![]() Bertolt Brecht ![]()
![]() ![]() ![]() 1 ガチョウ
バリッケさん:(窓際で髭を剃りながら)あの男が行方不明になってからもう四年だぞ……。戻るものか。こんなふざけたご時世だ、どんな男にだって金の値打がある。二年前はさんざ祝ってやったが、あんときゃ、おまえらのくだらんセンチメンタルにだまされた。今度だァ、承知しねえ……。 バリッケ夫人:(壁にある砲兵姿のクラーグラーの写真を前にして)いい男だったのに……。優しい男だったのに……。 バリッケさん:今ごろ腐ってらァ。 バリッケ夫人:もしも帰ってきたら、あの子……。 バリッケさん:天国から帰って来れる奴などいやしねえ……。 バリッケ夫人:天国に誓ってホントに、あの子、川に身投げするわ! バリッケさん:あいつァ世間知らずのガチョウだァ。ガチョウが溺れたなんざ、聞いたことがねえ……。 バリッケ夫人:あの子、吐きどおしなのよ……。 バリッケさん:キイチゴだァ、酢づけニシンだァ、あまり食わすなよ! ムルクって奴ァ、上等なタマだ。こいつのためなら膝まづいて神に感謝してぇくれぇだ……。 バリッケ夫人:そう、景気のいい人だもんねえ。でも比べてごらんよ! あたしゃ涙が出てくるよ……。 バリッケさん:死体と比べられるかあ? 言っとくがな、今しかないンだぞ! 法王でも待つか? え? それとも黒んぼか? おとぎ話はもうたくさンだ……。 バリッケ夫人:もし帰ってきたらだよォ、アンタの言ってる死体がさ、腐ったのがさ、天国からだか地獄からだか帰ってきたらだよォ……。僕の名前はクラーグラーです、なんて言っちゃってさ。そしたら誰が言うンだい? アンタは死ンだンだよ。アンタの女はもう他の男とベッドに寝てンだよって……。 バリッケさん:俺が言ってやらァ! だからあいつにゃおまえから言うんだ。もう待てん。ウェディングマーチだ! 相手はフリッツだ! ってな……。俺が言ったら、あいつの涙でこっちが溺れちまわァ。ちくしょ、明かりだ! バリッケ夫人:またバンソウコウかい? 明かりもつけずに切ってばかりだねえ……。 バリッケさん:いくら切ろうがタダだ。だが明かりをつけるにゃ金がいる。(叫んで)アンナあ! アンナ:(ドア口で)なによ、パパあ……? バリッケさん:まあ、聞くンだ。これからママが言うことをな、よーく聞くンだぞ……。このめでたい夜を、涙でお流れにせんでくれよ! バリッケ夫人:おいでアンナ。いいかい、パパはね、おまえの顔が青白いって、夜も寝てないんじゃないかって心配してるンだよ……。 アンナ:ちゃんと寝てるわ……。 バリッケ夫人:そうかい。でもいつまでも続きゃしないよ。あの人はもう帰っちゃ来ないンだ……。(とロウソクに灯りをつけながら) バリッケさん:こいつ、またワニみたいな目つきをしやがった! バリッケ夫人:つらかったろうねえ。いい男だったしねえ。でももう死んじまったンだよ……。 バリッケさん:墓ん中だ! 腐ってる! バリッケ夫人:アンタ! でもね、ホラ、あのフリッツさんって人? あの人はなかなかの男じゃないかい。将来有望だっていうしねえ……。 バリッケさん:そうだとも! バリッケ夫人:だからね、アンタ、ハッキリ言ってどうなんだい……? バリッケさん:オイもったいぶるな! バリッケ夫人:だからさ、ハッキリ決めちゃうンだよ、あの人に! バリッケさん:(バンソウコウをいじりながら怒って)こんチクショウめ! こいつは男をなんだと思ってンだ? イエスかノーか、ハッキリしろ! 