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ついに、沖縄へ出かけることに決めた。決めて、有明から出る船のチケットを取った。沖縄本島までは44時間だ。誰にいっても「バカじゃないの?」という口ぶりをされる。でも僕はあそこまでの距離を実地で感じで見たかったのだ。目的地だけが旅ではない。旅程もまたもちろん、旅なのだから。
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長崎の12歳の新中学生が4歳の男の子をビルから突き落とした事件で、またもや、被害者家族の痛ましいコメントや、政治家の打算みえみえの非常識コメントが並んだ。
*島根県の澄田信義知事は「犯罪の中でも人の命を奪う殺人は別次元だ。やった人間が何歳であろうと、少年法ではなく刑法で対処すべきだ」と言った。
*首相の小泉は(少年法の厳罰化や刑法改正については)「この事件が起きたからすぐ、ということではないでしょう。まだはっきりしたことわかりませんし」と言った。
*青少年育成推進本部の副本部長の鴻池防災担当相は「厳しい罰則をつくるべきだ。(罪を犯した少年の)親は市中引き回しのうえ打つ首にすればいい」と言った。
*そして被害者の保護者のコメント。「心が煮えくりかえり、中学生といえども極刑に処してもらいたい心境です」「また最後になりますが、このような事件で加害者が保護され、被害者が苦しむことのないよう、少年法が改正されることを願います」
――以上、すべて(堂々たる)朝日新聞の記事より。
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そして、僕は思う。少年法とは何なのかと?
(よくわかる少年法改正
or 少年法関連NEWS)
本棚のポケット六法(平成6年版)の「少年法」の冒頭にはこうある。
「第1章 総則/第1条 この法律は、少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して性格の矯正および環境の調整に関する保護処分を行うとともに、少年および少年の福祉を害する成人の刑事事件について特別の措置を講ずることを目的とする」
しかし、2000年の少年法改正では「刑事処分可能年齢を16歳から14歳に引き下げる」ことになった。それをさらに12歳にまで引き下げろと言うのか?
改正以前でも刑法41条には、こうある、
「第41条 【責任年齢】14歳ニ満タサル者ノ行為ハ之ヲ罰セス」
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被害者の家族たちの辛さはなかなかに察せられるつもりだ。その個人的な感情も理解できる。また、被害者が、平静であったなら、そうあったであろう権利をフツーに主張するのがいかにしんどいかということも少しは想像できるつもりだ。
しかし、それでも、上記のような政治家たちの発言は、とんでもない「失言」だと僕は言わざるをえない。あえて、そういう立場に立つ。
被害者の家族の感情はおさまらないだろう。
しかし、少年には、大人になるまでの間に、自分の過ちを正し、より良く生きていくために立ち直るための権利があるはずだ。
これは、感情論ではない。感情的な納得を望めるものではない。人の感情を慰めるものではないだろう。なぜなら「権利」とは「理念」であり、法律は理念に則っていなければならず、理念は、万人の「感情」にとって割り切れるものはないからだ。
それが民主主義である以上、押さえなければいけない物事のベースなのだから。
世には相反する利害や感情のもつれがある。対立がある。そうした対立を受けて、かつ客観的であるためには「感情」は無意味だ。そこには、厳かな「理念」がなければどうしたって、にっちもさっちもいかないのだから。
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こうした事件が起こるたびに、僕は、ショックを受けるとともに、被害者のコメントを堂々と発表するマスコミの浅はかさにいつも暗い気持ちになる。報道は、ただいたづらに、世論の同情を煽るだけだ。無意味に事件をおおげさにしているようにも思える。
当事者=被害者の身辺の痛みと、世論のショックは、これはまったく違うものだ。世間はあっという間に忘れていつも安らかに眠るだろうが、当事者たちは、(被害者の家族も加害者の家族も)もう二度と、同じ人生へは戻れないのだから。
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僕は、自分が中学1年生だった頃のことを思い出そうとしてみた。
中学という世界に飛び込んだばかりの時だ。初めて、中間テストがあって、期末テストがあって、小学校とは明らかに違うシステム。自分がこうして、これから、定期的にテストによって、数値的な評価の荒波を受け、それを乗り越えなければならないのかと、無意識のうちに愕然としたような気がする。それが、大人への道なのかと思って、なんだか暗澹としたかもしれない。
12歳の僕は、僕も、4歳の無邪気な「幸せな」男の子に嫉妬して、彼を連れ出して、そして「言うことを聞かないから」突き飛ばしていたかもしれない、と思う。彼は僕だったかもしれないと思うのだ。
あの、暗澹たる思いはたしかにあったのだから……。
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そういう僕も、自分の家族を持っていてもいい年齢になった。
僕に幼い子供がいれば、殺されるかもしれない。
と、同時に成長過程の中で、他人の子供を殺すかもしれない。
家族は、もちろん、大切だ。
個人にとって、個人の人生にとってそこは、故郷の波のように、くり返す人生の根拠地だ。そこからしか人は生まれないのだから。
しかし、世界を客観的に見る視点は、家族大切の想いからだけは出てこない。日常生活の実感からは導き出されないのだ。日々の人生は、あまりに経済的な幸不幸=損得勘定に左右されているが、経済というものは、社会全体で見れば、幸せな人がいればその分不幸な人がどこかにいる、儲けた人がいればその分損した人がいるようなそういうものなのだ。そんな波間に漂う小舟なのだ。
客観的に見れば、社会全体(地球全体)の富の量は変わっていないのだ。
(先進国の景気の背後では、どこか南の第三世界では人々が搾取されているのだから……)
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沖縄の人々にとって「独立」という理念は現実的な選択だ。今もこれからも。(しかしやはり経済的な問題がそこにマッタをかける。グローバライゼーションの波に沈んで消えていこうとしている、南大平洋の小国のように……)
沖縄の人々にとって、米軍相手の訴訟は、理不尽の極みなのだ。そこには、感情論も理念もない「間違った」現実だけがある。
被害者の感情は、たんなる感情ではなく、「世界はこうあるべきなのに」という「別次元」の理念へと直結する。
しかし、彼らの感情はいかに理念と直結しようと、「安保」によって粉砕される。政府と外務省と、アメリカ政府との間の「国際問題」によってアッサリと無視されてしまう。
そこでは、ホントウに、「理念」的なものが現実であるのだ。
だから、いま、僕は沖縄を目指す――。
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