演出ノオトより、その1

以下は、コンクールの第1次審査のために提出した 演出プランなるもの。
枚数に限りがあり、そのぎりぎりを使ってしたためた文章であるが、「おふざけ」は甚だしいと思う。これを本物の演出プランと思ってはいけない。
こんなものは、演出家の妄想の一部にすぎない。
たしかに、きわめて重要な「妄想」ではあるのだが……。

しかし、「演出プラン」なるものは、国会予算よりもいい加減である。
机上で知るべきことはたかが知れている。
演出家は現場でもって、空想すべし、である……。


● 演出プラン その1

 まず、「近代能楽集」と「謡曲」、二つの『卒塔婆小町』のカンケイについて考える……。

逆転する因果カンケイのドラマ
 「親の因果が子に報い〜」てな調子で、ドラマというものは、それに固有の因果カンケイを見せる。『卒塔婆小町』というドラマの因果カンケイは、ちょうど『マクベス』の魔女の「きれいはきたない、きたないはきれい」と同じで、一見フジョーリだが、フジョーリ劇ほど複合的ではない。単純な、通常の因果カンケイがバランスを失って逆転してしまうコトで、見る者をワクワクドキドキさせ、逆しまの世界へと連れ去ってしまう、といった類いのドラマだといえよう……。
 近代能楽集のクライマックスで、詩人は皺だらけの老婆を見つめ、「……小町、君は美しい。世界中でいちばん美しい……」と言ってしまう。ここで、現実(醜悪)と観念(美)とが逆転する。逆転満塁ホームランを打った観念は、しかし、現実への因果を断ち切られ、純粋性へと昇華し、ゆえに詩人は死ぬ。なぜなら、昇華された純粋な観念の連鎖は、もはや「あの世」の観念としか結びつかないからだ。
 一方、謡曲では、この観念の逆転はクライマックスではない。前半部と後半部の間で、生の世界から死の世界へと空間の位相を転換するための扇のかなめとなっている。僧侶が、卑しい乞食の老婆に弁駁され、「誠に悟れる非人なりとて、僧は頭を地につけて三度礼」する瞬間、観客の想像力の中ではたしかに、現実(醜悪)と観念(美)とが逆転するのだが、僧侶の「頭を地につけ」る身振りは、肉体という現実を抱えたまま、観念の世界へと突入してゆく契機となっている。物語はここからまだまだ進む……。
 三島の『卒塔婆小町』では、観念は純粋性を勝ちえ、それゆえ肉体の観念を離れて「あの世」の観念へと落ちてゆく、あるいは昇華してゆく。近代能楽集の「近代」はここにある。それに比べ、謡曲では、あの世の霊魂ですら肉体とともに舞台に登場してくる。ここでは「あの世」の観念はちっとも純粋じゃないし、絶対的でもない。確かに、現実と観念との因果カンケイは逆転するのだが、逆転した向こうの世界にも、まだ同様の因果カンケイが綿々と続いていくのだ。
 謡曲では観念と現実とはどこまでいっても交わらない、平行線の因果カンケイを紡いでいくのだが、近代能楽集では、観念と現実とは本質的に葛藤を引き起こす。そして、現実的な肉体は徐々に削ぎ落とされ、最期には純粋な観念のみが屹立する、とまあ、そういうドラマだと考える……。

● 演出プラン その2

 では、その方法について考える……。

能や狂言をモデルとした「様式」などを採用しつつ……。
 最終的には観念が勝利するにしても、逆転するためには、それまでは、あるいは少なくとも始まりは、肉体がリードを保っていなけりゃドラマにならない。しかし、そのために三島の書いた「新劇」的なリアリズムをそのまま採用するわけにはいかない。(あれだったらラジオドラマにした方がずっといいと思う……。)そこで原典となった、謡曲や狂言をモデルとした様式を使って、空間を異化し、肉体を際立たせることはできないか、と考える。
(以下は、現時点でのアイディアにすぎない……)
 
1 《公園のベンチの男/女、また舞踏会の男たち/女たちを軸に、能の地謡に見立てたコーラス隊を編成する》彼らは書き割りの風景ではない。シテ二人とは異相の空間を占め、観客に対してシテの見方を示唆する、舞台上の一般的な存在である。それを男たち3人だけにしぼって、女装させ、女の台詞と男の台詞を同時に語らせることで観念と肉体のゆがみを際立たせる、など。
2 《老婆は喜劇的に現実的に登場する》老婆の肉体は、登場時に最も現実的な感触を要求される。喜劇役者ほど現実的な肉体を示せる存在はないのではないか。照明は明るく、現実の俳優の肉体が、老婆という型を通してみえてくるように。そのために狂言の様式を模倣してもいい。観客に直接語りかけてもいい。
3 《詩人の肉体は複数化される》詩人という観念的な男の肉体は、女装男たちのなかに取り込まれて寸断される。あるいは、女装男たちによって、その役を剥奪される。詩人を演じる4人の女装男たちの誕生。「鹿鳴館」の俗悪な舞踏会は、そのための変成の儀式となる。もう後戻りはできない。
4 《観念の純粋性は空間の不可視性を伴う》照明はしだいに暗くなってゆく。同時に、人物たちはべケットの『わたしじゃない』のように、光る口だけの存在になってもいい。ロウソクの明かりだけでもいい。あるいは、真っ暗闇のなかでコトは終わり、最後にスピーカーから流れる声だけの「老婆」が残るのかもしれない。

 筋は始めからハッキリしてる。観客は「いつ転覆するか」と、ひっくり返る因果の泣きっ面をワクワクドキドキ待ち受けているだけだ。しかし、ひっくり返った先の世界は、誰も知らない……。

2001.5.14
jin


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