天国を欲しがるなんざ、狂気の沙汰だァ! アンナ:イエスよォ、パパ! バリッケさん:(びびって)ほうら来たぞ来たぞ、さあ泣くなら泣け。涙が堰を切ってあふれようが、こっちは浮き袋をつけりゃ大丈夫……。 バリッケ夫人:ムルクさんのことは好きでもなんでもないってぇのかい……? バリッケさん:それじゃおまえ、ただのふしだらってもんだぞ……。 アンナ:だってぇ! わかるでしょ、あんなの最低よォ! バリッケさん:わかるかァ! 今言ったろ! あの野郎は腐ってカビて骨もボロボロだ! 四年だぞ! 生きてるわけがねえ! 砲兵中隊は全滅だ! 霧ンなって砕かれて、消えてなくなっちまった! どこでどうなってるかァ? ンなこたァとてもじゃねえが言えねえンだ! 心配することがあるとしたって、幽霊が出やしないかってことだけだろ! 男をつかめ! そうすりゃ夜中に幽霊を恐がる心配なんかしなくなるンだ……。(アンナに近づいて、大胆にも)おまえはマトモな女か? どうなんだ? さあ、こっちに来るンだ!
アンナ:(びっくりして)あの人だわ! バリッケさん:表に待たせとけ。心構えがいるからな! バリッケ夫人:(洗濯カゴを持って戸口で)おまえ、洗いもんがあるだろ? アンナ:ないわよ。ないわ。あたし……。 バリッケ夫人:でも八日目だよ……。 アンナ:八日目って? バリッケ夫人:八日目でしょうが……。 アンナ:それがなんだっていうの……? バリッケさん:ドアの前でくっちゃべってないで、こっちに来い! バリッケ夫人:じゃあ洗うもんがないかどうか、よく考えな!(出ていく) バリッケさん (座ってアンナを膝に抱き上げて)いいか、男のいない女なんてモンはなァ、場末の飲み屋みてえなモンなんだぞ! おまえは男を兵隊に取られちまった。だから淋しい。そうだとしてもだ、ホントにおまえはあの男のことをまだ覚えてるか? ン?そんなわきゃねえ! 死んじまえば見せ物小屋のロウ人形だ。この頭ン中で、奴ァツルツルのピカピカに磨き上げられちまってる。完全にくたばっちゃいなかったとしても、こン中のとはもう別人になっちまってるぞ! それどころか腐って、見られたもんじゃねえ! 鼻なんかそげちまってる……。でも淋しい! だったら他のを手に入れろ! 当然だ! そうだろう! それで野菜畑のウサギのようにみるみる元気になる! おまえにゃ健康な体と食欲があるンだ! 実際そんなこたァ、ちっとも不潔じゃあねえンだからなァ! アンナ:嫌よ! 忘れられないわ、あたし! いくら口で言ったってダメよ! バリッケさん:フリッツと一緒になれ。そうすりゃ奴が忘れさせてくれるわ……。 アンナ:嫌いじゃないけど、いつかもっと好きになるかもしれないけど、でも今はそうじゃないンだもん……。 バリッケさん あいつァおまえをくどいてるだろ? ええ? あいつァはな、ある種の代理権がいるンだ。それにゃ結婚するのがいちばんてわけだ。だがそれをおまえに説明するわけにゃいかんのだ。まだ子供だからな……。(と、アンナをくすぐって)じゃあ、いいな……? アンナ:(下品に笑って)だってよくわかんないンだもん、フリッツって……。 バリッケさん:さあ、かあさん、もういいぞ! バリッケ夫人:さあどうぞ! お入り下さいな。さあさ、どうぞ。フリッツさん! バリッケさん:こんばんは、フリッツ! おや? どうした、水死体みたいな顔だ……。 ムルク:ああ、アンナさん! バリッケさん:ツラの皮がふやけて、チーズみたいに真っ青だぞ。おい。夜風にでも当てられたか……?
