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登場人物 |
ワキ 横川の小聖 |
ワキヅレ 廷臣 | |
左大臣家の使者 | |
ツレ 照日の巫女 | |
シテ 六条の御息所 | |
コーラス隊 | |
葵の上の身代 | |
場所 |
京の都、左大臣邸内の葵上の病室。 |
廷臣 みなさん、こんばんは……。わたくしは朱雀院にお仕えする者です……。さて、困ったことに、左大臣さまの御息女、葵上さまが、なにやら物の怪に取り憑かれまして、その惨たらしいありさまときたら、どうにも手がつけられません……。これまでもいろいろと、かしこいお坊さまや偉いまじないの先生を呼んでは、ありがたい秘法に、加持祈祷、さまざまな呪術を試しましたが、いっこうに効き目がありません……。今日はここに、照日の巫女という、梓弓で占いを行う者を呼びましたので、はたして物の怪が、生霊なのか死霊なのか、せめてそれだけでも見極めようと思います。さっそく、やらせてみましょう。(巫女に)さあ、始めるんだ……。
巫女 (ゆっくりと、弓をビーン、ビーンとつま弾き始める)
(小さい声で)ア、ろっこんろっこんろっこんナ。 コーラス隊 ろっこんショウジョウ、ろっこんショウジョウ。
巫女 (だんだん大きく)ア、ろっこんろっこんろっこんナ。 コーラス隊 ろっこんショウジョウ、ろっこんショウジョウ……
巫女 来たぞ、来たぞ……。取り憑く者の、葦の原をかき分けて、葦毛の馬に乗って来たぞ……。
コーラス隊 もの思えば 沢のほたるも わが身より あくがれ出づる た ま魂かとぞ見る。
御息所 昨日の花は、今日の夢と散ってしまう……。それに気づかないのは愚かです……。生きる悲しみに、恨みの念が重なって、苦しい、わらはのこの胸の内を、すこしのあいだでも慰められればと、あの梓弓の音に惹かれてやってきました……。けれど、なんと恥ずかしい姿でしょう……。この、みっともないボロ車。なにもかも、あの賀茂のお祭りの時と同じままじゃないか……。いえ、なにをいまさら、月を眺めて泣く夜はあっても、月の光さえこの姿を映さない。あの梓弓に取り憑いて、辛い気持ちを吐き出してやろう……。
巫女 来たぞ、来たぞ、すぐそこまで……。 廷臣 どこだ、どこだ……? 御息所 (彷徨いながら)あの弓の音は、どこから聞こえるのかしら……? 巫女 いまはあそこの東屋の、扉のところを彷徨っておるが……。
御息所 (彷徨いながら)おまえたちに、わらはが見えるものか……。 巫女 いや、もうそっちではない。こっちじゃ……。 御息所 (彷徨いながら)誰でもよい、声をかけておくれ……。 巫女 違う違う、ホラそこじゃ……。
巫女 なんてことだ……、おまえたちには見えないが、アレはたしかに高貴な身分のお方だ。哀れなボロ車に乗って現れたが、いまもその車の長柄には、若い女の付き人もいて、「おいたわしや」と泣いているぞ。そういう者に、心当たりはないか……? 廷臣 いや、だいたいの想像はついた。(どこにいるのかわからない御息所に向かって)さあ、もう隠れずに、その正体を明かしなさい……。
御息所 それ娑婆電光の境には、 巫女 人生は稲妻のようにあっというま……、 御息所 恨むべき人もなく、悲しむべき身もあらざるに、 巫女 恨みも憎しみもむなしいだけなのに……、 御息所 いつさて浮かれ初めつらん。 巫女 なのにわらはの魂は、いつからこんなふうにさまよい出したのか……。
御息所 さあ、いまここに、梓弓の音に惹かれ、現れた魂を誰と思う……? 巫女 これは、六条御息所の怨霊でございます……。 御息所 おまえたちも覚えているであろう。かつて、前の皇太子ご存命のころは、わらはとても、その妃として、世間からもてはやされたものだった……。宮廷での花の宴、春には音楽会、秋には紅葉狩り、月をめで、風雅に親しみ、この世の華やかさを一身に、極めたものだった……。それが、一度落ちればあとはただ、朝顔が昼にはしぼむのも同じ運命……。それ以来、わらはの心に巣食う悲しみや、ふつふつと、ものうき野辺の早蕨の、萌え出で初めし恨みの露。その恨みを晴らすために、いまここに現れたのだ……。
御息所 思い知るがいい……。世の中の、情けは人のためならず……。人をバカにすれば、いつかその仕返しが自分にも返ってくるんだよ……。
コーラス隊 オー、オー、オー。 御息所 この身がこんなに苦しいのも、ぜんぶそなたのせいなのだ。さあ、その報いを受けるがいい……。 コーラス隊 オー、オー、オー。オー、オー、オー。 御息所 アッハッハッハ。苦しめ、苦しめ……。けれど、わらはの苦しみは、まだこんなものじゃない……。こんなものじゃない……。 コーラス隊 オー、オー、オー。オー、オー、オー。 御息所 ああ……。
御息所 こんちくしょうめ……。こんちくしょうめ……。どうしてこの憎い女を打たずにいられよう……。こんちくしょうめ……。 巫女 お止めください……。六条御息所ともあろうお方が、あまりに醜いふるまいでございます。どうか、どうか、お止めください……。 御息所 わかってる、わかっているが、どうして打たずにいられよう。こんちくしょうめ……。 巫女 どうか、どうか、お止めください……。
御息所 (苦しさに)こんちくしょうめ……。 巫女 どうか……。どうか……。 コーラス隊 オー、オー、オー。 御息所 オー、オー、オー。(苦しさに)この恨みはかつての報い……、 巫女 怒りの炎は……、 御息所 わが身を焦がす……。 巫女 思い知ったか……? 御息所 思い知れ……。思い知れ……。
コーラス隊 恨めしの心や、あら恨めしの心や。 御息所 なのに、わらはは荒れ果てた……、 コーラス隊 不毛の場所に捨てられて、
葵上の身代 (息絶えるように)ウウウウッ……。
廷臣 誰か、誰かいないか!
