2003.May

5月25日(日)

 セリエAの最終節、パルマのエンボリ戦を、TVで見ようかどうか迷って、見て良かったと思う。なにしろ、今季最終節なのだ。ナカタの走っている姿を見るのは、やはり元気を覚える。幻想だが、まあ、一つくらいそういうヴィジュアル幻想も必要だろう。

 さて、来月へかけて、見たい舞台が目白押しだ。パグリックシアターの「エレファント・バニッシュ」、唐さんの「泥人魚」、6月の歌舞伎座、今週の山の手事情社も案内が来たので、期待したい。ケラさんのミュージカルも気になる(なんとムーンライダースが演奏出演!)。こんなに目白が鳴くのも珍しい。思えば、学生時代はよく見たもんだ。週に3回4回と、ハシゴなんてのも当たり前、まあ、当時の小劇場ブームで、面白ろそうな舞台がみんな安かったから良かったんだけど。でもつまらない学生芝居もよく行ったなあ。やっぱり見ないとダメだなあ。そういえば、ロンドンにいた時もよく見たしなあ。人間殊勝にならないといかんね。劇場にいるだけで、普段とは違う頭脳と感性と下半身が動き出すんだから、基本的にはつまんなくてもOKなんだよね、ボクは。ただ、お金がね。あと、一人で行くのがさびしくなっているのもあるかしらん。
 国も、劇場保護と劇団保護のための観劇増進法とか作ればいいのに。今年は何本見たから、何割減税とか、ね。

 観劇の感想とか、みんなもBBSに書いてくれるといいなあ〜。

 ただ、今月は、小犬の老化がいきなり進んだようで、心配。彼は夏をちゃんと乗り切れるのだろうか?

 「ペリクリーズ」、一幕四場まで進む。

5月22日(木)

「ペリクリーズ」の翻訳作業に入る。
 出版されたばかりの松岡訳に、小田島訳に、原典を並べ、「ふ〜む」とやはり、頭を抱える。おのれに才能があるわけではない、が、しかし日本のシェークスピアの翻訳はこれでいいのか! とやはり思わねばならない。松岡和子女史にはオリジナリティはない、ただオタク的=大学センセイ的な知識があるだけだ、多くは小田島センセイの恩恵を蒙っている。して、その小田島センセイは、論理的すぎて、詩人ではない。しかし、シェークスピアは徹頭徹尾に詩人だ。そこにあるのは、論理ではない。多くのシェークスピア学の学術論文など無視しても、そこにあるままの、直訳をすればいいのと思う。直訳すれば、分量は今の、3分の1になるだろう。シェークスピアがくどいとか、理屈っぽいとかいわれることはもっと減るだろう。

 この季節、夢から覚めるように、夜が明けると、鳥たちが白々とざわめき出す。Londonの郊外ではもっとたくさんの鳥が鳴きわめいたものだ。まるで、高原の朝のように。

 British Rockにはまる。Primal Sreameはすごい。現代的狂気とアジテーション。シェークスピア的にすごい!

5月19日(月)

 まったく、日々さまざまな出来事があるのだが、今日は、帰りがけ、駅から家まで歩きながら、ウシガエルを踏んだ。ぬるっとして、つるっと滑って、三四歩歩いてから「おや」と思って振り返ると、暗闇の中で、デカいボタ餅のような影がひくひくやっている。たらりと冷や汗が流れて、ボクは思わず声を出して謝ってしまったのだった。踏みつぶさずにはすんだが、奴が無傷かどうか、確かめる勇気がなく。なんとなく色んなことにこっちも傷ついてしまったのだった。
 今日は一日中がそんな感じだった。足元を掬われっぱなしで。

