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登場人物 |
ワキ 平宗盛(たいらのむねもり) |
ワキヅレ 太刀持ち | |
ツレ 朝顔(あさがお) | |
シテ 熊野(ゆや) | |
コーラス隊 | |
時 |
平家全盛の折。春、桜の盛りの頃 |
場所 |
京の都(前段は、宗盛の館。中入りは道行き。後段は、清水寺)。 |
宗盛 (衝立ての向こうにぶつぶつと)熊野……。熊野……。花は待っちゃくれんのだぞ、熊野……。おまえに見せたいのはただの桜じゃない、この俺の桜だ。俺の桜の花盛りを見せたいのだ、熊野……。
みなさん、こんばんは……。ここは京の都。わたしは今をときめく平清盛の子、宗盛だ……。はるか東の田舎は、遠江の国の、池田の宿では、遊女のなかの稼ぎ頭を、熊野と申すが、これが実に美しい女ゆえ、都へ連れてはきたものの、この春の、この花見の季節になって、田舎の母親が危篤だなどと、まったく、なにが気に入らんのか、ヘソを曲げておるのだ……。こっちがせっかく、花見の座興に連れてゆきたいと思っとる矢先に……。だれかおらんか。 太刀持ち ここにおります。 宗盛 熊野が出てきたら、知らせろ。 太刀持ち かしこまりました。
朝顔(歌) ユメノマオシキハルナレヤ (夢の間惜しき春なれや) コーラス隊(歌) はるがゆくのがもったいない
朝顔 ああ、まったく、やれやれだわ。 コーラス隊(語り) わたくしは、遠江の国は池田の宿で働いております、朝顔という女でございます。 朝顔 熊野ったら、お母さまが危篤だというのに、なんど知らせを送っても、ちっとも帰って来ない。こうなったら、あたくしが、じきじきにお迎えにのぼりましょう。(と荷をせおって)ああ、やれやれ……。
朝顔(歌) ユメノマオシキハルナレヤ コーラス隊(歌) はるがゆくのがもったいない
朝顔 (メイン舞台を目の前にして)急いだら、もう着いちゃった。ここが京の都なの……? これが熊野のいるお屋敷かしら……? ごめんください。どなたかいませんか……? ごめんください……。
コーラス隊 (音楽にのって語りあるいは歌)
朝顔 (さりげなく)熊野……。熊野……。あたしよあたし、朝顔よ……。 熊野 あらまあ、朝顔。こんな季節に、珍しい……。
熊野 それで、お母さまのご病気は、どうなの……? 朝顔 どうもこうも、もうタイヘンよ……、(と、手紙を取り出して)ホラこれ、手紙をあずかってきたわ……。 熊野 あら、お懐かしいお母さまの字。どれどれ……。(と一瞥で読んで)まあ。なんとも心もとないご様子だわ……。 朝顔 そうなのよ……。そうなのよ……。(と、泣き出さんばかり) 熊野 (手をとって)さあ、こうなったら宗盛さまのところへ、朝顔もいっしょに……。この手紙を見せて、おひ ま暇をいただけるようお願いしましょう……。
熊野 さあ、こっちよ、こっち……。だれか、だれか……。 太刀持ち だれだろう……。やや、熊野だ。熊野が来た! 熊野 そう。わたしが来たと、伝えてちょうだい。 太刀持ち はい、ただいま……。(と、宗盛に)申し上げます、ご主人さま。熊野さまがいらっしゃいました。 宗盛 (立ち上がりながら)ここへ来いと、そう言え。 太刀持ち かしこまりました……。(戻って、熊野へ)こちらへどうそ、お通りください。