バリッケさん:まあいいや。アンナ、たっぷりもてなしてやれ……。
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アンナ:ホントにどうしたの、あなた? 真っ青だわ……。 ムルク:(匂いをかいで)あの親父、婚約するのに赤ワインかよ……?
ムルク:誰かいたンだな……? (アンナに近寄って)いたンだろ? なんだその暖簾みてえな顔は? 誰がいたンだ……? アンナ:誰もいないわよォ! あなたこそ、どうしたのよォ……? ムルク:なにを慌ててンだ……? ええ? 俺ァだまされねえ……。奴か! とにかくこんな居酒屋じゃあ、婚約なんかできねえからなァ! アンナ:婚約なんて誰が言ったのォ……? ムルク:おまえのおふくろだァよ……。亭主の目で家畜は肥えるってなァ! (落ち着きなく歩きまわって)ええ、おい、どうなんだ……? アンナ:言っておくけど、あの人たちはカンケイないわよ。何にも知らないンだから……。 ムルク:おまえ、初めてじゃなかったろ……? アンナ:なによ、あなたこそ軽薄だったって思わないの……? ムルク:フン、かもな。相手は奴か……? アンナ:奴って誰……? ムルク:奴だよ。ホラ、そこにぶら下がってる。そっちにも。そこら中をうろついてる! アンナ:違うわ。あなたなんかには理解できないことよ。あたしたち、精神的なカンケイだったンだから……。 ムルク:じゃあ俺たちのカンケイは肉体的だってわけか……? アンナ:あたしたちのカンケイ? そんなモンないでしょ……。 ムルク:ところが、今やそうじゃない……。 アンナ:あなたになにがわかるのよ……。 ムルク:その態度も、もうすぐ変わるってことさ……。 アンナ:そう思ってるだけじゃない……。 ムルク:俺はあきらめない! アンナ:それ、プロポーズのつもり……? ムルク:いいや。まだだね……。 アンナ:どうせうちの兵器工場と結婚したいでしょ……? ムルク:このやろう! なあ、おい、夕べは感づかれなかったろうな……? アンナ:ダイジョーブよ! あの人たちの一度寝たらモグラなのよ!(とムルクに寄り添う) ムルク:俺たちとは違うってかぁ! アンナ:バカバカ! ムルク:(ひったくるように抱き寄せて、長いキス)どうだこのやろう! アンナ:黙って! ホラ、夜汽車の音。聞こえる? あたし、ときどき不安になるの。彼がくるかもしれないって、背筋がゾッとするの……。 ムルク:ミイラがか? アッハッハ! 気にするな。俺に任せとけ……。言っとくがな、俺たちのベッドには冷たくなった男なんかいらねえンだ。俺以外に他の男がいたら、承知しねえぞコノヤロウ! アンナ:おこンないでよ! ねえったら! あやまるからさァ! ムルク:美しき妄想の中のクラーグラーってわけかァ! 結婚しちまえば、葬式のようにあとには何も残らんさ。賭けてもいい。(と笑って)賭けてもいいぞ! このガキをな! アンナ:(顔をムルクの顔に埋めて)それは言っちゃダメ! ムルク:(機嫌よく)そうだったそうだったァ!(ドアに向かって)さあもういいですよ! お母さん! ねえ、お父さんも! バリッケ夫人:(ドアの裏から)まあ、アンタたち!(泣きはらした目で)天国でも落ちて来たンかい……? バリッケさん:難産だったろうなア……?