 突然の地震のように、人は、当たり前と思っている足場が脆いと気づくと、揺さぶられると、やはり他人より自分だと、狭い殻に幽閉されてしまう。天災には不運を感じ、人災には陰謀を感じて、よからぬ、ありもしない妄想に頭の中はさいなまれるばかりだ。大好きなあの子のことなどどこへやらだ。おのが身がいちばん心配心配。
 そこで、それでも自分で傷つくのは、あのときなぜ、引き返して、あの暗闇で、あのウシガエルを拾ってやらなかったのか、というおのれの勇気のなさだ。
 結構、俺とはそれほどの男かと思う。しおれてしまう。
 誤魔化しとは知りつつも、一つの公演に向かって生きる。そのような時間の中にいないときには、日常はぶよぶよと、確信のないままに、横滑りに滑って、ただ堕ちていくだけの洞窟の労働だ。

「ペリクリーズ」――シェークスピア最後期のいわゆるロマンス劇という作品。何がロマンス劇なのかぴんと来なかったが、少しずつわかりかける。それは、穢れた時間のよどみから、生き生きとした活力を取り戻すための、死と再生の物語なのだと。
「良きものは古いほど良し」と、冒頭で中世の詩人ガウアが観客に語りかける。
 主人への忠誠。親への孝行。臣民への責任と配慮。自然への畏怖。名誉と誇り。処女への憧憬。こうした、今は徹底的に失われた、古き良きコンセプトへの回帰がいま必要だ。回帰そのものというよりも、回帰へと旅立つ旅程を生きることが、演劇には可能ではないか。
 遠くへ遠くへと旅立つ時間が必要だ。

「良きものは古いほど良し」
 愛は進化しない。
 われわれの愚かさと迷いが進化しないのと同じように。

*   *   *

 ネガティブな、どうにもならない情動に取り憑かれているとき、それが深く、静かな情動であっても、嵐の中では人は、その情動がどこからやってきたのか、正確には知る由もないのだ。
 揺れに揺れる波間の中で、船べりにしがみつきながら、僕らは、ただ嵐が過ぎ去るのを待つしかないのか?
 もちろん、こちらから、船を出て、旅をやめることもできるのだが、それもまた人生にとっては幻想にすぎず。
 それでも、明日はどこかの国の岸辺に辿りつくのだろうと、思って、目を閉じるのだ――。

5月7日(水)

 突然だが(というのも、この不定期すぎる日記のことだが)、歌舞伎400周年らしい。で、というわけではないが、これがけっこうハマっている毎日である。といっても見るのは程々に、脚本を上演できるものとして読んでいるのだ。
 なにより歌舞伎の良いところは、馬鹿馬鹿しいところと高尚なところが渾然一体となっているあたりで、ほとんど最高の芸術とマンガやサブカルチャーの間に境がないのだ。というと現代ではすぐに村上隆氏&ルイ・ヴィトンなどの仕事を思い浮かべるが、まあ、そういう時代なのだと思う。日本画や歌舞伎から、現代のアニメまではひと繋がりなのだ。それが今世界で受けているというワケ。
 毎日、黙阿弥や南北を読む。江戸趣味もあるかな。
 こんな台詞を役者に吐かせてみってえなあ。歌舞伎役者だけに任せておくのはもってねえ。

皐月「済むも済まぬもござんせぬ、おまえに一生連れ添えば楽のできぬ私の身体、苦労するのは寿命の毒、襟か裾かは知らねども、行き丈揃うた星影さんに、この身を任して一生涯、楽に暮すがこの身の得、脇目で見たら道知らず、義理知らずとも思わんしょうが、そこが思案のほかのとやら、ただ何事もこの金ゆえ。これを手切れにさっぱりと、切れる心になったれば、この末お前の顔見ゆるも、今日を限りと飛鳥川、淵瀬と替る世のならい、あい、勤めのならいでござんすわいな」

 ホントは好きで好きでたまらぬものを、本心いつわる、花魁の、愛想尽かしの台詞でごじゃる。

五郎「いいや、入らねえ、ほしくねえ、なくてならねえこの金も手切れと聞いちゃあ入らねえわ」

 ああ、意地はる男の哀れさよ。
 う〜ん、歌舞伎、やりてえ〜。

5月1日(木)

《運命はベールに包まれ
 誰にも解けぬ謎を残して愛を間引く》

 と、朝、いきなり、京王線が全駅禁煙になる。
 ガッデム!(JR以外の私鉄全線がそうだったらしい)
 ショックに打ちひしがれる。朝、この駅で一服、というのがボクの朝のリズムだったからだが、それよりなんとも納得できないのは、行政のやり口じゃあないか! いったい誰が決めたのか?

