『風花』を見て

大江健三郎の故郷の森の伝説のように、
死んだ者の魂は、故郷の山を駆け昇って、
そこに住処を見つけるのだとしたら――。

 相米慎二監督の遺作、『風花』を観た。
観終わってから、気づいた。
「あ、監督こりゃ、自分の死ぬのを知ってたな」と。

テレビでやった奴を、ビデオに採ってから観てたので、
あんまし画像はよくなかったが、しかし、
相米節にゃあ、やっぱり沁みた。

不思議に、重さのない、
さらさらと、さみしい、さ行のような感触の
そーま灯のような、映像叙情詩だった。

主演の小泉今日子と浅野忠信の、
二人の決して深みのない演技のせいもあって、
そりゃ物足りなさは残るが、後味は悪かあないのだった。

どこかで、軽味へ軽味へと向かっている何かがいて、
それは、願わくば、出来うる限り安らかな死へを、
切望する魂だったのではないかと想う――。

睡眠薬を飲んで、安らかに、
雪の上へ寝転んで、ひっそりと、
苦しむことのないように、花の散るように、
美しく、さびしく、静かに、
こちら側から向こう側へ、渡っていければそれでいいのだ。

そういうワケで、
ラストへと向かうキョンキョンは、
相米監督自身であり、
オープニングで、仕事干されて、歩道橋で、
缶ビールをチュウチュウ飲む、浅野も
相米監督なのだった。

監督が、二人に何かを託したかったのは明らかで、
それは、これからの日本映画そのものだったかもしれず、

にもかかわらず、演出の現場では、
いつもの、俳優を追い詰め、突き詰めるパワー
を、発揮できる気力までは感じないままに、

ラストシーンだけが、浮いている。

残された僕らへ向かって。

あきらかに、あの、
(監督自身の故郷であった)
雪山の最奥で、何かが、
向こうへと渡っていった。
ひとりで、二度と帰らぬ旅へ。

花の散るように、
雪の舞うように、
美しさの中で、
無常の中で、
死すべき魂の、
この世になにも執着しない境地、
能の境地、そのように、
女は、
生死のはざま、
夢とうつつのはざまで、
舞っていた。

(あれはキョンキョンですらなかったな、
誰だか無名の、不思議な仮面の女だったな)

映画というのは、夢のようなものだから、
夢は、真実を語りうる、さびしい場所だから、
今になってみて、そんなことがふつふつとわかる。

しかし、最後に、やはり
こちら側へと、キョンキョンが
戻ってきて、小さな娘と再会するのは、
そして、
ピンクの車が、神社の祠を見上げながら、
橋の途中で、行ったり来たりするのは、
なんとも、監督の、迷いのようで、
あこがれのようで、
ほほえましさの中に、
僕らは救われる。

スタッフ、キャストの詳細

相米監督と監督をめぐる発言集

JIN'Sコラム:相米監督について

2002.12.01
JIN



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