熊野 ごきげんよろしゅう、宗盛さま……。じつは、母の容態が、もはや一刻の猶予もならないと、この朝顔に手紙を持たせて参りました……。 朝顔 (宗盛に手紙を差し出す) 宗盛 なんと手紙とな……。 熊野 これです、ご覧ください……。 宗盛 見るまでもない。そこでおまえが読み上げろ。 朝顔 (不穏な空気。思わず熊野の顔を見る) 熊野 (ひるむことなく受け取って、巻紙をダランと広げると)先月も同じことを言ったかもしれないけれど、今年はもう、なんだか自分が年取った朽ち木桜のような気がしてね、花咲くころまでもたないんじゃないかって、心細さに、ひと目おまえに会いたいと、老いたう
ぐ い す鶯は鳴いております。どうかどうか、ご主人さまによろしくお願い申し上げ、しばらくおひ ま暇をいただいて、帰ってきておくれ。それでなくても親子は一世かぎりの縁。もしこの世で会えなければ、おまえは孝行の道にもはずれてしまう。生きているうちにひと目でも、母はおまえに会いたくて、会いたくて……、
コーラス隊(語り) 老いぬれば、死の別れは避けがたく、ますますあなたに会いたくなる。 コーラス1 それは、その昔、在原業平の母が、都の仕事で忙しい息子に贈った歌でした。 コーラス2 この世の中に死の別れなどなければいいのに、 コーラス1 と、われも人の子、業平も、 コーラス隊(語り) ――世の中にさらぬ別れのなくもがな、 熊野 千代もと祈る人の子のため。 コーラス1 と返事を返しました。 熊野 お願いです。お暇をください……。あ ず ま東へ帰らせてください……。 宗盛 熊野よ、春は今しかないのだ。おまえのいない花見など考えられぬわ。 熊野 お言葉ですが、花はまた春になれば咲きますけれど、母の命はもういくばくもなく、これが永遠の別れとなるのです……。 宗盛 今年の花は今年きりだ。来年などあるものか……。一生のうちに、今日という日は今しかないのだ……。 熊野 あなたにとって、人の命と花の命とどちらが大事なのですか……? 宗盛 俺にとって、大事なのは今という時間だ、今日というこの日だ……。その点では、人の命も花の命も同じことよ。同じなら、悲しむより、愉しめ、熊野……。 熊野 いまはどんな愉しみも、わたしを慰めることはできない……。
宗盛 その悲しそうな顔を、勇気を出して愉しみのほうへ向けるんだ……。おまえの顔は月のようなもので、愉しみの光を受ければ照り、悲しみの影を受ければ翳る。自分の愛情にがんじがらめになるのはよして、思いきって愉しみへ身を投げるんだ。そうすれば、若いおまえの心はすぐに晴れよう……。さあ、いっしょに花見の車に乗るんだ……。 太刀持ち (奥へ)車を用意しろ!
朝顔 ご主人さま!
コーラス隊 ひびのくらしはたいくつだけど
太刀持ち (運転手となって)ご主人さま、どちらへ? 宗盛 (揺れながら)きまっておる、花の名所は清水寺だ。 熊野 (揺れながら)名も清き コーラス隊 (揺れながら)名も清き 熊野 水のまにまに来てみれば 宗盛 見ろあれを、熊野、賀茂川だ。 コーラス隊 川は音羽の山桜 熊野 それにここは東山、そう思うと、東の空さえなつかしい(と、東の空を見やる) みんな アッハッハッハッハ!
宗盛 (揺れながら、左右をキョロキョロ)四条五条の橋の上、 太刀持ち+コーラス隊 (揺れながら、左右をキョロキョロ)四条五条の橋の上、 宗盛 老いも若きも、 太刀持ち+コーラス隊 男も女も、 朝顔 まあ、色めく心に着飾って、 太刀持ち+コーラス隊 行き交う人も花ざかり。 宗盛 これぞ都の花ざかり。 みんな アッハッハッハッハ! 太刀持ち 賀茂の河原を下ってゆけば、 コーラス1 車大路(大和大路)だ、 コーラス2 六波羅密寺だ、 熊野 「あ、地蔵堂!」 コーラス隊 (手を合わせて)観音さまもおわします。 音響さん チン! 熊野 「(手を合わせて)衆生を救わん、その方便で、どうか母をお守りください」 宗盛 守ろう、守ろう、そら赤信号! 太刀持ち キキキキッキー!
