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なぜ『ガラスの動物園』なのか?
それに答えることは簡単ではない。
ただ、言えるのは、僕らはいつになっても「青春」のあの輝きを忘れることはできないのだ、という、そんな思いがあって、ただ、ただ、このささやかな、やさしい家族劇に惹かれてしまうのだ。
もうだらだらと15年も芝居を続けてきて、夢の何が実現したというわけでもないのに、少しばかりこなれてしまったというだけで、あの頃の夢が翳りかけている。そんな自分に、ここで、喝を入れたいのだ。
ときどき、むしょうに、どこかここではない場所へ行きたい。
懐かしい、哀しい、また陽気な音楽が、そんな衝動へ、僕を誘う。
そうするには、年とともに、踏み倒さなければならないものが増えてしまう。捨てなければならない。傷つけなければならない。そうして負った、想像不可能な傷の深さを引き受けられるのか?
そんなコトができるのは、むしょうに青春であるかぎりだ。
僕はただ、取り返しのつかないことをしたいノダ。
最近は、学生たちがちぢこまってしまって、青春なんて心の季節がなくなってしまったようだ。夢は、衝動になって、潜在的に心の奥底にあるのに、どこへ向かってよいのかわからない。ロマンの向かう、方向が見えないような気がする。
就職か、引きこもりか、あるいは殺人か売春か?
そんな時代なのか、僕のロマンの力も、もう息も絶え絶えだ。
1930年代のアメリカに、なにがあったのか正確には知らない。しかし、こうして、「ガラスの動物園」を取り組みながら思うことは、この世界に生きる若者たちには、今よりもっとたくさんの選択肢と、今と同じような病理が(すでに)あったということだ。
ロマンを求めて船乗りになるか?
技術と金を手に入れて成り上がるか?
それとも、小さなガラスの世界に閉じこもって大人になるのを拒否するか?
そして、くだかれたガラスの破片を集めるのは、いつも母親たちなのだ。
(なぜ『ガラスの動物園』なのか? その1)
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