《運命はベールに包まれ
誰にも解けぬ謎を残して愛を間引く》
と、朝、いきなり、京王線が全駅禁煙になる。
ガッデム!(JR以外の私鉄全線がそうだったらしい)
ショックに打ちひしがれる。朝、この駅で一服、というのがボクの朝のリズムだったからだが、それよりなんとも納得できないのは、行政のやり口じゃあないか!
いったい誰が決めたのか?
「健康ウンチャラ防止法」の施行に合わせてということらしいが、バカバカしいにもほどがある。なんで、個人の健康のことまで、法律に云々されなければならないのだ。しかも、すぐに分かることだが、実際の問題は「健康」のことではないのだ。喫煙という行為にまつわる「マナー」の問題ではないか?
あるいは、現在、世界中でアメリカだけで盛り上がっている、喫煙へのバッシング運動への追従にすぎないのではないか? またもやアメリカか?
堕ちたる、非道の帝国アメリカか? くだらない。
いずれにせよ、昨今、誰も彼もみな、法律を信用しすぎている、と思うのだ。それが愚かだと思うのだ。
そう思いつつ、帰宅の電車の中で朝日の夕刊を読んで、目からウロコが落ちた。宮台真治氏の憲法に関するレポートである。
「ニホン人は、憲法というものの原則的な理念をいまだ理解していない」
というのが、このレポートの一つの主題なのだが、確かに、われわれは法律と憲法との役割の違いをスマートに説明できるだろうか?
それゆえに、このレポートは、おそらく一読にはピンとはわからないだろうが、しかし、宮台氏の論点はいたって平明であり、事態の奥深い真実を衝いているのだ。
でもって、今日のボクの話題に即して、部分だけをピックアップすれば、次の一文に尽きる。
――第三に、(憲法)第19条「思想・良心の自由」が規定する「法と道徳の分離」の原則の無理解が横行する。法は、人権保護目的を超えて、道徳を命令してはならず、道徳に中立な法の下、市民同士が何が道徳的かをめぐるコミュニケーションをすることのみを許容するという原則だ。
「法と道徳の分離」――この事実に、ボクははたと目を開かれた思いなのだ。そうなのだ。法律と道徳とは、そもそも、水と油のように違うものなのだ。道徳的な規定を、すべて明文法化することが間違いなのだ。それ自体が憲法違反なのだ!
なぜそうなのか。法律と道徳にどんな違いがあるのか。そこが、1995年以来の日本、または、9.11以来のアメリカにはわからなくなっているところなのだが、つまり、自由=人権の保障ということだ。
《人生をもう一度 やり直したとしても
同じ道を歩いて 君に出会うだろう》
法律はけっして「100%正しい」ものではない。
なぜなら、どんなに有効な効力をもつ法律でも、必ず、人の自由を奪うからだ。自由とともに、人と人との信頼関係を破壊するからだ。なぜなら、法律は「(国民の中に)どうにも信用できない人がいる!」だから、つくりましたよ、という意味合いを必ず含意しているからだ。
そして、外部より、人を強制し、脅し、脅迫することで、命令を実行させるのが法律だからなのだ。
同じ行為でも、たとえば駅のホームを喫煙を遠慮するという行為でも、それが道徳的な自発心から起こった場合と、法律によって外圧的に強要された場合とでは、同じ行為でも、まったく価値観は違う。道徳はわれわれの自由を活かすが、法律はそれを殺すのだ。道徳によってわれわれは生き、法律によってわれわれは殺されるのだ。
そのことを見極めて、謳ったのが、憲法の「法と道徳の分離」という条文なのなら、その意義を、ついに、われわれは失ってしまったということだ。
「言論の自由」「表現の自由」に先駆けて、われわれは、ますます「道徳の自由」を失っているのだ。正確に云えば、「道徳的判断の自由」をだ。
駅のホームで、路上で、喫煙すべきか否か、その判断をする自由を、ついに、われわれは失ってしまったのだ……。
(いずれにせよ、この問題だけでなく、さまざまな重要な問題提起を、宮台氏の論文は含んでいる。必読。再読。再々読すべし)
宮沢和史のソロベストアルバムを買う。
1曲目の「抜殻」をオートリバースで聞く。聞きまくる。
《明日は秋になるだろう
抜け殻だけを窓辺に残して――》
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