みんな はやる気持ちも抑えて抑えて。
コーラス1 なにはともあれ知らぬまに、 コーラス2 愛宕の寺(珍皇寺)も過ぎまして、 太刀持ち キュキュキュキュッキュ!(と、ハンドルを切る)
コーラス隊 (体勢を戻して)六堂の辻にいでましました。 熊野 「ああ、この六堂の道は、あの世へ続くと言われた道」 コーラス1 縁起でもない、 コーラス2 ヤな感じ、 コーラス隊 心細さに鳥辺山、 宗盛 (空を仰いで)春の霞か、人焼く煙りか、 コーラス隊 (空を仰いで)カラスもカアと鳴いてます。 朝顔 (空を仰いで)いえいえ、あれは渡り鳥、 熊野 「(空を仰いで)でも北斗七星はあんなに澄んで、光っている」 コーラス隊 生きていきましょう。生きていきましょうよ。 朝顔 やがて祈りも咲くでしょう。 熊野 「ああ、そろそろ経書堂(來光寺)」 コーラス1 子を思う母の心は、昔も今も、 コーラス隊 過ぎるは、その名も子安の塔(泰安寺)。 太刀持ち そしてお次は、駐車場と。
熊野 ああ、ここから先は、降りて歩いて、清水の、観音さまも、どうぞ母をお救いください。(跪いて手を合わせる)
宗盛 だれかおらんか……? 太刀持ち (酔っぱらって)ここにおひまっす。 宗盛 熊野はどこじゃ……? 太刀持ち はて……? まだ清水の御堂でしょうか……? 宗盛 なにをしておる。早く来いと言ってこい。 太刀持ち は、ただいま。
太刀持ち おい、朝顔。花見はすっかり始まってんだぞ。ご主人さまから熊野さまに、早く来いとのご命令だ。 朝顔 ふん。わかったわよ。
朝顔 熊野、ご主人さまが、早く来いだってさ。 熊野 まあ、もう花見は始まってるの……? 朝顔 らしいね……。 熊野 そう……。では参りましょう……。(と、立ち上がる)
熊野 さあさ、皆さま、こちらへこちらへ、もっと近くへ来てくださいな……。ホラ、なんてきれいな月夜の下に、なんて陽気な桜でしょう。今宵、満開でございます。では、ひとつ歌でも歌いましょう。
(マイクを持って)心のなかにあるものは隠そうとしてもムダなこと。
コーラス(語り) それがこの世のしきたりよ、悩んでみても始まらねえ。 熊野(歌) はなをこえて
熊野 今はもう、お釈迦さまのいないこの世界、け い き ょ う じ柱橋寺の鷲のお山には雲がかかっておりますが、見渡せば、西にはこれは、雲かと見まごう初桜の、ぎ お ん ば や し祇園林やし も が わ ら下河原。はるかに南を眺めれば、なつかしいあたたかい、霞の向こう、あれはそう、ゆ や熊野権現をお移ししたい ま ぐ ま の今熊野、さらに遠くに稲荷山……。けれどやはり、花の春はこの清水でございます。祈りも千々に乱れ咲く、春の景色でございます。
(ひとりイロエ)音羽の山に、嵐山、その名に吹かれ、散る花の雪……。 コーラス(語り) (さりげなく)ああ、この悲しみをだれが知ろう……。 熊野 (思いきり)さあさ、お酌いたしましょう。さあさあ……。(と宗盛のところへ) 宗盛 (酌を受けながら)おい、熊野、舞いだ。舞いを舞え。 コーラス(語り) (さりげなく)ああ、この悲しみをだれが知ろう……。
熊野 雨です……。冷たい時雨の雨に花が散ります……。 宗盛 うん。雨だ。雨に花が散ってゆく。 熊野 憎たらしい雨……。
コーラス隊 春雨の、降るは涙か桜花、散るを惜しまぬ人やある……。散るを惜しまぬ人やある……
宗盛 (受け取って)なんだ、なんのマネだ……?(と、扇を見て、熊野の顔を見て、また扇に戻り)いかにせん都の春も惜しけれど、 熊野 馴れしあ ず ま東の花や散るらん。(と、そっぽを向く) 宗盛 なるほど。あわれなものよ……。熊野、よい花見であった。おまえにひ ま暇をとらそう。あ ず ま東へ下るがよい。 熊野 本当に……? 宗盛 本当だ。さあ、早く行け。 熊野 ああ、うれしや、うれし……。これも清水の観音さまの……。
では、皆さん、さようなら。(と、ゆっくりと去ってゆく) コーラス隊(語り) さようなら。お心の、変わらぬうちに、さようなら。 コーラス1 山を越え、はるかに都を眺めれば、 コーラス2 北へと向かう渡り鳥、 コーラス3 わたしは自由な鳥となり、 コーラス隊 都もはるかになつかしい
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註:一部、三島由紀夫の「近代能楽集」の「熊野」より台詞を、また谷川俊太郎の詩句を引用しております。なお、LABO! 上演時の楽曲・歌の楽譜についてはlabo@hello.email.ne.jpまでお問い合わせ下さい。 |