2004.June

6月29日(火)

 雑誌「すばる」に連載されていた中沢さんの『僕の叔父さん―網野善彦の思い出―』が完結した。続いて出された講談社の『網野善彦を継ぐ』(こちらは中沢さんと赤坂憲雄さんの対談である)の方も先に読んでいた。

 ボクが高校生の頃から、もう20年近く、飽くことなく、中沢新一を読み続けてきたのには、そこに連綿として変わらない「どうしようもなく分かるもの」があるからで、それは自分が内奥にひそめている何か、他人にはどうにも説明できない何かをどこかでヒモ解いてくれるからで、そして、それは中沢さんが山梨出身であることと無関係ではなかったのだった。

 こんなに、自己の過去を赤裸々に(もちろん中沢流の構築はあれ)、臆面もなく告白している、中沢新一の文章はこれまでなかった。
 特に、連載第一回の始まりの、上級の日本酒のような程度の良い、なめらかな文章には驚いてしまった。こいつは本気だ、と思った。それから、取ってつけたような象徴的な甲州弁表現に微笑みつつ(深沢の七郎さんのようにはなかなかいかないね、中沢さん!)。最終回の途上では、最近ではついぞ影を潜めてしまった、あの僕のいちばん好きな「地上にひとつの場所を」で使われているような告白=紀行文調が復活しているのには、思いがけず、しみじみとしてしまった。

 彼はいつも思想を語りながら、科学や宗教や神話や現代文化のニューウェーブな事象を語りながら、同時にどこか、自我の深い物語に向かって語りかけてきたのだという秘かな事実が、ここに、叔父網野善彦への追悼という「仮構」によって、きちんと描かれているのだ。

 そこに、ボクは、どうしても、オノレにまつわる感触的な過去と物語とを、連想せずにはいられなかった。
 オノレの叔父のことや、甲州弁のことや、アナーキズムのことや風景やらが、後頭部をかすめていくのを止められなかった。

6月23日(水)

 ジョルジュ・バタイユの「眼球譚」を読む。その後、バタイユの「エロチシズム」に取りかかる。というのも、如月の「砂漠」のラストで、眼球だけの存在になるというのがどうにも理解できず、気にかかってしかたなかったからだ。バタイユはまったく無関係ではないように思う。
 死といけにえとエロチシズムが、砂漠の主題の一つなのだ。だって、そこは、砂漠なのだから。

 今日は沖縄戦終結の59周年なのだった。
 59年前、沖縄では8月を待たずして、戦争は終っていたのだ。

 ボクは、昨年、出かけたあの島尻の光景を思い出す。
 ひめゆりの塔よりも、平和祈念公園よりも、ボクの気持ちを重くしたのは、あの島尻の鬱蒼とした海岸へと続く、アダンの茂みだった。それと、辺りに広がる見捨てられたような、埃っぽいサトウキビ畑だった。
 沖縄の本島の南には今も、あまり海水浴場がない。それは、おだやかな海岸、砂浜が少ないからだが、それよりも、あそこが、悲しい現場として不可侵の領域になっているからのように思えた。
 もし、あなたがひめゆりの塔まで足を運んだのなら、ぜひ、海岸の方まで行ってほしい。それはけっこう遠いのだ。その遠い、距離の間に、岸壁にそそり立つ岩肌と、そこに隠れ、アメリカ兵の火焔放射器で、あるいは青酸カリで、死んでいった人々の洞穴(ガマ)があるのだ。

 あなたは、青い、澄んだ海岸まで、鬱蒼とした茂みを昇り、また下っていかなくてはいけない。
 そして、その茂みの中に、土の中に、未だに回収されない、遺骨が、いまも眠っているのだ。

 あなたは、そこで、ひとりに、なる。

 どうしようもなく……。
 本当に、どうしようもなく……。

 あの不可思議な光景を思い出す。

 沖縄には、ありありと、今も、あの戦争の傷跡が残っている。
 どうしようなく……。

 太陽だけが、きつく、激しい光を放っていた――。

6月14日(月)

5月から6月へかけて読んだ本――

「在日」姜尚中/著 講談社
「日本霊異記」平凡社
「日本語と日本人の心」大江健三郎・河合隼雄・谷川俊太郎/著 岩波文庫
「海と列島の中世」網野善彦/著 講談社学術文庫
「廃虚の歩き方―探索編」イースト・プレス
「廃虚ノスタルジア」二見書房
「無縁・公界・楽」網野善彦/著 平凡社ライブラリー
「悪党的思考」中沢新一/著 平凡社

 廃虚関係の本は写真集なので読んだって感じではない。写真集なら、さらにたくさんのものを眺めたのだ。「ロスコー壁画」の本はいつも眺めている。それとクレタ島の神話。なぜか、一日のうちにいろいろなところから、ミノタウロスからのメッセージが僕に届いた日があった。牛頭男が、イニシエーションの人喰い王のことだとは気が付かなかった。ピカソのコトを思う。
 僕は、昔読んだ本を何度も読むタイプの読書家だ。
 今は網野さんからインスパイアーされたコトが、さまざまな方向へ広がっている。はじめてレヴィ・ストロースを本格的に手にする。これは手強い。ソシュールをまた読まなければならない。シニフィエ/シニフィアン!

 でもこうしてみると芝居の本はほとんどないなー。
 でも、すべてがそこに関わっているのだ。

 久し振りに、宮沢クンの「沖縄に降る雪」を聴く。

――月が満ちるたびに あなたを思い出す

 そう。沖縄があそこに在るように。そのことを思い出すように、僕は芝居のことをいつも思い出すのだ。

6月16日(水)

 ユーロ2004に興奮しつつ幻滅している昨今だが――。

 未開の人々がはじめてサッカーを教えられたとき、彼らは、両陣営が同じように勝つまで試合を続けた、とレヴィ・ストロースはいう。
 イーブンな試合開始状態から、勝敗が決する時までの過程を現代スポーツの本質というなら、不均衡な状態にある両者が、イーブンになるまで、平衡を取り戻すまで、えんえんと試合をくり返す、そういうふうに競技を利用する人々が、かつて地球上にいたのだ。

 それが競技と儀礼のちがいだ。
 とレヴィ・ストロースはいう。
 それは、取りもなおさず、スポーツと演劇の違いではないか?

 不均衡な状態にあるものを、均衡へともたらす作用。

 そのためには、現代では、一つのルールから、もう一つのルールへと、さまざまに「国境」を越えていかなくてはならない。
 あらゆる競争主義を越えていかなくてはならないのだ。


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