不器用な言い方で、おずおずと、
それでも、言わなければならないのだろうか?

ビデオでみるドイツ演劇の今、
クリストフ・マルターラー演出
『ゼロからの出発』を見て

 現在審議中の、有事法制にしても、メディア規制法にしても、なにも根も葉もないところから、降って沸いて出て来たシロモノではない。しかし、それらの発想の仕方、中味の方向性は、まちがいなく国家主義的だし、戦前の亡霊の復活を予感させる、ヤバイ感じだ。
 (話が大枠から入ってつまらなくってごめんなさい)
 どうもいま、日本は、戦後社会が溜め込んでしまった「ゆがみ」が、溢れて、こぼれて、人々を押しつぶして、もう目も当てられない、そういうところに来てしまった、というコトにやっと誰もが気づき始めた、と、そういうところにいるような気がしてどうしようもない。
 かなり、ヤバイ。(世界中がヤバイんだけど)
 ホントは、バブルがはじけて、ソ連が崩壊して、冷戦が終わって、アメリカのグローバリズムが全面化した90年代にもうハッキリしていた問題だった。
 その「ゆがみ」の中から、オウムも、神戸の小学生連続殺人事件も、池田小の事件も、すべて出て来たのではなかったか。ストーカーという現象も、登校拒否もひきこもりも、援助交際も、政治家の腐敗も、外務省の情けなさも、この日本社会のイージーさ(とボクに思えてならない)現象すべてが、「戦後」という問題の中で起こってい
るのではないか?
 それもこれも、倫理といってもいいし、コモンセンスといってもいい、「快感原則」を抑制する、そういう内的価値観を、社会がキープすることがゼンゼンできなくなってしまったからではないか。
 だからと言って、それを法律という外的な外枠でなんとか押し込めようとする発想が、国家主義的だし、民主主義的でない。絶対、ない、と思う。メディア規制法も新学習指導要領もそういう発想だと思う。
 かつて、倫理と法律は、いわば両輪となって内と外とから、社会が壊れないように支えてきたのだが。法律というものは、譲れるところは倫理に譲って、なくて済むのなら、できるだけないほうがいいに決まっているのに――。

 また、前書きが長くなってしまった。

 で、現代ドイツ演劇であった。
 ふとしたきっかけで、ドイツ文化センターのビデオ上映会に行った。
 ビデオだから、すでに起こってしまった事件(上演)の記録にすぎない。だから、いろいろな事は推して測るよりしかないのだが、ボクに、上に書いたようなコトをあらためて考えさせるインパクトがあったんだ。少なくとも、舞台表現としては、日本でもめったに見れないほど、技とセンスの磨かれた、一流のものであったであろうことはまちがいない。
 じっさいは、とてもとても、わからないところだらけで、3時間という長丁場、ワクワクするように面白かったわけではなかったんだけど、(途中、疲れもあって寝ちゃった!)でも、それは、まあ、現代の日本の雰囲気を海外の外国人に伝えるのが不可能なように、ドイツの雰囲気をビデオでわかれと言っても、かなり難しい。ちんぷんかんぷん。LABO! の芝居どころじゃない。でもそれは、しかたないよね。
 ただ、ビデオの中の観客のまなざしや笑いや空気が嘘ではなく、かなり集約力のある感じだったことから、ここにはドイツ人にとっては「わかる!わかる!」という何かがあったのだという感じはした。

 だからどういう芝居だったのか説明するのはかなりコンナンなのだが、簡単にいうと。1995年に上演された、この『ゼロからの出発』という芝居は、つまり、日本と同じように敗戦をくぐり抜けて現代に至ったドイツの国民の「戦後社会のゆがみ」を風刺しつつ、観客に何かを気づかせようとしているのだ。
 1995年。戦後50年。その記念式典のために、指導的立場の人間たちが集まって、いわばスピーチのための合宿をしている。そういう設定。マジメだけど、(わかるよね)
かなり変。無理矢理な設定。で、つまり、内容は半分くらい、バタバタのコントなのである。で、後の半分は非常に美しい繊細なコーラス合唱。であとの部分がちょっとマジメなところもあるスピーチ。
 ストーリーはなし。合宿の一日、という設定で、エチュードや即興から生まれたシークエンスが次から次へと、バランスよく並べられているという構成。
 登場人物は、その「指導者的な立場」の男たちが七人、それにピアノを弾くアシスタントが一人。そこに、ときに彼らを管理し、ときに世話をする「ゼロ夫人」と呼ばれるオバアサンが一人である(もう一人、マイクを運ぶ小間使いのような小男のオジサンがいる)
 この七人がすごい。年はバラバラ。30代くらいから60代であろうか。全員が一流の舞台アーティストなのだ。簡単に俳優といってもいいのだけれど、ストーリーがなく、脚本もなく、即興から組み立てられているので、使っている技術は、演技というより「芸」なのだが、よくぞこんなに芸達者が七人も揃ったものだと感心してしまうほど。また、七人+ピアニストのアンサンブルが恐ろしいほどステキなのだ。
 (日本ではこういう七人が揃ったとして、これほど深く信頼し合ったアンサンブルを実現するコト自体が奇蹟のような気がする。演出の力もあるけど。組織力の力もある。うらやましい〜)
 基本的には、チャップリンやMr Beenに通じる、クラウンのスペシャリストたちのように見える。それで、合唱がバツグンに上手い。