 「健康ウンチャラ防止法」の施行に合わせてということらしいが、バカバカしいにもほどがある。なんで、個人の健康のことまで、法律に云々されなければならないのだ。しかも、すぐに分かることだが、実際の問題は「健康」のことではないのだ。喫煙という行為にまつわる「マナー」の問題ではないか?
 あるいは、現在、世界中でアメリカだけで盛り上がっている、喫煙へのバッシング運動への追従にすぎないのではないか? またもやアメリカか? 堕ちたる、非道の帝国アメリカか? くだらない。
 いずれにせよ、昨今、誰も彼もみな、法律を信用しすぎている、と思うのだ。それが愚かだと思うのだ。

 そう思いつつ、帰宅の電車の中で朝日の夕刊を読んで、目からウロコが落ちた。宮台真治氏の憲法に関するレポートである。
 「ニホン人は、憲法というものの原則的な理念をいまだ理解していない」
 というのが、このレポートの一つの主題なのだが、確かに、われわれは法律と憲法との役割の違いをスマートに説明できるだろうか? それゆえに、このレポートは、おそらく一読にはピンとはわからないだろうが、しかし、宮台氏の論点はいたって平明であり、事態の奥深い真実を衝いているのだ。
 でもって、今日のボクの話題に即して、部分だけをピックアップすれば、次の一文に尽きる。

――第三に、(憲法)第19条「思想・良心の自由」が規定する「法と道徳の分離」の原則の無理解が横行する。法は、人権保護目的を超えて、道徳を命令してはならず、道徳に中立な法の下、市民同士が何が道徳的かをめぐるコミュニケーションをすることのみを許容するという原則だ。

 「法と道徳の分離」――この事実に、ボクははたと目を開かれた思いなのだ。そうなのだ。法律と道徳とは、そもそも、水と油のように違うものなのだ。道徳的な規定を、すべて明文法化することが間違いなのだ。それ自体が憲法違反なのだ!
 なぜそうなのか。法律と道徳にどんな違いがあるのか。そこが、1995年以来の日本、または、9.11以来のアメリカにはわからなくなっているところなのだが、つまり、自由=人権の保障ということだ。

《人生をもう一度 やり直したとしても
 同じ道を歩いて 君に出会うだろう》

 法律はけっして「100%正しい」ものではない。
 なぜなら、どんなに有効な効力をもつ法律でも、必ず、人の自由を奪うからだ。自由とともに、人と人との信頼関係を破壊するからだ。なぜなら、法律は「(国民の中に)どうにも信用できない人がいる!」だから、つくりましたよ、という意味合いを必ず含意しているからだ。
 そして、外部より、人を強制し、脅し、脅迫することで、命令を実行させるのが法律だからなのだ。
 同じ行為でも、たとえば駅のホームを喫煙を遠慮するという行為でも、それが道徳的な自発心から起こった場合と、法律によって外圧的に強要された場合とでは、同じ行為でも、まったく価値観は違う。道徳はわれわれの自由を活かすが、法律はそれを殺すのだ。道徳によってわれわれは生き、法律によってわれわれは殺されるのだ。
 そのことを見極めて、謳ったのが、憲法の「法と道徳の分離」という条文なのなら、その意義を、ついに、われわれは失ってしまったということだ。
 「言論の自由」「表現の自由」に先駆けて、われわれは、ますます「道徳の自由」を失っているのだ。正確に云えば、「道徳的判断の自由」をだ。

 駅のホームで、路上で、喫煙すべきか否か、その判断をする自由を、ついに、われわれは失ってしまったのだ……。

 (いずれにせよ、この問題だけでなく、さまざまな重要な問題提起を、宮台氏の論文は含んでいる。必読。再読。再々読すべし)

 宮沢和史のソロベストアルバムを買う。
 1曲目の「抜殻」をオートリバースで聞く。聞きまくる。

《明日は秋になるだろう
 抜け殻だけを窓辺に残して――》

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