演劇は「想像する」力だぜ(その1)。


 考えてみよう……。
 「現代演劇」は実のところ、これまでずっと「映画」との戦いを水面下で続けてきてきた、と考えてみよう。20世紀も初めのころ、「現代美術」の冒険が「写真」との戦いから出発したように……。
 そこで問題となるのが「想像力」だ。映画と演劇の決定的な違いは、「想像力」だ。とはいえ、この「想像力」のことを考えている演劇のなんと少ない昨今よ、と僕は、嘆いてみる……。
 たとえば、ピーター・ブルックは言っている――


 映画の場合、写真のもつリアリスティックな性質のせいで、人間は常にある状況におかれており、けっして状況の外部にいることはありません。(『秘密はなにもない』ピーター・ブルック著/喜志哲雄・坂原真里訳、白水社、1993)


 ふむふむ……。「人間は常にある状況におかれており、けっして状況の外部にいることはありません」か。これはどういう意味だろう? 
 うん。「状況」というのを、“一つの視点”という意味に考えてみる。実際、写真や映画には、“視点”が一つしかない。写真や映画では、僕らは必ず、カメラという“一つの視点”を通して、その作品世界を覗いている。で、その、他者から与えられた“一つの視点”はそれより外部に出ることのない、限定された「枠組み」なのだ。ときに、観客である僕らの幻想が、この「枠組み」と同化すれば、これほど、〈揺るぎなき強力な感動〉をつくり出すものはほかにはないのだけれど(これに匹敵するのは、眠りのなかの夢くらいだ)、けっしてその「枠組み」を越えることは、不可能な、そんな「枠組み」なのだ。

……演劇の場合には、たとえば普段着の俳優であっても、白いスキー帽をかぶることによってローマ法王を演じているのだと想像することができます。一語でヴァイチカンを示すこともできるのです。映画ではこれは不可能です。物語の中で具体的な説明が必要で、たとえば場面は精神病院で、白い帽子の患者は教会についての妄想を抱いているのだといったことを言わなければ、このイメージは意味をなしません。演劇の場合には想像力が空間を満たすのですが、これに対して映画のスクリーンは全体を表し、その枠の内部にあるすべてのものが論理的に筋の通ったやり方で結びつくことを求めているのです。(同上)

 だから、多くの映画関係者は、この「枠組み=視点」の中で、「すべてのものが論理的に筋の通ったやり方で結びつく」ように努力しなくては! という〈創作倫理〉を持つ。
 のだけれど、この映画的〈創作倫理〉に、振り回されている演劇関係者のなんと多いことよ、と僕は考えてしまう……。
 なぜそうなるのか? なぜ? 
 それは、映画が、実に〈揺るぎなき強力な感動〉をつくり出す魅惑の装置だから……。人の「想像する」力に、圧倒的な力でのしかかり、限定し、筋道に沿って制御し、統制していく「枠組み」だから……。
 ああ、説明しなければ! 筋道たったように、説明しなければ! 観る人の「想像力」を、制御し、統制するように、正確に、説明しなければ! ……という強迫観念のなかで、「演劇」している人のなんと多いことよ、と、僕は考えてしまうのである……。

つづく……


演劇ユニットLABO!のページ ■ 

Jin's コラムのページ ■