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本格的にテネシー・ウィリアムズと取り組んで分かったコト。
テネシーは、自分の過去を、生皮を剥ぐようにして、物語に紡いだために、まるで外科医の報告書のようにリアルに人間の心理をえぐっているのだということ。そこへ立ち会うには、演技は演技であるコトを超えるところへ進まなければならなかったのだというコト。
とりわけ、テネシー・ウィリアムズと取り組むときには、あの繊細にして詳細なト書きをどう処理するかにかかっている。無視することはできないし、かといって、まとも向かってこだわり過ぎると足元をすくわれる。演技が成立しないのだ。
TPTの舞台の影響やピーター・ブルックの本や、またロンドンでの勉強がなければ、こんなストレートな舞台を作る方向はなかったかもしれない。
しかし、できたコトとできなかったコトを含めて、よくやったと思う。とりわけ役者たちはよくやったと感慨している。
できなかったコトは、青木繁のような日本的ロマンチズムへと接続できなかったコト。詩的であることの深さへは、まったくいたることができなかった――。
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