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演劇は「想像する」力だぜ(その2)。
あれこれあって、前回から10日もたってしまった……。まだ2回目なのに……。
さて、考えよう……。
「説明しない演劇」とはなんなのか?
それは「説明しない空間」なのだ!
俳優は、ふつう「説明的な」台詞を嫌う。「私はノドが乾いたから水を飲むのだ」「あの人は僕が恋愛している人だ」などなど……。しかし、一見、説明的でないような台詞、たとえば、「好きだよォ」「バカじゃない!」「知らないわ」なんていう言葉の裏に、俳優は、たいていは説明を求める。「なぜ好きなのか?」「なぜバカだ、と叫ぶのか?」「なぜ知らないと、嘘をつくのか?」……。
しかし、俳優は説明すべきではない。どんな意味においても。なにかがリアルに伝わるとすれば、それは「説明」に筋が通っているからではなく、ただ「存在」が、そうとしか受け取れないからなのだ。
怒っているとすれば、なぜ怒っているのかは、どうでもいいのだ。
笑っているとすれば、なにがおかしいのかは、観る者が考えればいいのだ。
想像させること……。少なくとも、伝えるべきことは、不完全でなければならない、ということ。つまり、想像させる余地を与えること、だ。
そこに、演劇的な「想像力」がある……。
自分が怒られたとき、僕らは、なぜ怒られたのか、考えずにはいられない。
笑ってくれたとき、なにがおかしかったのか、自ずからわかるはずだ。
そこに、演じる側がすべてを用意する必要はないのだ。
筋が通っていないことを、恐れるな!
僕らは、春のなかで、冬の冷たさを懐かしむように、
人の死が、生きていることを愛おしめるように、
そこにないもの、見えないものを想像させる力が、演劇の「想像力」なのだから。
それについて、もう少しくわしく検証してみる……。
つづく……。
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