LABO!の芝居はなぜ「難しい」のか?


 LABO! の芝居は「難しい」とおっしゃられる、お客さんがいる。けっこういる。
 たとえばアンケートに、「最初なんだか難しそうだと思ったけど、今回はわかった!」とか(わかったんだったら、難しくないジャン!)、「なんだか、難しいかもしれないので、ウチで脚本を読んで勉強してきました」(って、予習復習は学校だけにして、芝居なんだから楽しんでほしいなあ)」とか……。
 これはなぜなんだろう? ボク自身は難しいとも思うし、難しくないとも思う。
 考えてみよう……。

理由1「難しい」脚本を選ぶからである。
 生演奏家にして音響の青木氏にいつも言われる、「LABO! は難しい本ばっかり選ぶねえ」と。どうもそうらしい。選ぶのはみんなで選んだり、ボクや瀧川真澄とかで話して決めたりなど、いろいろなのだが、どうもそうらしい。
 けれど、ここには2つの意味があるぞ……。
 1つは、文字どおり、理解するのが難しい本だ、ということ。
 たとえばべケットみたいな奴。べケットなんか誰がやったって、「よくわからないお話ねえ」と言われるのだ。それどころか「コレってお話になってンの?」とまで言われそうだ。べケットは『H』で一度やったけど、このときは短編ばかりのオムニバスだったので、特には言われなかった(わかりやすい奴もあったからね)。
 けど、日本でもっとも正統にべケットの方法を受け継いでいる別役実などは、やはり「よくわからない」という意味で「難しい」らしい。いわゆる不条理劇という奴である。LABO! では、別役さんの作品は『ジョバンニ』と『ドラキュラ』の2本をやったけど、役者たちもはじめは「わからん、わからん」を連発していた。それがそれが、あら不思議、だんだん「わかる」ようになってきたのだ。どうやら、暗号解読コードみたいな、「理解」のためのルールがあって、それに慣れると、どんどんわかってきて、その面白さにハマッてしまうものらしい……。なめてはいけない。不条理どころか、そこにはレッキとした「条理」があって、ボクらはその中を冒険してゆける仕掛けになっているのだ。(もちろん別役さんにもわかりやすい部分とわかりにくい部分があります)
 もう一つは、ひとつひとつ意味はわかるし、話もわかるけど、上演するのが「難しい」という奴。つまり、どこが面白いのか、イマイチつかみづらいというモノ。チェーホフもそうだったろうし、竹内銃一郎もそういうトコあるし、もしかしたら『ソライロノハナ』でやった、謡曲もそうかもしれないけど、3者3様に、微妙な違いがあるね。3者とも共通するのは、今、現代の、日本で、東京で暮らしているボクらの生活と「距離」があるからなんだなあ〜。チェーホフは100年前の作品であるばかりでなく、なにしろ遠いロシアの地のお話だし(100年前でもアメリカだったら、これがケッコウわかるんだな〜)、竹内さんは竹内さんの独特のロマンティズムといましょうか、リアリズムといいましょうか、問題意識といいましょうか、があるし、謡曲にいたっては600年前の作品だ!
 そういうコト。これらを安易に現代日本に置き換えたりせずに、その遠い「距離」そのものを描こうとしている僕らは、やっぱり「難しい」ことにチャレンジしているんだなと、正直、思います、です。はい。 

理由2 演出家が「難しい」人だからである。
 これもマチガイではないと思う。
 だいたい「その遠い距離そのものを描こう」なんて発想が、演出家のものなんで、こういうことを考える奴は「よくわからん」と言われてもしようがない。あいつは、センスや感性で動かずに、論理で考えるタイプだと思う。それも、「筋の通らない論理」=「理屈」だと言われてる。「筋」というより、「1+1=3だ!」みたいなコトを言うので、みんな「わけがわからずに」途方に暮れている……。
 どうしよう……。
 本番まで、あと1週間もないのに、この芝居、ホントに面白くなるんやろか?
 という心配を役者に抱かせる才能を、その美貌とともに、彼は兼ね備えているのである。
 こまったモノである。
 という話を彼にすると、「しかしね、論理というものには、いくつもの種類があるのだ。この地球上では、1+1=2かもしれないが、月へいったら1+1=3かもしれないし、1+1=100かもしれないじゃないか……」というに決まってる。どうやら演技というのは、「月へ行くこと」だと思っているらしいのだ……。やれやれ。

