ドイツ人の物質のような観念の鋭さ

フランク・カストルフ演出
『汚れた手』をビデオで見て

 ヨーロッパ的な価値観をいかに大きく受け止め、体現しているか、というのがその国の近代化の度合いというもので、現実的には経済的な豊かさがいちばんの指標にはなるけれど、世界中がみんな同時に経済的に豊かになるようなことはけっしてない。貧しい人々から「奪う」からこそ、豊かな国が生まれるのである。
 それでも文化的な価値観のヨーロッパナイズ度というものはあり、それによって、サッカーの近代化度とか、演劇の近代化度といようなものが測られることになる。

 サッカーと同じように、演劇では、必ずその国の伝統的な言語がPLAYに反映されるから、100%ヨーロッパ化されるというコトはありえない。が、それでも、この国でも、明治維新以降、やはり文化的にいろいろと「近代化」してきているのも事実である。
 もちろん、なんといっても新劇を無視することなどできないのであるが、新劇がマルクス主義などの政治思想と無縁でなかったように(日本の文化全体がそうだったように)、はじめて受け入れたヨーロッパ文化は、ヨーロッパの中での非ヨーロッパ的な傾向のものだった。ロマン主義、マルクス主義、ダダや構成主義からシュールレアリスムなどなど。そうした傾向と、伝統的な歌舞伎などが拮抗しつつ融合し、経済的な成長期に乗っかって、ついに小劇場演劇と云う世界レベルのオリジナルな実験が定着した70〜80年代から、構造的で普遍的な不況の90年代に入って、ニホンの演劇も真に素直に、「近代化=ヨーロッパ化」を受け入れるに至ったと思われる。
 つまり、一時は「静かな演劇」などと呼ばれもした、文学的で日常的なリアリスティーをもった優れた作家たちがたくさん出てきたのだ。この流れは世紀末をも乗り越えて、今も連綿と繋がっている。
 こうしたリアリズムの傾向に、稽古場という集団作業の現場から火をつけたのは、間違いなくtptのデヴィッド・ルボーの演出だろう(ルボーはいわば演劇界のトゥルシエだな)。イギリス演劇のリアリズムは非常に根強い。彼らの演劇は、彼らのサッカーのようにリアリスティックである。時には、おだやかなウェルメイドさだけでなく、激しく攻撃的な姿勢を見せるときもあるが、その攻撃性も多くは言語的な側面だけなことが多い。シェークスピアやオスカー・ワイルドを上演する時ですらそうだ。リアリティーの源泉が日常性からけっして離れないのだ。日常に対して破壊的にふるまうことはほとんどない。

 そう、リアリティーを汲み上げてくる場所が、日常性からどれだけ離れるか、という側面が、リアリズムの尺度といえる。

 翻って、ニホンでは、その尺度に大きく二つの流れが今も厳然としてある。
 一つは、今紹介した、「静かな演劇」とルボーによって定着した感のある、日常的リアリズムの舞台。これは東京に多い。というのも、それを演じる俳優たちは東京に現実的な労働の場を持っており(そこしかなく)、それは、テレビやCMなどの録音/録画業界であって、まさにそこでは、そういう演技が求められるから。すなわち、あまり舞台的すぎる演技では「喰っていけない」からである。
 もう一つは、身体的なリアリズムを追求しようという舞台。こういう舞台は東京にも地方にも今もって根強くあるが、いずこでも、その土地の地域性と強く結びつかないかぎり現実的には存続するのが難しい。というのも、こうした舞台表現は、身体の「闇」と関わっており、少なからず、日常的な価値観に対して破壊的であって、その破壊性のリアリティーは、どんなに情報社会と云われようと、「方言」のように、なかなか閉鎖的なものだからである。いわば、NHK的な共通語に対する、「方言」の言語世界による舞台だとも云えよう。
(しかし、いずれにせよ、重要なコトは、舞台芸術には「方言的な」真実しかないということだが)

 さて、こうして、ふたたび、ドイツ演劇の話である。

 ところで、こうしたニホン的な演劇地図をひとくくりにまとめて、いわば、代表チームを作ろうと、世界演劇ワールドカップに、これぞ「ニホンの演劇だ」というチームを出場させようと思っても難しいだろう。まとめようたって、まとまるような術がない。かろうじて、まとめるための軸は2つ、歌舞伎か、映像的なリアリズムか、である。しかし、錯綜している演劇地図を包み込むような視点はゼンゼンないと云わなければならない。

