなあ、おじさん。その頭、グシャグシャだ。(と、ネクタイを直してやって)切ったほうがいいよ。 ソーリン:(クシで髪をなでつけながら)人生の悲劇ってやつじゃ。ハッハッハ! 若い時分から、酒飲みのロクデナシじゃったから! っちゅうかなんちゅうか、ちっとも女にゃモテんかった。(と、座る)妹の奴、今日はなんでああ不機嫌なんじゃろ? トレープレフ:決まってますよ。退屈だからでしょう。(と、隣に座って)それに嫉妬。面白くないんです、僕のことが。僕の芝居が、僕の脚本が。なにもかも。主役がニーナで自分じゃないってだけで。まともに僕のものを読んだこともないくせに! ソーリン:そりゃ、考え過ぎじゃろ。 トレープレフ:なんであたしじゃないの! あたしよ、注目されるべきなのは! フン。こんなちっぽけな舞台なのに。(と、時計を見て)心理学的にみても異常なんです、僕の母親って人は。確かに頭もいいし、才能もあるし、本を読めば泣いちまうし、ネクラーソフの詩なんかぜんぶ暗唱できるし、病人を思いやる心はまるで天使だ。……けど、他の女優の話でもしようもんなら、ウヘ! 話題になるのはあの人だけ。評価されるのもあの人だけ。あの人の「椿姫」だけが永遠にチヤホヤされて、いつまでも騒がれなくちゃ気にいらない。ところがどっこい。こんな田舎にはそんな、あの人を酔わせるような刺激はなにもない。だから退屈だ。ムシャクシャする。誰も彼もが気に入らない。……それにケチだし。知ってますよ、おじさん。あの人、オデッサの銀行に7万も預金があるんでしょ。なのに、ちょっと貸してくれって言っただけで、突然泣き出すんだ。 ソーリン:あいつがおまえの芝居を嫌ってるなんて、そんな、思い込みじゃろ。おまえの方こそ、勝手にふてくされてるっていうのがホントじゃないのかい? あいつはな、おまえが愛おしくってしようがないんだよ。 トレープレフ:(花びらをむしりながら)好き……嫌い……好き……嫌い……好き、ホラね! 見なよ! 当然さ。あの人は、生きたい、恋がしたい、きれいな服を着たい。……ところが息子の僕はもう25で、それだけで、若くないってことがばれちまう。僕がいなけりゃ、32でいられるところを、僕がいると43だ。だから嫌いなんですよ、僕のことなんか…… ソーリン:いやいや。 トレープレフ:僕はね、おじさん。劇場てものを否定してるんです。でもあの人は劇場が大好きで、自分の芸術が人類に貢献をしているんだと思い込んでる。でも僕に言わせりゃ今の劇場なんて! くだらない! ぜんぜん新しいことなんかない! 幕が開く。人工的な照明。部屋を囲こむ三枚の壁。俳優たちはみんなのあこがれで、キャーキャー騒がれて、やることといったら、空々しい会話、中味のないストーリー……観る方は、そんな中から、少しでも元気のでるところを持ち帰ろうと躍起になってて……バカバカしい! くだらない! みんなくり返しだ! ああ、僕は逃げ出したいんです! そんなことの一切から! ソーリン:しかし劇場がなけりゃ、しようがないじゃろう? トレープレフ:だから新しい形式なんですよ。新しい方法なんです。それがないなら、なにもないほうがマシですよ!(と、時計を見る)……それでも自分の母親ですから、そりゃ好きです。大好きです。でも、だけど、あの人の生活は一言で言えば、愚かです。あんな小説家とイチャついて、マスコミにいつもスキャンダルを叩かれて……。たまんないですよ、こっちは。 ソーリン:うんうん。(半分寝ている) トレープレフ:でも、ときどき思うんです。自分の母親が女優なんかじゃなくって、人並みの、普通の女だったら、どんなに幸せだったろうって。……ねえ、おじさん。 ソーリン:ん? なんだい……? トレープレフ:これ以上、不幸な境遇ってありますか? あの人の部屋にはいつも有名な芸術家たちが集まってた。作家やら俳優やら……。そいつらに囲まれて、僕だけがなんでもない人間だったんです。その場にいられるのも、あの人の息子だからだってだけで。いったい僕は誰ですか? 何者なんですか? 才能もなし、金もなし……。僕はもう、たまらなかった。僕を見る作家や俳優たちのまなざしに、おまえは無能だと言われてるような気がして……。 ソーリン:ところで、例のあの、作家さんじゃが、ありゃ、どういう御仁だい? ええ? どうにもつかみどころがなくってな、いつもだんまりで。 トレープレフ:頭のいい奴です。