 反復的な身体的ギャクがこれでもかと畳みかかる。あざとく笑わせるためというのではない。(それにしてもドイツ人はよく笑う)。転ぶ。はじける。ひっかかる。ナンセンス。全体の中で、一瞬、観客の目を自分に引き寄せる、そういう「サプライジングな」瞬間を作るのがクラウンの基本。
 そこに唐突に、心情的なコーラスが始まる。また、ギャグ。コーラス。

 すごいのは、これらのギャグやコーラスの細部、その積み重ねが、どこへ行こうとしているのか、役者たちが完全に「腑に落ちている」ことがわかるコトなのだ。

 どこへ行こうとしているのか、現在のドイツが置かれている「ナンセンスな」状況から脱出するような、どこかである。

 照明がうっすらと暗くなり、大混乱のベッドの中で、男たちは寝るに寝れないまま過ごす、ラストの夜。みんな「祝福されたドイツ国民」という夢を見たいのだ。「残していく若い世代に自信を持ってほしいのだ」。
 小間使い男の卑屈な笑い。天井からは妻たちのシャワーの音。そして、暗転――。
 言葉なんか一つも伝わらないのに、その演出効果だけで、なにが言いたいのか、漠然と、しかし強く、伝わる。

 ドイツも日本も、戦争に負けた。
 それも、ただの普通の戦争に負けたのではない。
 ファシズムという「理念」にとり憑かれて、それで戦って、それで負けたのだ。
 「ハイル、ヒットラー!」と叫んでいたドイツ国民は、
 そして、「天皇へーか万歳!」と叫んでいた日本国民は、
 なかば、強制であれ、また不当な優越感からあるいは倒錯した感情からであれ、そのとき、自国への愛情を持っていて、そして、負けたことによって、その愛情を素直に表現する自信を奪われたのである。
 しかも、ファシズムは、負けてそれで、すべて消え去ったというものではなかった。それは、まだ生きている。それぞれの国民の心の故郷というような幻想と、いつでも直結しているからだ。いつでも、復活する恐怖がつきまとっている。
 だから、常に、厳しい自己チェックの目を向けなければいけなかったし、今も向けなければいけない。不穏な空気が漂ったら、「ヤバイ」と思わなければいけない。
(この文章の冒頭のボクのようにね)
 だから、「反省」は永久に終わらない。
 けれど、ホントウの生き生きとした自信は、反省だけからは沸き上がってはこない。
物質的な豊かさだけでもダメだ。

 そういう矛盾の中に生きて来たのだ。

 われわれの民族の故郷を取り戻すこと。
 ファシズムを回避しつつ、自国を愛すること。
 そんな離れ業ができないままに、ついに50年以上も経ってしまった、というわけだ
が――。

 暗転の中で、挿入されたナンセンス映画のシークエンスがつぶやいた。

 "Das ist (der) Deutsch Geist" (それがドイツ魂だ)

 不器用な言い方で、おずおずと、ボクらも言わなければならないのかもしれない。そう言える場所を作らなければいけないのかもしれない。

 「それが日本的霊性(精神ではない)だ」

 ――と。
 きっと、50数年前、この国は(そしてドイツも)、盥の水といっしょに、赤子まで流してしまった、そんなような気がする。

*   *   *

 (ダメだ。どうも上手く書けなかった……。くるしい……。あまりにも、デリケートで難しい状況になりつつある……。)

 
 

2002.05.22
JIN


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