 で、さあ、ドイツ演劇である。
 ハッキリ云って、ドイツはイギリスとは違う。日常性を破壊する力を、舞台そのものが持っている。そういう演劇を持っているのである。
 それは、観念の鋭さだ。
 ニホンの小劇場演劇やかつての歌舞伎が、身体と云う言語化しきれない闇、あいまいで、しかし何より現実的な感覚の世界をよりどころとしたのとは、正反対に、ドイツ演劇のリアリズムは、観念という明晰きわまりない「光」の力によって、日常を超えていくのだ。観念とは、日常的な言語ではない。あまりに鋭利なエッジによって定義された観念を前にすれば、日常言語はその曖昧さに赤面して逃げ出すだろう。そういう観念である(カーンの集中力みたいなものかな)。そして、そういう観念は、その妥当性によって、自然と身体能力を高めるのである。
 カストルフという人の演出が、ドイツ演劇全体の地図をよく表しているというわけではないだろう。ドイツの演劇がどういう流れで近代化し、現代に至っているかボクはよく知らない。しかし、明らかにいえるドイツ的な地域性とは、そうしたクリアな観念の力によって導かれるスキのない演技だし、そこには、間違いなく、ブレヒトという怪物の声が響いているであった。

*   *   *

 カストロフは現在50ちょい。フォルクスビューネという元は東ドイツ側にあった劇場の芸術監督を統一後に引き受けた(彼自身も東ドイツ出身)。でもって、この劇場は今やベルリンの若者が集う熱狂的なスポットだという。
 ちょうど出たばかりの「せりふの時代」で、ドイツ演劇特集をやっていて、川村毅がこのカストルフにメールでインタヴューしていたので、幾分かの予備知識はあったのだが、いやはや、その通り、若者が熱狂する要素もわかる。それでいて、政治的なメッセージが前面に出ている。やはり、社会の中で、演劇の置かれている場所が、ニホンとは違う。

 その衝撃は、なによりも物質的な衝撃だった。
 そもそも言葉はわからない、加えて、準備してくれた字幕が、台詞の速さに追いつかず、ほとんど意味をなしていない、という状況では、伝わる衝撃自体が、音と表情と身体的な感覚と光という物質的なものに限られた。にもかかわらず、それらを統御している観念が、演技のレベルでも、演出のレベルでも、あまりに透徹したエッジを持っている、そのことだけはわかるのである。

 というわけで、ボクにはまるでナイフのような、またハンマーのような物質的な脅威を持った観念の力だったのだ。

 それに、前回見たマルターラーもそうだったが、役者がみんな上手いし、スキがない。歌も上手いし、踊りも強いし、楽器も演奏する。攻撃も守備もやる。ドリブルもパスワークも出来る。ゲームの流れも読めるし、そして、90分間を通して集中力に切れ目がない。明晰きわまりない一つの観念を共有する集団の力が、まさにドイツなのだ。まさに、ドイツサッカーのような、ドイツ演劇なのである。
 それで、ドイツサッカーが勝つためのリアリスティックなサッカーだったように、ドイツ演劇も(勝ち負けじゃないのに!)、徹底してスペクタクルを排除した舞台なのだ。
 でも、これは、演劇の方が、元祖。というのも、ブレヒトの革命というものがそういう演劇だったからである。
 叙事的演劇と、それをブレヒトは名付けたが、つまり、抒情に対する叙事というわけ。抒情がないわけではない。ドラマはしっかりと紡ぐ。が、そのドラマを伝えるのが、舞台芸術の快楽とはちっとも考えていない。むしろ、そのドラマの持つ抒情やスペクタクルによって、観客が興奮し、夢中になり、飲み込まれる前に、観念のハンマーでもって、「目を覚ませ!」という一撃をくわえる、そういう演劇なのだ。そういう観念には、物質的な力があって、それがボクを捉えた。
(ブレヒトの叙事的演劇については一度書いた)

 ドイツ的な地域性ということで云えば、サッカーよりもさらに徹底されて、物質的な観念力を持った舞台であった。
 ただ、字幕の混乱という事故のせいもあるが、それらの観念の内包している問題意識がうまくつかめず、ガツンとやられはしたものの、ゴンッと精神をどこかへ押し出されるふうではなかった。そこはマルターラーの方がメッセージの複合性が強く、明確で、認識力には軍配があがる(いかんせんビデオだからね。実際はわからないけどね)。
 というわけで、とにもかくにも、ドイツでも、ドイツらしく、ブレヒトという「反近代」がいまだに生きているのだ、というコトを知って心が沸き立った。
 だって、近代と戦うコトこそが、実験精神の内実なんだから!

*   *   *

 サルトルのテキストをほぼそのまま使っていて、その中に、ユーゴスラビア紛争のさなかの少女の手記が挿入されていた。
 その少女がそのまま、サルトルのドラマのヒロインと重なるのだが、その少女の独白は「兵士によって父親が焼き殺される情景」なのだった。
 その台詞を俳優自身がどのような問題意識の強さで、言葉に語るか、その瞬間だけでも、震えた。それは単なる共感やセンチメンタルな情感ではない。また、その少女になりきるという類いの演技でもない。あれは、俳優自身の世界観、問題意識の強さからくる、観念の鋭さだ。少女を演じている俳優は、そのセルビア人の言葉をドイツ人の観客に向かって語る、そのことの意義を明確に把握しえいるし、把握しながら語っている。ドラマはそこへ至るための、集中力を支える方便にすぎない。

 自分の舞台でも、ああいう俳優の仕事を見たいと思った――。

2002.07.02
JIN


演劇ユニットLABO!のページ ■ 

Jin's コラムのページ ■