ムルク:双児のようでしょう? 式はいつにしますか? 時は金なりです! バリッケさん:三週間後だ! ちゃんと二人のベッドも用意してあるぞ。かあさん、お祝いだ! バリッケ夫人:ハイハイいますぐ。でもひと息つけさせてちょうだいよ……。(と、走って出て行きながら)だって突然、天国が落ちてきたンだからね! ムルク:僕としては、皆さんを今夜ピカデリーバーへ招待して、そこで乾杯できたらって思ってるんです。いますぐ婚約したい。いいだろ、アンナ……? アンナ:アンタがどうしてもって言うならね! バリッケさん:ここじゃいかんのか? なんでピカデリーバーなんかへ? ええ? バカバカしい! ムルク:(ソワソワして)ダメですよ、ここじゃ。絶対に! バリッケさん:なんだとォ……? アンナ:変な人! じゃあすぐにピカデリーバーへ行きましょう! バリッケさん:こんな夜にかァ? 命の保障はないぞ! ![]()
バリッケさん:(グラスをあけて)新郎新婦にカンパイだぁ!(グラスを合わせる)時代はまさに不透明。戦争も終わっちまったァ。この豚肉かァ脂が多すぎるぞ、かあさん! 兵士どものご帰還で、平和な労働のオアシスが、無秩序で、がめつい、豚のような殺戮現場に変わっちまったわァ……。 ムルク:弾薬バスケットに乾杯だ! アンナ! バリッケさん:わけのわからん連中が増えるぞ。うすっ気味の悪い連中だ。革命のハゲタカどもに対する当局の対応は手ぬる過ぎるンだ。(新聞を広げて)扇動された大衆に理念などありゃしねぇ。だが最悪なのは、前線から戻ってきた兵隊どもだ。スサミきってて、やりたい放題。働く気などさらさら、常識など微塵もねえ。まったく息苦しい時代だぞ。一人の男にゃ金の値打ち。そうだぞ、アンナ。しっかりつかまえとけ。いいか、おまえたち、しっかりヤレ。いつも二人でな。いつもいつも! カンパイ!(と、蓄音機のネジを回す) ムルク:(汗を拭いて)ブラボ! 男ならやるしかないですよ。前進あるのみですよ。編み上げブーツを履いて、シャンと顔を上げて。なあアンナ! 僕はやっとここまではい上がってきた。丁稚奉公から、機械工から、あっちこっちで叩かれて、のし上がってきた。わが祖国ドイツともに! この手を汚しても、厳しい現実をかいくぐって、今やっと、ブルジョアだぞ! カンパイ! アンナ!
バリッケさん:よくぞ言ったァ! どうした、アンナ? アンナ:(立ち上がっている。半分振り返って)わかんない、あんまり急なんだもん。あたし、こんなのよくないんじゃないかって、ねえママ……? バリッケ夫人:なにがママだい? ホントこの子はガチョウだねえ、喜ぶンだよォ! よくないことなんかあるもんかい! バリッケさん:座れ! それとも立ってンなら、蓄音機を回せ! アンナ:(座る)
ムルク:じゃ、カンパイだ!(アンナにグラスをぶち当てて)なんだよォ……? バリッケさん:フリッツ、仕事の話だぞ。例の弾薬バスケットだがな、アリャもうダメだ。暴動もせいぜい続いて三週間、それで終わりだ! そこでだ、いいか、これは冗談抜きで、これからは乳母車でいく。実際、工場はいたって順調だ……。(と、ムルクの腕を取って舞台奥へと引っ張っていき、カーテンを開けて)新館の二号と三号! すべて頑丈、近代設備! アンナ、蓄音機だ! ブルブルッと奮い立つような奴だァ!
