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ジョルジュ・バタイユの「眼球譚」を読む。その後、バタイユの「エロチシズム」に取りかかる。というのも、如月の「砂漠」のラストで、眼球だけの存在になるというのがどうにも理解できず、気にかかってしかたなかったからだ。バタイユはまったく無関係ではないように思う。
死といけにえとエロチシズムが、砂漠の主題の一つなのだ。だって、そこは、砂漠なのだから。
今日は沖縄戦終結の59周年なのだった。
59年前、沖縄では8月を待たずして、戦争は終っていたのだ。
ボクは、昨年、出かけたあの島尻の光景を思い出す。
ひめゆりの塔よりも、平和祈念公園よりも、ボクの気持ちを重くしたのは、あの島尻の鬱蒼とした海岸へと続く、アダンの茂みだった。それと、辺りに広がる見捨てられたような、埃っぽいサトウキビ畑だった。
沖縄の本島の南には今も、あまり海水浴場がない。それは、おだやかな海岸、砂浜が少ないからだが、それよりも、あそこが、悲しい現場として不可侵の領域になっているからのように思えた。
もし、あなたがひめゆりの塔まで足を運んだのなら、ぜひ、海岸の方まで行ってほしい。それはけっこう遠いのだ。その遠い、距離の間に、岸壁にそそり立つ岩肌と、そこに隠れ、アメリカ兵の火焔放射器で、あるいは青酸カリで、死んでいった人々の洞穴(ガマ)があるのだ。
あなたは、青い、澄んだ海岸まで、鬱蒼とした茂みを昇り、また下っていかなくてはいけない。
そして、その茂みの中に、土の中に、未だに回収されない、遺骨が、いまも眠っているのだ。
あなたは、そこで、ひとりに、なる。
どうしようもなく……。
本当に、どうしようもなく……。
あの不可思議な光景を思い出す。
沖縄には、ありありと、今も、あの戦争の傷跡が残っている。
どうしようなく……。
太陽だけが、きつく、激しい光を放っていた――。
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