まあ、ちょっとメランコリックなところがあるけど。まだ40前にして、すでに作家としての地位は確立しているし、人生に飽きてるんでしょう。だけど書くものと言ったら、そう、トルストイやゾラを読んだ後じゃあ、ちょっと読む気になれないって程度のもんですよ。 ソーリン:いや、わしゃどうも若い時分から、作家ちゅうのに弱くてなあ。これでも昔は夢が二つあった。一つは女房をもらうこと。もう一つは作家になること。……じゃが、どっちも結局はだめだった、ってわけじゃ。まあ、売れんでもいいから、ちょっとした物書きにでもなれてたら、さぞや人生、面白かったろうがなァ……。まあそういうことじゃろ……。
トレープレフ:(耳をすまして)あの足音!(伯父に抱きついて)おじさん。僕はあの子なしでは生きていけないんです。……ステキだ、足音までがステキだ……、ああ、僕はなんてしあわせなんだろう……頭が変になりそうだ……
トレープレフ:ああ、美しい、僕の悪魔! 僕の夢! ニーナ:(大きな声で)あたし、遅れなかった? ねえ、遅れなかった? トレープレフ:(手にキスして)大丈夫だよ、大丈夫。 ニーナ:今日一日、あたし、ずっとせかせかしちゃって、心配だったの。パパが出してくれないに決まってるから。でもさっき、やっと継母と出かけてくれて、でももう空は赤いし、月は昇りそうだったし、馬を駆け通し駆けさせて、もうタイヘン!(と、笑って)よかった!(と、ソーリンの手を握る) ソーリン:(笑って)おやおや泣いてるのかい? 泣くことはないじゃろ。 ニーナ:違うわ。ホラ、息がこんなに上がっちゃってるだけ。ねえ、あたし、30分しかいられないの。急ぎましょ。引き止めちゃダメよ。パパには内緒で来てるんだから。 トレープレフ:とにかく、じゃあ始めよう。みんなを呼んで来なきゃ。 ソーリン:どれどれ、それじゃあわしが、と。(立って大声で)「全体、進め!」なんちゅってな。(と、シューマンの「二人の擲弾兵」を歌いながら去りかけて)……いつだったか、わしが歌い出したら、ある検事補佐官が、こう言いおったよ。「閣下。実に力強いお声でございますな」。でもそれからちょっと考えて、こうつけ加えたな。「しかし、なんとも、うっとおしい限りで」アッハッハ!(去る) ニーナ:パパも継母もね、あたしがここに来ていること、知らないの。二人ともここはバカどもの集まりだって……、恐いのよ、あたしが女優になったりするんじゃないかって。でもあたしはここが好きなの。この湖が、かもめのように。(と、あたりを見回す) トレープレフ:僕たち以外、誰もいないよ。 ニーナ:誰かいるみたい……。
ニーナ:あの木、なんていう木? トレープレフ:楡の木。 ニーナ:なんであんなに黒いの? トレープレフ:黄昏れだから。なにもかもすべてが黒く見えるんだ。……なあ、急がなくてもいいだろ? ニーナ:ダメ。 トレープレフ:じゃあ僕のほうから行くってのは? 一晩中、君の部屋の窓の下で、君のことを眺めてるってのは? ニーナ:無理よ。門番がいるわ。それにうちの犬はあなたに慣れてないから、吠えられるわよ。 トレープレフ:ねえニーナ、きみが好きだ。 ニーナ:シーッ、黙って……。 トレープレフ:(足音を聞いて)誰だ? ヤーコフか? ヤーコフの声:(舞台裏から)へい! トレープレフ:スタンバイしてくれ。始めよう。月は出てるかい? ヤーコフの声:へい! トレープレフ:アルコールは大丈夫か? 硫黄は? 赤い目玉のところだからな、あそこで硫黄の匂いを出すんだ。(ニーナに)さあ準備はOKだ。緊張してる? ニーナ:だって、あなたのお母さま、いらっしゃるんでしょ……。ううん、あの人はいいの、大丈夫なの。でもあたし、トリゴーリンさんも来てるんでしょ? なんだか恥ずかしくって。有名な作家さんだし。まだ若い人なの? トレープレフ:ああ、うん。 ニーナ:ドキドキしちゃうわ、あたし、あの人の小説読むと。 トレープレフ:(冷たく)そお? 僕は読んでないから。 ニーナ:だって、あなたの劇って、まるで生きてる人間が出てこないんだもの。 トレープレフ:なんだよお、生きてる人間て! ダメなんだよ! あるがままの人生なんか描いたって。いいかい、なによりも大切なのは、夢に見るように描くことなんだ。 ニーナ:でも動きがないでしょう、朗読みたいなんだもの。あたし、お芝居って絶対恋愛が要ると思うけどな!