ムルク:あ、あそこに男が一人、工場の敷地に! なんでしょうアリャ……? アンナ:気持ち悪い! こっちを見上げてない……? バリッケさん:なあに、警備員だろ! なにがおかしいンだ、フリッツ? のどに何か詰まったか? どうしたおまえら、顔が真っ青だぞ! ムルク:いや、ちょいとつまらないコトを思いつきまして。おわかりでしょ、きっとスパルタクスの連中が……。 バリッケさん:バカバカしい! そんな連中はウチにはおらん!(けれど不愉快なので、顔を背けて)ということで、これが工場だ……。(テーブルに戻る) アンナ:(カーテンを閉める) バリッケさん:戦争じゃ大いに儲けさせてもらったンだ! 道に落ちてた幸運を拾わずに見過ごすなんざ、キチガイ沙汰だァ。俺が拾わなかったら、他の奴が拾ってらァ。豚の最期はソーセージの始まりってな! そうさ! 俺たちにとっちゃ戦争はラッキーだったァ! おかげで財産は十分に確保されとる。完全に、ユウユウとな。これからは腰をすえて乳母車を作ってりゃいい。焦らずに! 反対か……? ムルク:賛成さ、パパ! カンパイ! バリッケさん:それでおまえらも腰をすえてガキを作れちゅうもんだ。アッハッハ! ![]()
バブッシュ:(ひょこひょこと入ってきて)ヤアヤアヤア、アカどもの乱痴気騒ぎにゃ、皆さんもうまいこと身を隠してるようで! スパルタクスが動員をかけましたよ。交渉決裂です。二十四時間以内にベルリンは火の海ですよ! バリッケさん:(ナプキンを首に巻いて)フン、こんチクショウめ! 連中は満足っちゅうモンを知らんのかァ? バリッケ夫人:火の海って? まァどうしましょう! なんて夜なの! なんて夜! あたしゃ地下蔵へ逃げるわ、あなたァ! バブッシュ:今のところ中心部は落ち着いてますがね、でも奴らどうも新聞社を占拠するつもりらしい……。 バリッケさん:なんてこったァ! よりによってこのめでたい婚約の夜に、こんなことになるとわな! 狂っとる! ムルク:全員銃殺だ! バリッケさん:不満な奴ア、銃殺だ! バブッシュ:婚約って、あなたがですか? バリッケさん……? ムルク:バブッシュ、僕の花嫁だよ! バリッケ夫人:天国が落ちてきたのよ。でもホントに撃ち合いになんのかい……? バブッシュ:(アンナとムルクと握手して)スパルタクスの連中、たんまりと武器を溜め込んでやがったんです。インケンな奴らですよ! でも大丈夫、アンナさん! ここまでは火の手も及ばないでしょう! ここは平和な家庭だ! マイホーム! MY HOME IS MY CASTLE ! バリッケ夫人:こんな夜に! こんなおめでたい夜に! ああアンナ! バブッシュ:まったくホント、面白くなってきましたよォ! バリッケさん:面白いもんか! とんでもねえ!(ナプキンで口を拭う) ムルク:さあ皆さん! ピカデリーバーへ行きましょう! 婚約です! バブッシュ:でもだって、スパルタクスが! バリッケさん:なあに、バブッシュ! 連中は他の奴らのどってぱらを撃ってるさ。バブッシュ! さあピカデリーバーだ! めかしこんで来い! 女ども! バリッケ夫人:なにがピカデリーバーだい。こんな夜に!(とイスに座る) バリッケさん:かつてはそうも言ったが、今じゃカフェバー「我が家」だ! フリッツの招待だァ! なんのための辻馬車だァ! こんな夜がなんなんだァ! 進め! ドレスルームへ! さあ、オバはん! バリッケ夫人:あたしゃ一歩だってこの四枚の壁から外へは出ないよォ! アンタどうかしてるんじゃないのかい、フリッツ? アンナ:人の意志に神宿るのよ! フリッツの意志がそうなんだから!
