演出家のあいさつ「ドラキュラ伯爵の秋」2000年秋

見終わってから読んでほしいコト

 もうずいぶん昔のような気もしますし、つい昨日のような気もしますが、今よりも、気持ちも体も若かった頃、自分の夢に押しつぶされそうになりながら、「自分らしさ」とは何かと、真剣に考えたものでした。「オリジナリティーがなければダメだ」と悩んだものでした。そうして悩んだ末に、僕なりに得た結論は「自分は他人の寄せ集めにすぎない」というものでした。
 身体は生物学的にいえば、父と母の遺伝子の寄せ集めですし、生理学的にも、動植物たちの死骸、または鉱物など、地球の恵みから出来上がっていて、身体を構成している物質は7年ですべて入れ代わります。これと同じことが心にも当てはまるのではないか。何年も前の日記などを見たりして、昔の自分はこんなことを考えていたのかと驚くことがありますが、心もまた月日とともにずいぶん変わってきている。どんなに確信を持って考えたり、感じたりしたコトでも、それはかつて、いつかどこかで、誰かが、僕に譲ってくれた「他人の意見」なのではないのか、という思いがしたわけです。そう思って以来、僕はずいぶんと、生きるのが楽になりました。本当に新しいことなどないのだ。もちろん、過剰な自意識や自己嫌悪にさいなまれる夜はあるにしても、やがては、どんなコンプレックスも解消される、そう信じることができるようになったからです。
 これは決して達観ではなく、また諦めでもなく、カッコつけてるわけでもなくて、ホントにそんな風な気がするということです。「私とは他者である」と云ったのは、フランスの詩人、ランボーですが、この言葉の意味もそんな風に考えるとわかる気がします。精神分析学風に云えば、私の欲望とは他者の欲望だ、ということです。
 ですから、秋、というのは、さまざまな「欠乏」からくる欲望によって、心が支配されてしまう季節のことだと思います。例えば「アキ」という音を、「空き」「飽き」「明き」「開き」「赤き」と、いろいろに読み替えてみてもわかります。

秋とは実は、「欠乏」の季節なのです。この「欠乏」のことを、スピノザは「悲しみ」と云いました。この「悲しみ」から、僕たちのあらゆる醜い感情が生まれるのだと。「嫉妬」「恐怖」「劣等感」「絶望」「後悔」「焦り」「不安」「競争心」・・・・・・。
 1945年の夏に終わった戦争が、具体的にどんなものであったか、僕たちにはわかりません。けれどこの、「嫉妬」「恐怖」「劣等感」「絶望」「後悔」「焦り」といったものが否応なく、人々を戦争へと押し流していったということはわかります。そして、その戦争の終わりによって、どんな国が作られ、どんな社会の中で、僕らは生きてこなければならなかったかということもよく知っているはずです。その戦争を起こしたのと同じ「悲しみ」が、今も戦後のこの国を貫いていて、僕たちは決してそこから逃れることはできないでいる、そのこともよくわかっているはずなのです。
 そこにはだれもいないのに、そこにもしろいはながさく・・・・・・
 そこには誰もいないのに、いるはずの人を愛おしいと思えたら。「嫉妬」でもなく「焦り」でもなく、「競争心」からでも「不安」からでもなく、おのずから自然に沸き上がる「欲望」に突き動かされて、愛おしいと思えたら、その時初めて、春が来たと、心から云うことができる。たとえ人から非難されようと、意識せず、すべてを受け入れながら、自分を表現する時、人は「悲しみ」ではなく、「喜び」でもって行動しているのだと、スピノザは云ったのでした。

 本日はご来場ありがとうございました。
 この作品はコメディーです。けれど、「笑う」ということが、どんなに残酷で怖いことか、かつ、不確かなことか、そんなコトが見えてくればよいなあ〜と思っています。

JIN
2000.10.4