ポリーナ:湿っぽくなってきたわ。戻ってコートを取ってきた方がよかない? ドールン:暑いよ、僕は。 ポリーナ:もう。あなたって人は、自分の体にはぜんぜん気を配らないんだから。お医者さんなのに……、強情屋さん! 湿った風が、体に良くないことくらいわかってるくせに。そんなに、あたしに心配かけさせたいの? 夕べだって、これ見よがしに一晩中テラスに出てらしたりして。 ドールン:「♪言わないで、もう青春が終わったなんて……」 ポリーナ:楽しかった? ねえ、奥さまとのおしゃべりは? 寒いのも忘れるくらいだった? 白状しなさいよ。好きなんでしょ、奥さんのことが? ドールン:僕はもう50過ぎだよ。 ポリーナ:だからなに? 男の人に年なんて関係あるの? あなたはまだステキだわ、まだ十分モテるわ。 ドールン:で、僕にどうしろって? ポリーナ:だからよ、だからキレイな女の人の前に出るとすぐデレデレするのよ。いつだってそうなのよ、あなたは。 ドールン:「♪ああ、もう一度、あなたの前に跪き……」。まあ、よしんば世間がだ、俳優というものを贔屓にして、一般庶民なんかと差別して扱ったとしてもだ、それが自然の道理なんじゃないかな。……まあ、つまりは現実逃避なんだが。 ポリーナ:じゃ、女という女がみんな、あなたを求めて、あなたの跡を追い掛けたのも、あれも、現実逃避だったの? ドールン:(肩をすくめて)さあ、どうかな? まあ確かに、僕は女には恵まれてきた。でもそれは、僕が一流の医者だったからだ。そうだろう。2、30年前までこの田舎には、まともな産婦人科医は僕しかいなかったんだから。それにもちろん、僕は誠実な人間だったしね。 ポリーナ:(ドールンの手を取って)ねえ、あなた……。 ドールン:シッ、誰か来る。
シャムラーエフ:いやァ、今でも覚えてますがね、73年のポルタヴァ祭り。あそこであの女優が見せた芝居ときたら、いやすごかった。あたしは震えましたねェ。(アルカージナに)奥さん、ところで、あのシャージンはどこでどうしてますかねぇ? あのシャージンは? 「クレチンスキーの結婚」で、主役をやらせたら右に出る者はいなかったなァ。サドーフスキーなんか目じゃなかったですよ。いやホント、奥さん。ああ、あわれ奴は、今いずこにかあらん? アルカージナ:そんな大昔の話をなんであたしが?(と、座る) シャムラーエフ:(大きな溜め息)ああ、シャージン! ああいう才能には、今やとんとお目にかかれなくなりましたなァ。演劇界もおしまいですかなァ。ねえ、奥さん。あの樫の木のごとく、天をつんざく才能の群れが、今やドングリの背比べ。 ドールン:まあ確かに、一時代を画するような天才はいなくなりましたが、中堅どころは全体にレベルが上がってますよ。 シャムラーエフ:反対ですなあ、その意見には。いや、好みの問題でしょうがね。森を見て、木を見ず、というやつですな。
アルカージナ:(息子に)まだなの? トレープレフ:もうすぐです。 アルカージナ:「おお、ハムレットよ! もう何も言うな! トレープレフ:「ええ、ママ。落ちるものですか。
さて、みなさん。始まりです。どうかお静かに!