ムルク:ダメですよ、ここじゃ。絶対に。僕は、僕はミュージックが欲しい。それと照明だ! いい店なんです! ここは暗いし、今夜は特別キメめてきたんですよ、僕は。だからどうでしょう、お母さん……? バリッケ夫人:あたしゃわかンないよォ。(と出て行く) アンナ:待っててフリッツ、すぐ支度してくるから! バブッシュ:嘘みたいなことばっかりだなァ。オルケストリオンはブッとんじまうし、ナマケモノたちよ、隊を組め! ところで、アンズ五〇〇グラム、それもバターのように柔らかい、肉色の、みずみずしいのが十マルクですよ! わけのわからん連中が、まっぴるまのような明るいカフェで、口に指を当てて口笛吹いてると思いきや、ブルジョア連中はダンスホールで踊ってやがる! でもまあ、結婚式だ。カンパイだ! ムルク:おーい、なに着たって同じだぞ。極彩色の皮かぶったって、目立つだけなんだからな……。 バリッケさん:まったくだ! こんなご時世にゃ古いので十分。降りて来い、アンナ! ムルク:着替えなんかいいから、すぐ出掛けよう! アンナ バカ!(また出ていく) バリッケさん:いざ進め! 天国への階段を! でもちょっと匂うなあ、このシャツ……。 ムルク:先に行ってるぞ! 代わりにバーブッシュを連れてくか。付き添い女として、どうだ?(歌って)「バブッシュ、バブッシュ、バブッシュ! 広い広間をひょこひょこバブッシュ……」 バブッシュ:頭のイカれたガキみたく、下品に騒ぐのは止めてくれえ……。
ムルク:(外で歌っている)指をしゃぶるのはやめろ! アンナ! ディオニソスのお祭りだ! ![]()
バリッケさん:よっしゃ、なんとかなったわい。苦労かけやがって! あの野郎をベットへ追い込まにゃならんのに、よりによって死体に首ったけたぁなァ! 新しいシャツが汗臭えや。なんでも来やがれ、このやろう! 合い言葉は乳母車だぁ!(と出ていく)かあさんシャツだ! アンナ:(外から)フリッツ! フリッツ! (駆け込んで来て)フリッツ! ムルク:(ドア口で)アンナあ!(素っ気なく、不安げに、オラウータンのように腕をダラリと垂らして)俺といっしょに来るか……? アンナ:どうしたの? 変よあなた……? ムルク:いっしょに来るのか来ないのか? おまえに聞いてンだ! すましてんじゃねえ! ハッキリしろ! アンナ:行くわ。もちろんよ! ワクワクするもの! ムルク:よーし……。だがまだだ。まだわからん……。この二十年間、屋根裏部屋をブラついて骨の随まで凍えてた、それがやっとボタン留めの靴を履けるようになった……。どうだ見ろよ! 暗闇ン中で汗をかいちゃ、ガス灯がやけにまぶしかった。それがやっと自分専用の仕立て屋が持てるまでになった! だがまだだ、まだ危ねえ。足元で風が吹く。ひやりと冷たい風が吹く。立ってるそばから冷えてくる……。
ムルク:今にブクブク太るぞ。赤ワインがしたたるぞ。俺はのしあがったんだ! いままでは汗だくンなって、目を閉じて、爪の食い込むまでこぶしを握りしめてきた。それもおしまいだ! これからは安定だ! ぬくもりだ! 作業着なんか脱ぎ捨ろ! ベッドだあ! 広くて柔らかいベッドだあ!(さまよいながら窓の所まで行って、外を眺める)来いよ。俺はこぶしを開く。陽の当たるところでシャツを着るンだ。俺にゃおまえがいる。 アンナ:(ムルクのところへ飛んで行って)ああ、フリッツ! ムルク:雌ウサギだな、おまえは! アンナ:あたしは、あなたのものだわ……。 ムルク:お母さんはまだかよ……? バブッシュ:(外から)まだですか! 僕は付き添い女ですよ! おーい!
