2003.June

6月20日(金)

 35年も日常生活を過ごしてきて、僕は、まだまだ日常生活のシロウトだな、と思ってしまう。このところ、日常生活を真剣に生きる、ということを少し考えるのだが、ダメだ、僕は手を抜いている。僕は幼稚だ。甘ちゃんのボウヤだ。ガキだ。青くさい。
 それだけ人生は難しい、ということなのだが。
 まわりを見渡すと、女性というのは、その点、日常生活のプロだ。自分に妥協しない。尊敬に値するよ。

 純粋贈与。ピュア・ギフト。
 ――のことを考えさせられていて、そう、実感した。

 毎日、いろんな人と会う。毎度、同じ顔と会う。
 言葉を交わす。交わさない。目を合わせる。すれ違う。その気配を感じる。想いを感じる。想いは、言葉や息を媒介し、気配となり、幽霊となって、その部屋に漂う。
 こうしたことの一切すべてがコミュニケーションであり、日本語で言うと「やり取り」だ。
 すなわち贈り物の交換だ。
 僕らはいつも、常に何かをもらって与えて生きている。そして、そのことを忘れている……。

 だから、純粋贈与。ピュア・ギフト。

 等価交換を厳守する人がいる。そういう関係がある。
 もっと親密で、価値を越えたプレゼントを贈りたいという関係がある。
 見返りを求める。求めない。求めないのが「純粋贈与=ピュア・ギフト」というわけだが、なかなかそんなことはできない。にもかかわらず、僕らは(特にいちばん好きな人に向かって)その「純粋贈与=ピュア・ギフト」を求めてしまう。自分を認めてほしいと思ってしまう。

 けっきょく日常生活はそんなふうにできあがっている。
 これが、なかなか、やっかいだ。

6月19日(木)

 天啓というべきか。なんとわなく過ごす毎日の中で、梅雨の合間の晴天のように、「佳き日」がやってくることがある。
 朝、目を覚ますと、夏が来た! そして……、日本代表が快勝した翌日に。「ガラスの動物園」という時間の目標が決まった翌日に、僕は、晴れ間の暑あつしい、神保町の交差点を歩きながら、或日、「佳き日」がやってくることがあることを、知った。
 体から、力が抜けて、軽くなる。

 激しい陽射しの下で、燃え上がる緑の中で、夏は、人を圧倒的に凌駕する。
 自然の力が、人の営みの空しさと愚かさと無力を「知れ!」という。
 戦争。空襲。侵略。集団自決。終戦。敗戦。占領。基地。地位協定。平和。

 「死ぬのにもってこいの日」

 南へ。
 やはり、なぜか、物事が偶然に重なって、ひとつの方向を示しているよ。
 南へ。海へ。
 未知の、既知の世界へと誘うよ。
 咲いてしぼむ花のように、夏を過ごしたいと思うよ。

 今夜の東京は風が吹く。ここちいい風が吹いている。

6月16日(月)

 あるイメージ、ある観念、ある思想、何と言ってもいいのだが、
 けっして強烈でなく、わかりやすくもなく、しかし、
 シンプルに心を震わせ、体を明るくし、わかりやすく脳天を解放させるような、そういうあるイメージ、ある観念、ある思想を、この世界に開示してみせる仕事を、称して、全面的に芸術と呼ぼう。
 部屋を出て、街を出て、山を越え、川を遡り、ときは海も渡り、大陸を横断して、そうして、また机の前に戻ってくるころに満ちている、あるイメージ、ある観念、ある思想を、しっかりと感じられるようにこの世に生み出す仕事を、思い切りハッキリと、芸術と呼ぼう。

 そのイメージ、その観念、その思想が、どこへ向かうのか、どこへ向かっているのか、それはしばらく問わないでいよう。
 大切なのは、明るいこと、シンプルなこと、まるで夜空の月のようにわかりやすいこと。
 幻想だってかまわない。でも、それは池に映った月じゃない。さざ波にこわれる幻影じゃない。もっと明るくて、シンプルで、しっかりと感じられる(ようになる)ものなのだ。

 やさしいもの?

