演出ノオトより、その2

俳優に配るために書いたテキスト、その1。
三島戯曲の「観念性」について、一歩、理解が進んでいる。が、しかし、その分だけ、さらに言葉が観念になっている。
いたしかたないことである……。
言葉が観念的であるからといって、問題が具体性から離れたということではない。
ただ、俳優に届きにくくなっているというだけのことである。

俳優は、稽古の終わりには、これらの観念を理解するポジションに到達していなければならない……。


演出メモ1

「肉体的な欲求と観念的な理想は奥深いところでつながっているが、その二つが一致することは滅多にない」というのがテーマの基本線です。

「そんな一瞬間がいったいなんです」
 という老婆の台詞が出てきますが、男の欲望は「その一瞬間」に集約されるものです。つまり、「肉体的な欲求と観念的な理想」とが一致する瞬間、もっと俗っぽく言えば、「理想の女を手に入れる瞬間」で、つまりは「射精の瞬間」です。そんな瞬間さえあれば、死んでもいいと男は思っています。
 それに比べて、女の欲望は「この地上に自分のための場所をつくる」というような、なにか恒常的なものへと向かっているのではないでしょうか?

 老婆はそんな「瞬間」を点から点へとつむいで何百年も生きてきた、男の欲望を象徴する存在のような気がします。すなわち「小野小町」という、男の究極の理想です。それは現実に生きる女性の不幸を表しています。

 ですから、テーマの基本線を言い換えれば、「男と女の欲望のメカニズムはすれ違っている」というコトになります。
 その「すれ違い」を象徴するのが、「欲求不満の女たち」という役柄です。彼女たちはときに女であり、ときに犬であり、ときに男とめまぐるしくその存在モードを変身させますが、その変身を貫いている基軸は、「満たされない肉体」です。「飢えている」ということです。そうした「飢え」こそ、『LABO! 版 卒塔婆小町』に流れる恒常的な雰囲気で、それは「男と女のすれ違い」の結果であり、とても切実でありながら、たぶんに喜劇的なものとなるにちがいありません。

6/15
jin


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