ソリャ!(と、バチで太鼓をドンドコドン!)オオ、怖レ多キ、イニシエノ影タチヨ! 夜毎コノ湖ヲサマヨウ、影タチヨ! イザ、我ラヲ眠リヘトイザナイタマエ! シテ、20万年後ノ世界ヲ夢見サセタマエ! シャムラーエフ:20万年後には何もないだろうな。 トレープレフ:だからその、何もなっていうのがミソなんです! アルカージナ:はいはい、どうぞ。あたしたちは寝てますから。
ニーナ:人もライオンもワシも雷鳥も、角のある鹿もガチョウもクモも、水の中の物言わぬ魚もヒトデも目に見えぬ微生物も……つまりは、命あるものすべて、すべてその悲しい輪廻から逃れて、消え失せて……もはや何千年もの間、この地球には生命は生まれず、あの哀れな月だけが虚しく明かりをともして久しい。草原には目覚めた鶴の声もなく、菩提樹の林にはコガネムシの羽音も絶えた。寒いよ。寒いよ……ああ、むなしいよ。むなしいよ……こわいよ。こわいよ。
すべて肉体はチリと化し、永遠の物質がそれを石に、水に、雲に変えてしまったが、魂だけは溶け合わさって一つになった。唯一にして全なる魂、それが、私だ。この、私だ……アレクサンダー大王の魂も、シェークスピアの魂も、ナポレオンの魂も、ちっぽけなカエルの魂も、この、私とともにある! 私とともに、人の意識と動物の本能とが融合している! あらゆる、すべての個々の人生が、私の中で、新しく生き直されるのだ!
アルカージナ:(声をひそめて)なんだか、退廃的だわね。 トレープレフ:(訴えるように責めて)ママあ! ニーナ:孤独だ! 百年に一度、口を開いてものを言うが、声は虚しく、虚空に響くだけ。聞く者もいない。……おまえもだ、青白い鬼火たちよ、おまえらとて、この声を聞いてはいないのだ。……夜明けと共に、沼の瘴気から生まれ、朝日がさすまで彷徨い歩くおまえたちには、考える力もなければ、意志もなく、命の揺らめきすらもない。悪魔は永遠の物質の父として、おまえたちの中に命の目覚めるのを怖れ、石や水と同じように、絶え間のない原子の組み替えを施している。だから、おまえたちは、いつまでも流転してゆくだけなのだ。森羅万象すべてのうちで、ただひとつ、魂だけが永遠不変、変わらないのだ!
深い、なにもない井戸へと投げ込まれた囚人のように、わたしはどこにいるのか、これからどこへ行くのかを知らない。私にわかることは、悪魔との激しい戦いの中で、やがて物質の力に勝利した暁に、物質と精神との美しい調和、宇宙的意志の支配する王国がもたらされる、ということだけだ。しかしてそれは、千年の、またさらなる千年ののちの、あの月も、輝くシリウスも、地球もすべてチリと化した後のこと。それまではただ恐ろしい……。
来たか! 我が宿敵、悪魔よ! まさに、身の毛もよだつ、あの二つの目! アルカージナ:(鼻をつまんで)なにコレ、硫黄? こんなことする必要あるの? トレープレフ:あるんです。 アルカージナ:アハハハ! そお! 舞台効果ってわけ? トレープレフ:ママぁ! ニーナ:奴は人間なしで、退屈なのだ……。 ポリーナ:(ドールンに)ダメよ、脱いじゃ。かぶりなさい。風邪を引くわ。 アルカージナ:ドクターも悪魔には脱帽ってわけね! トレープレフ:(カッなって大声で)やめろ! もういい! もうたくさんだ! おわりにしよう! アルカージナ:なに怒ってるの、この子は? トレープレフ:もういいよ! おしまいだ! (床を踏んで)おしまい!