ムルク:俺は最高の男だぜ、好きにやらせてくれりゃあなァ……。
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バリッケ夫人:まあ、月があんなに大きくて赤い……。でもこれで、やっと今夜は神様に感謝のお祈りができそうだ……。
クラーグラー:こんばんは……。僕の名前はクラーグラーです……。 バリッケ夫人:(膝がふるえて倒れそうになるのを鏡台で支えながら)ああ……。 クラーグラー:(うっすらと笑って)何をそんなに、驚いた目で見てるンです? とんでもない! 慰霊の花環なんかいりませんよ、おそれながら、私はアルジェで幽霊として暮らしましたが、しかし今はその屍も殺人的に腹をすかしておりまして、ウジ虫でも食えるような次第です。どうしたんですか、お母さん……? こんなふざけた曲かけて!(蓄音機を止める) バリッケ夫人:(何も言えない。ただ見つめている) クラーグラー:ああ、ダメですよ、倒れちゃ! ここにイスがありますからね、水をお持ちしましょうか?(鼻歌を歌いながら戸棚へ)この家のことはだいたいわかってます……。(グラスにワインを注いで)ワインです! しかもニーレンシュタイナーだ! どうですか? 幽霊にしちゃわりかし元気でしょう!(バリッケ夫人の世話を焼く) バリッケさん:(外から)おーい、オバはん、さあ行くぞ! わかったわかった、キレイだよ、おまえは! 天使のようにな!(と入ってきて呆然と立ち尽くす)いやまさか……? クラーグラー:どうもバリッケさん! 奥さんが、気分がお悪いようなんです。(夫人にワインを飲まそうとしている) バリッケ夫人:(嫌がって顔を背けている) バリッケさん:(しばらく不安げに見ている) クラーグラー:お飲みなさい。さ、すぐによくなりますよ! いやあ、自分でもこんなに記憶が確かだとは思ってもみませんでした。だってアフリカから直行で来たんですよ! 途中スペインで旅券をごまかしたりして……。アンナはどこですか……? バリッケさん:お願いだから妻を放っといてやってくれ! それじゃ酒びたしになっちまう……。 クラーグラー:ああそうですね。(止める) バリッケ夫人:(直立不動の夫のところへ逃げる) バリッケさん:(きつく)クラーグラーさん。もしもアンタが、自分で主張するように本当にクラーグラーさんなら、教えていただきたいんですがねぇ、いったいここへは何をしに来たんです……? クラーグラー:(言葉が出ずに)聞いてください。僕はアフリカで捕虜だったんです……。 バリッケさん:黙れ!(壁の戸棚まで行ってブランデーを飲んで)いや結構、いかにもアンタらしいわ。まったくだらしのない! それで? ええ? 何をお望みで? ウチの娘は今夜、ほんの三十分前に婚約したところでねぇ……。 クラーグラー:(よろめいて、わずかに疑って)なんだって……? バリッケさん:この四年間、アンタはかいもく音沙汰なし。その間、あいつは待ってた……。わしらだって待ってた、この四年間……。だがそれももう終わりだ。もはやアンタにゃ、なんの用もないンだ……。 クラーグラー:(座る) バリッケさん:(まったくの強気ではない。不安。落ち着こうと気を張って)クラーグラーさんよォ、わしらァ今夜やらねばならんことがあるんでな……。 クラーグラー:(顔を上げて)やらねばならんことォ?(ぼんやりと)あぁ……(また顔を臥せる) バリッケ夫人:悪く思わんどくれ、クラーグラーさん。女なんザ、世の中にゃいっぱいいるンだよ。ホントにいっぱい……。落ち込まンで、耐えるンだ! クラーグラー:アンナ……。 バリッケさん:(乱暴に)かあさん! バリッケ夫人:(ためらいながらクラーグラーのところへ) バリッケさん:(突然ハッキリと)さあ、センチメンタルはもうこりごりだ!(と、妻の腕を取って出ていく)
クラーグラー:あぁ……(頭を振る)
女中:みなさん、ピカデリーバーまで、婚約の席へお出かけになられましたよ……。
クラーグラー:(女中を見上げて)あぁ……。
女中女中:あなた! 帽子! 帽子をお忘れですよ! |
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