 そういってもいいよ。それは、これ以上ないくらい優しいものに触れているから。
あらゆる嫉妬、あらゆる焦燥、あらゆる劣等感、あらゆる不完全性、あらゆる悲しみ、あらゆるルサンチマンから、遠く、遠く離れているから。
 そう呼んでもいい。
 慈悲? そうかもしれない。
 恩寵? そうかもしれない。

 そういうものと関わりたい。

 そんな、あるイメージ、そんな、ある観念、そんな、ある思想が、在る、のだ。
 いや、やってくるんだな。あるとき、ふと、待って、待って、待ち焦がれて、焦がれたことも忘れた頃に。まるで、恋のように。
 でも、それは消えない。神様みたいなもんなんだな。

 Es gibt hier mich.
 私がここに与えられる。私がここに在る。

6月16日(月)

 日常とともにリリシズムは変化し、僕の今年の夏は、とうとう沖縄に取り憑かれてしまったようだ。
 沖縄が呼んでいるのだ。なぜだ?

今日も見渡すかぎりに
みどりの波がうねる
夏の陽ざしのなかで

 一つにはすっかり宮沢和史的世界にハマッてしまったせいだ。
 彼がいかにメロディのオリジナリティに悩み、沖縄で「ひめゆりの塔」に向かい、そうして「島唄」を生み出すに至ったかという幻想的伝説を逸話として聞き及び、それが僕の胸を離れない。
 いあや、マジで、ホントに沖縄に行きたい!
 (まだ行ったことがないのだ! はははは)

昔海のむこうから
いくさがやってきた
夏の陽ざしのなかで

 もう一つは、いまは思考の休火山となっている「ペリクリーズ」のことがある。テーマは海なのだ。悲劇と再生の物語。ゆらゆら、ゆらゆら、ゆらゆら、なんか、ずっと揺られているような感覚が、(これまた)「ペリクリーズ」を沖縄へ繋ぐ。
 少なくとも「ペリクリーズ」の音楽はチャンプルーズ。これだ!

あの日鉄の雨に打たれ
父は死んでいった
夏の陽ざしのなかで

 夏の日射し。やわらかい波音。椰子の木陰。
 少年の霊魂が現れて、僕を誘う。
 「おかあさん、ぼくは、死んでしまったけれど、毎年、この日にだけは、こうして、あなたの元へあらわれます」
 振り向けば、水平線の彼方へゆっくりと日が沈んでゆく。

知らないはずの父の手に
抱かれた夢を見た
夏の陽ざしのなかで

 南へ。豊かで貧しい南へ。
 トム・ウィングフィールドは、詩集を片手に。
 ペリクリーズは、忌わしい運命を胸に。
 そして僕は……?

6月12日(木)

 コラムに書くほどでもないと思ったので、日記にと思ったら、今月に入ってまったく更新されていなかったのだった。
 僕が書きたいのは、東京都現代美術館の常設展にある「サム・フランシスの部屋」のことで、現在、東京都内になる最も奇跡のような空間の一つだろうと思う。吹き抜けの広々とした部屋の四面を、サムの大画面が覆っている。それが部屋全体をホントに透き通った、一つの宇宙に仕立てているのだ。オルセーのモネの「睡蓮の部屋」にも匹敵する充実度だ。
 ぜひ、出かけてみて欲しいと思う。
 芸術のもつ普遍的な力(ああ、僕もいつかそれを手に入れたい!)、それがどんなものなのか、よくわかるから。


《タイアイシャ》1986年 アクリル/カンヴァス

 自由奔放に、飛び交い、疾駆する色彩とその飛沫のなかに、この宇宙に関するあらゆ情報が受胎している。ヒトゲノムの解読が進む現代に、もっともふさわしい宇宙的な絵画だというふうに、僕は夢想する。
 ああ、この絵の前で、芝居を打ってみたいと思う。即興的に、そのリズムにインスパイアーされながら、役者はどんな体で、どんな台詞を吐くだろう。

 「ガラスの動物園」の翻訳・台本作成作業に移行している。
 テネシーの世界を、サムのように、自由に、生き生きと、描けたらと思う。
 僕は夢想する。リリックに!

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