使者 はい、ここにいます。 廷臣 葵上さまの容態が、ますますひどくなってしまった。一刻も早く、よ か わ横川の小聖さまを呼んできてくれ。 使者 かしこまりました。
小聖 存在するすべてのものは、必ずなんらかの結果を生ずるのであり、またわれわれは、われわれの中にある正しい認識から生ずるすべてのものを、明瞭かつ判然と認識するのである。だから、この帰結として、各人は自己ならびに自己の感情を、たとえ絶対的にでないまでも、少なくとも部分的には、明瞭かつ判然と認識する力を持っていて、したがってまた、それらの感情に動かされることをより少なくする力を持っているのだ。それゆえに、われわれが特につとめなければならぬのは、おのおのの感情をできるだけ明瞭かつ判然と認識し、精神が、感情から離れて、おのずから満足するものへと向かうようにすることだ。
……そこへ来たのは誰だ? 使者 左大臣さまよりの使者でございます。このたびは、左大臣さまの御息女、葵上さまの、物の怪に取り憑かれたお姿、見るもおいたわしく、ぜひ、よ
か わ横川の小聖さまに、物の怪ち ょ う ぶ く調伏ための、ご足労を願いたい、とのことでございます。
廷臣 (小聖に寄って)ご苦労さまでございます……。 小聖 病人はどこですか? 廷臣 こちらです……。 小聖 (葵上を見て)なるほど。ではお祈りを始めましょう。 廷臣 よろしくお願いします。
小聖 神は、いかなる受動にもあらず。 コーラス隊 なまくさまんだばさらだ、なまくさまんだばさらだ……。
霊鬼 ぎゃてえ、ぎゃてえ――帰レ、帰レ――ぎゃてえ、ぎゃてえ。 コーラス隊 なまくさまんだばさらだ、なまくさまんだばさらだ……。 小聖 悪はなにものでもない。善はなにものでもない。 霊鬼 帰ルナラ今ノウチダ――ぎゃてえ、ぎゃてえ。
霊鬼 ドウシタ、ドウシタ、ボヤボヤスルナ――ぎゃてえ、ぎゃてえ。 コーラス隊 なまくさまんだばさらだ、なまくさまんだばさらだ……。 小聖 神をしんじつ愛するものは、神から愛し返されることを願うべからず、
コーラス隊 なまくさまんだばさらだ、なまくさまんだばさらだ……。 小聖 いかなるものも神を憎むは不可能なり、
霊鬼 エエイ、コザカシイワイ、コザカシイワイ。 コーラス隊 なまくさまんだばさらだ、なまくさまんだばさらだ……。 小聖 神への愛は、他人との競争にあらず、 コーラス隊 なまくさまんだばさらだ、なまくさまんだばさらだ……。 小聖 それゆえ、神への愛は、おまえの体をなにより強くつかんではなれず、ヤア! ヤア! ヤア! 小聖・コーラス隊 (クレッシェンドで)なまくさまんだばさらだ、なまくさまんだばさらだ、せんだまかろしゃな、そはたやうんたらたかんまん……! 霊鬼 オオオオオオ!
霊鬼 ……死にそうな朝。
目が覚めると鏡の中に色とりどりの仮面が集積していました。あまり晴れやかな景色なのでさみしい私がうらやましいわ、と皮肉を言うと、仮面たちは不思議そうな顔をして、君はまだ気がつかないの、というのです。気がつくって何のこと、とたずねても仮面たちは鏡の奥でくるくると踊るばかりで教えてくれません。その踊りには切ないようなまぶしいような、残酷なようでいてとても陽気なメロディーがついていて、見ているだけで身体中がとても熱くなるのです。そこはどこ? あたしも行きたい、行って一緒に踊りたい。そういうと仮面たちは言いました。ここだよ、ここに決まってるじゃないか。ここってどこよ、どこなのよ。わかりません。けどとても近い気がするの。今、なんとなくすごく近い気がするのに、でも、もうあたし眠らなくちゃ……。
コーラス隊1 つみとがのしるし天にあらわれ、 |
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註:一部に和泉式部の歌、スピノザの文章、如月小春の台詞を引用しております。なお、LABO! 上演時の楽曲・歌の楽譜についてはlabo@hello.email.ne.jpまでお問い合わせ下さい。 |