「スリ足よりも、軽やかなスローモーションよ!」


3月8日(木)

 ケイコ5日目である。富士山は5合目までは車で行けるが、芝居のケイコはすべて徒歩である。ズルは許されない。一度通った道を何度も行ったり来たり、くり返すのも茶飯事だ。

 今日は、それぞれの役の登場シーンを具体的に、また抽象度高く、追ってみた。
 役者が舞台に登場するということは、「異常な」出来事なのである。彼、あるいは彼女は、どこか知らない非日常の世界から、こちら側の「生」の世界へと出現してくるのだ。それが「能」の鉄則だ。この感性は世阿弥の頃の能からあるものだと思う。恐るべき「自然」への畏怖の念の表れだ。巫女やシャーマンと、役者とがまた未分化だった「古代」へのアプローチ、のようなものだ。それへのとっかかりのケイコだった。

 「ライフ」という稲葉さんの作品をまず取っ掛かりに始めた。
 「ライフ」の素晴らしいところは記憶と想像力とが同時に要請され、かつ、それを体の緊張度=強度でもって体現しなければならないという点にある。
 「ライフ」を逆転させて、死者から抜け出た「魂」という方へ、エチュードを転回させる。
 浮遊した魂には、時間=変化はない。しかし、軽やかな浮遊性に満ちてくる。ひとつの固まった「念」をいかに浮遊させるかという、エチュードだったと思う。
 すなわち、それが「能」での役者の登場なのだ。

 ワキとシテでは、抱えてくる強度の質が違う。また、役割も違う。役割が違うということは、外へ表現するものの分量も違う。まだなにも起こっていない空間へ入ってくるのと、すでに流れのある空間へ入ってくるのでは、観客にとって、受け入れられる準備の度合いがまったく違うからである。
 最初に出てくるワキの方が、強度が弱い、あるいは薄いということはまったくない。イメージがクリアで、かつ凝縮してシンプルでなければならないのは、むしろワキの方ではないであろうか?

 ワキを受けて、シテヅレが場を「砕く」。「砕く」というのは、序砕急の「破」の意味だ。
 「砕かれた」場(空間)に、ついにシテが新たな「序」を持ってあらわれるのである。
 これは、「能」を構造化したモデルであるが、あらためて思うのは、(おそらく)現代のあらゆる演劇=物語がコレを無視することはできないほど、本質的に基本的な話だということだ。

 その「場」になにを持ち込んでくるか?
 あるいは「あなたはどこからやって来て、どこまで来たのか?」
 「物語」とは、ただこれだけのコトなのかもしれない……。

 具体的には、柔らかいテンション、デリケートな強度……、そういうこと。
 あるいは粘土のように可塑的な信念、か?
 ああ、願わくば、軽やかなスローモーションよ!



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