演出家のあいさつ「A・R―芥川龍之介素描―」2003年春

ボク、ボクとはだれなのか? 

 AKUTAGAWAのクノウは、近代的クノウそのものであった、というとき、それは取りも直さず、ボクらのクノウそのものなのだ。
 ボクらは、この100年以上の間ずっと問い続け、答えのないままクノウし続けている――ボクはどこから来て、いまどこにいて、どこへ行こうとしているのか?
 つまり、ボクとはだれなのか?
 問い続けるほどに、人生を正直に、純すいに、自由に生きることは難しく、不可能に思えてくる。
 ボクらには、ボクらの生活には、守らなければならないルールがあり、マナーや法律があり、背負わなければならない人間関係があり、家庭があり、仕事がある。ボクらが、ボクらの自由意志のままに生きるには、ボクらを取り巻く外の世界はあまりに広大で、強力で、豊かで、ミワク的すぎる――。

「悲しむためには、そして敵をひきよせるためには、意志を働かす必要はない。ほめられて得意になるためにも、非難されておこるためにも、意志を働かす必要はない。あらゆる過失は自己放キから生ずる。他の人々を殺させる人間の中に意志は存在しない。ひとかけらの意志もない。かれはにげるのである。にげながらふみつぶすのである(「アラン著作集」より)

 ボクらの心や体の中にわきでる欲望も感情も、すべて、ボクらの外の世界の似姿にすぎない。
 いったいボクは、ボクのこの人生の中で、ほんとうに何をしたいのか? 何をしなければならないのか?
 
 遠くて近いところで、いま、戦争が始まろうとしている。そこにもたくさんの、ボクが生きていて、やっぱり、どうやって生きるべきか、クノウしているはずだ。
 原理的な宗教世界にじゅんじている人びと、テロに走る人びと、独裁社会に生きる人びと、(一見)ボクらとはかけはれた世界に生きているようにみえる「ボクら」がいて、かれらは自分というものを見失っているようにみえる。だから、こわい、と思う。しかし、ボクらもまたあふれかえる商品世界と経済社会の中で自分を見失ってやしないか? それはかれらと、なんら変わりのないことなのではないか?
 だからボクらは問い続ける、ボクとはだれなのか?

Horiuchi Jin 2002.03.12