……失礼しました。僕は忘れてました、芝居を書いたり、演ったりするのは、少数の選ばれた人たちだけの特権だってことを。僕は、それを忘れて……僕は……僕は……(言葉が出なくなり、逃げるように手を振って去る) アルカージナ:なに、あの子? どうしたの? ソーリン:なあ、イリーナよくないよ、あんなふうに若い者のプライドを傷つけちゃあ…… アルカージナ:あたしがあの子に何を言ったっていうの? ソーリン:傷つけたんだよ、あの子を。 アルカージナ:だってあの子、自分で言ったのよ、これはほんの余興だって。だからあたしはそのつもりだったの。 ソーリン:まあ、そういうことじゃが…… アルカージナ:それが蓋を開けてみたら、なに、たいへんな芸術作品だったってわけ! 冗談でしょ! なにが余興なもんですか。(と、まわりの空気を手で払って)こんな、硫黄の匂いまでプンプンさせて、あれであの子は、あたしたちに芝居の書き方と演じ方を、ご教授しようってつもり? うんざりだわ。なにかっていうと、いちいちつっかかってきて。どうやって我慢しろっていうの? あんな、自意識過剰のうぬぼれボウヤ! ソーリン:おまえを喜ばせたかったんじゃろ、あいつは。 アルカージナ:あら、そうお? だったら、もっとマトモなものを見せてほしかったわ。あんな一人よがりを押しつけられたって。余興だったら、いくらだってつき合ってあげますけど。けど、新しい形式だの、新しい演劇だの、そんなタワゴトをわめかれたって、あんなもん、あたしに言わせりゃ、新しくもなんともないわよ、ただのへそ曲がりの屁理屈でしょ。 トリゴーリン:誰だって、書けることを書きたいように書くんだよ。 アルカージナ:ええどうぞ、書けることを書きたいように書いて結構。けどあたしの関係ないところでやってほしいわ。 ドールン:おお、わがジュピターよ! 怒りたもうな! アルカージナ:あたしはジュピターじゃないわ、女よ。(煙草に火をつけて)それに怒ってもいないわ。腹立たしいだけよ……。若い人が暇つぶしにすることじゃないでしょ、あんな……、いいわ、別に、傷つけるつもりじゃなかったのよ。 メドヴェジェンコ:そもそも、魂と物質を分ける根拠はないんですよ。というもの、魂もまた原子の組み合わせでできているんですから。(と、勢いよく、トリゴーリンに)それよりもね、先生、お芝居にすべきは、われわれような生活じゃないですか、あ、私は教師をしてる者ですが、そりゃもう、しんどいですわ、ホントしんどいですわ。 アルカージナ:ホントそうね。さあ、お芝居の話も、原子の話もおしまい。……ステキな夜だなんだもの。ほら、聞こえて? 誰かが歌ってる……。
いいわねえ。 ポリーナ:向こう岸からですわね。
アルカージナ:(トリゴーリンに)ねえ、こっちに来て。この湖にはね、10年前までは、いつも音楽や歌声が流れていたの、ほとんど毎晩のように。……岸辺に地主のお屋敷が6つもあってね。……覚えてるわ、笑い声や、ざわめきや、銃声の響き……。それにいつだって、みんな恋をしていた、誰かにね……、そうそう、その恋愛ゲームの主役で、どこへ行ってもアイドルだったのが、紹介するわね、(ドールンにうなずいて)ドクター・ドールン。いまでもステキだけれど、往年はそれこそ、うっとりさせるような魅力があったのよ。……でも、あたし、なんだか今ごろになって気がとがめてきたわ、なんだってあの子のハートを傷つけたりしたんでしょう? 心配だわ。(大声で)コースチャ! ねえ、コースチャ! マーシャ:あたし行って、探してきます。 アルカージナ:頼むわ。 マーシャ:コースチャ! コースチャ!
ニーナ:あの……、あたしもう、出てってもいいかしら? あ、はじめまして。(と、アルカージナとポリーナに挨拶する) ソーリン:いやあ、よかったよかった! アルカージナ:ステキだったわ! みんなであなたのこと誉めてたのよ。可愛らしいお顔をしてるし、声もいいし。ダメよ、こんな田舎にいたら。あなたには才能がある。うん、そうよ。あたしが保証してあげるわ。あなた、舞台に立つべきだわ! ニーナ:え、あ、はい。それがあたしの夢なんです。でも、(溜め息)無理なんです。 アルカージナ:なに言ってるの。さあ、紹介するわ。こちらがトリゴーリン。ボリス・アレクセーエヴィッチ・トリゴーリン! ニーナ:あ、はい、……あの、お会いできて光栄なんです。あたし、(どぎまぎして)いつもご本を拝見させてもらって…… アルカージナ:(ニーナを脇に座らせて)そんな、緊張しなくたっていいのよ。この人、有名人だけど、さばさばした人なんだから、ほら、彼のほうが緊張しちゃってるじゃない。 ドールン:もう幕を上げてもいいんじゃないかな、うっとしいだろう。 シャムラーエフ:(舞台奥に)ヤーコフ! 幕を上げろ!