理由3 難しいコトが好きな集団だからである。
 正確には、ちょっと違う。
 考えるのが好きな集団だ、といおうか。「非論理的な」演出家にも増して、みんなが「理屈好き」なのである。誰だって理屈っぽいのは嫌いだ。けど、しゃべるとどうしても理屈っぽくなるのである。もちろん、みんながみんなそうではない。平川(宇堂)さんなんか、話すコトはぜんぜん理屈っぽくない。このあいだ出てもらった岩尾万ちゃんなんか、理屈のリの字も知らない。真胡さんもそうかもしれない。けど、みんなで、稽古場で話し出すと、とたんに、空気が理屈っぽくなる時があるのだ。まるで、ひと昔前の新劇のようである。
 けど、これはしかたがないことなのだ。人は、思っているほど、「言葉」を共有していないのだ。言葉を本当に理解してもらうということは、恐ろしいほど「難しい」コトなのだ。それにLABO! はわりに上下カンケイがないので、誰かの言葉に誰かが威圧されて「おしまい」ということがない(と信じたい)。で、みんながみんな、言いたいことを言う。結果、言葉の本質は理屈なのだ。
 で、どうにかこうにか、雑多な理屈が、理屈でなくなって、ひとつの理解になると、「わかりやすい」芝居になるのだが、そうでないシーンは、「わかりにくい」「難しい」シーンになってしまうのだ。
 チャンチャン!

理由4 世の中がバカになったからである。
 
これはホントである。
 
世の中は、確かにバカになった。
 なぜか? それはコギャルのせいでも、オバサンのせいでも、オヤジのせいでも、バカな今どきの大学生のせいでも評論家のせいでもタレントのせいでも政治家のせいでも大学教授のせいでも、テレビのせいでも、インターネットのせいでも、携帯電話のせいでも、「出会い系サイト」のせいでも、誰のせいでもない――ソ連が崩壊したからである。
 ええええ……?
 そんなババナと、思った人はよく聞くがいい。
 ほんの十年前まで、世の中はまだしもお利口だったのである。
 それは図書館に行って、十年前の、新聞でも雑誌でもなんでも、それと思う、当時のメディアの文章を読んでみればいい。
 ええええ……?
 と思うはずである。もう、文体が違う。単語が違う。言い回しが違う。なにより、改行の数が違う。違う。違う。違う。
 世の中は、1991年のソ連の崩壊を境にして、確実に、バカになってしまった……!
 ソ連とはなんだったのか? ソ連とは、この生活の向こう側にある、手には届かないもうひとつの世界だったのである。その実態が悲惨だったコトはもう知っている。そのために崩壊したのも当然だと思う。しかし、それが存在する時には、こんなバカみたいな資本主義の社会とは「違う」「よくわからない」「難しい」社会が、この世に存在しているというだけで、人々の想像力と、論理と、感性は確実に豊かになっていたのだ。
 そういうことである。
 だからこそ、ボクは、いま目の前にない、遠くの「距離」にあるものを描きたいと思う。

理由5 伝えたいコトが難しいコトだからである。
 これも正確には違う。
 伝えたいコトはちっとも「難しくない」のだ。けれど、いまの世の中には、もうなくなってしまったかもしれないコト、めったにないことを伝えたいから……、だから、それを伝える方法が「難しい」のだ。
 芝居もそうだが、メディアというものは情報を伝えるモノだ。しかし、真実を伝えるコトはとても難しいのだ。
 なぜだ、と思いません?
 なぜ、大リーグでは、野茂もイチローも佐々木も長谷川も、それから新庄まで、みんなほとんど活躍しているのに、ヨーロッパのサッカーリーグでは、いまだに中田しか成功していないのか? ひとつには、プロ野球と大リーグのあいだにそれほど格差がないのに比べ、Jリーグと欧州のサッカーのあいだに大きな差があるせいかもしない。しかし、そればかりではないでしょう。なぜ今シーズン、スペインの「エスパニョール」に移籍した西沢が活躍できなかったのか? 
 この問いについては、先週号の「Number」でもって金子達仁氏も言及していましたが、真実はこういうことだと思います。
 野球選手は、日本とアメリカの「距離」を埋められたが、サッカー選手は日本とヨーロッパの「距離」を埋められなかったのだと……。
 西沢がなぜ成功しなかったのかは、技術の問題ではないと思うのです。数カ月前の新聞の記事には、同僚の「エスパニョール」の選手のコメントで、「AKI(=西沢)はチームでも一番のテクニシャンだ」というのがありました。しかし、そのあとに「チームに打ち解けない西沢」という報道がありました。
 おそらく中田はイタリア人になるつもりでイタリアへ飛んだのです。

 しかし、真相は、その場にいなければわからないものでしょう。
 マスコミというメディアはその真相に応えてくれるものではありません。
 芝居ももちろん、そんな現実の「距離」を埋められるものではないのですが、しかし、戯曲に書かれた世界と、現実世界のとの間の「距離」を埋めるように、リアルにモノを作るのが演劇だと思っています。
 今、目の前にある世界をそのままトレースしたってつまらないじゃないですか……。


 「距離」というものが、この地球上には確実に存在します。それは空間的な距離だけではありません。
 昔と今をつなぐ時間的な「距離」。
 人と人との心の「距離」。
 十代の少年と中年男性のあいだにある「距離」。

 「難しい」のは、やはり人と人とが「わかりあう」ことでしょう。
 富山県警に250人、大挙して「不法」を訴えたイスラム教徒とのことを、あなたはどれだけ「わかる」ことができますか?

ふるえる魂の躍動とともに。
jin, 05/23/2001


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