ニーナ:(トリゴーリンに)変なお芝居だったでしょ? トリゴーリン:さっぱり理解できませんでした。いや、けど楽しんで見させてもらいましたよ。あなたは真剣に演じてらしていたし、借景の湖も美しかったしね。
魚がたくさんいそうだなあ。 ニーナ:はい。 トリゴーリン:僕は釣りが好きなんです。夕暮れ時に、川辺に腰をおろして、浮子を眺めていることくらい楽しいことはない。 ニーナ:でも、あたし、一度創造の楽しみを味わったら、それ以外の楽しみなんてなくなってしまうんじゃないかと思うんですけど。 アルカージナ:アッハッハッハ! ダメよ、そんなこと言っちゃ。この人、冷やかされるとカメみたく黙っちゃうんだから。 シャムラーエフ:そうです、そうです。いや、思い出しましたよ! いつだったかモスクワのオペラ座で、あの有名なバス歌手のシルヴァが、ものすごい低いドの音を出しましてねえ。ところが、偶然その夜の天井桟敷に、聖歌隊のバス歌手がいまして、それで、いやあ、あれはびっくりしたなあ、突然、天井桟敷から「ブラヴォー! シルヴァ!」って、さらにオクターヴ低いドの音で、いいですか、こんなふうに「ブラヴォー! シルヴァ!」って、それでもう、場内しーんと静まり返ってしまいましたよ!
ドールン:お、天使が通った、かな。 ニーナ:あたし、もう帰らなきゃ。ごめんなさい。 アルカージナ:まあ、どうして? ダメよ。まだ早いわ。 ニーナ:父が待ってるんです。 アルカージナ:そう、ひどいお父さまね!
アルカージナ:仕方ないわねえ。でもホント、本当に帰ってほしくないのよ。 ニーナ:ええ、残念ですけど。 アルカージナ:だけど、こんなにかわいいお嬢さんを一人で帰らせるわけにもいかないわね。 ニーナ:そんな、大丈夫です! ソーリン:(ニーナに心から)まだいとくれよ……。 ニーナ:ダメなんです。 ソーリン:せめてあと一時間だけ、どうだい、っちゅうかなんちゅうか、なあ? ニーナ:(しばらく考えて、悲し気に)ダメなんです。
アルカージナ:かわいそうな子なのよ。母親がたいへんな遺産を夫に残して死んだらしいんだけど、あの子にはぜんぜん。結局、父親は、全財産を連れの女に譲るつもりらしいから……。ひどい話だわ。 ドールン:ええ。あんなひどい男はいませんよ。 ソーリン:(冷えきった手をこすり合わせながら)そろそろ、どうだい? 湿っぽくなってきたし、脚も痛み出してきた。 アルカージナ:まあまあ! ピノキオだものね、お兄さんの脚は。……帰りましょう。かわいそうなピノ伯父さん!(手を取る) シャムラーエフ:(ポリーナに腕を差し出して)行こうか。 ソーリン:また吠えてる。(シャムラーエフに)犬を、放すように言ってくれるとありがたいんだがね……。 シャムラーエフ:無理ですなあ、それは。穀物倉に泥棒が入るといけませんので。今、ちょうどキビが収まってるところでね。(と、メドヴェジェンコに、並んで歩きながら)いや、それがだぞ、完璧に1オクターブ低いドだなんだ。「ブラヴォ! シルヴァ!」って、……オペラ歌手じゃないんだから、ただの聖歌隊のメンバーだぞ! メドヴェジェンコ:でも、聖歌隊ってどれくらいもらうんですか、給料?
ドールン:なんなんだあ? ええ? どうしたんだ、俺は? 気が変になったのか? ……あの芝居が、どうやら気に入ってしまったらしい。何かがある、あそこには。あの娘が、孤独だと言った時、それからあの、悪魔の赤い目が現れた時、図らずも感動でこの手が震えた。新鮮な、見せ掛けだけじゃないものだった。……ン、こっちに来る。ちょっとでもいいから、慰めてやれるといいんだが……。
トレープレフ:みんな行きました? ドールン:私以外はね。 トレープレフ:マーシャが、僕を探して、そこらじゅうをうろついてるんです。うっとうしいったらない! ドールン:気に入ったよ、君の芝居。……いや本当にさ。確かにちょっと変わってるし、最後までは見られなかったけど、深い印象を受けた。君には才能がある、続けるベきだ。 トレープレフ:ああ!(と、思わず、ドールンの手を取って、抱きつく) ドールン:ああ、なんて純粋な少年なんだ。涙まで浮かべて……、あん? 俺は何を言おうとしてたんだ? そう。そうだった、いいかい、君は抽象観念の世界に主題を選んだ。それは正しかった。なぜなら芸術は常に、本質的な思想を伝えなければならないからだ。より高い感覚を感じさせるものだけが美しいからだ。……どうした? 顔色が悪いぞ。 トレープレフ:僕は、続けるべきだと、そう言うんですね? ドールン:そうだよ! でもいいかい、本当のことだけを、永遠のことだけを描かなくちゃダメだ。私の人生なんか、まあ確かに、退屈ではなかったし、自分らしいものではあったけれど、いや満足さえしてるんだが、だけどもしも、もしも芸術家が何かを創り出す時に味わうような、魂の高揚を経験できていたら、こんな体の、物質的な問題などすべて放り出して、僕の魂は翼が生えたように高みを目指していたことだろう。 トレープレフ:すみません。ニーナはどうしました? ドールン:それともう一つ。書くべきものは、常に、明晰かつ判明な思想でもって裏づけられていなければならないってことだ。君は自分が書く目的をハッキリ知らなければならない。どこへ行き着くのかわからずにダラダラ書くだけじゃ、才能はいずれ枯れることになるからね……。 トレープレフ:(イライラして)ニーナはどうしたんでしょうか? ドールン:帰ったよ、家に。 トレープレフ:(絶望が襲って)ああ、どうしよう? 会いたい。ニーナに会いたい。いや、会わなくちゃ……。
ドールン:(トレープレフに)おい君、落ち着きなさい。 トレープレフ:とにかく、行かなくちゃ。 マーシャ:うちに戻ってください。お母さまが心配してらっしゃいます。 トレープレフ:出かけたって言ってくれ! 頼むよ、マーシャ。おまえも、それに んなも、僕のことは放っといてくれ! 放っといてくれよ! ついてくるな! ドールン:君、……それはよくないよ、そんな言い方は…… トレープレフ:(泣きながら)すみません、ドクター。ありがとうございました。
ドールン:(溜め息)ふう……、若さはみずからの道をゆく、か。 マーシャ:ほかにどうすることもできないと、みんな若さのせいにするんです。(と、嗅ぎタバコを吸う) ドールン:(と、それを取り上げて、草むらに投げ捨てる)みっともない!
さあ、うちに入ろう。 マーシャ:待ってください。 ドールン:なんだい? マーシャ:あなたに、言いたいことがあるんです。……お話したいんです。(興奮して)あたし、父は嫌いなんです。でも、あなたのことはなんだか、……気になって、なぜだか、身近に思えて……。助けてください。助けて。でないとあたし、バカなことをしてしまいそうで、自分を見捨ててしまいそうで、めちゃくちゃにしてしまいそうで……、もう、こんなの嫌なんです! ドールン:しかし、なにを、どう私に助けろと? マーシャ:あたし、不幸なんです。誰にもわかってもらえないんです、あたしの、この不幸を。わたし、好きなんです……(と、彼の胸に頭をもたせかけて、ゆっくりと)トレープレフのことが……。 ドールン:かあ! どうなってるんだ、今夜は! 湖にかけられた魔法なのか! 誰も彼もが恋に狂ってる!(しかし、やさしく)……でもしかし、この僕になにができるだろう? 教えてくれ? なにができるんだ?
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