勇気とは許すことではないのか その2

久しぶり。元気のようだね〜。

だけど、とんでもない事件が起こってしまったね。
いろいろな人が言っているように、この事件が21世紀の方向を決定づけてしまったんだと、僕も思う。「この事件によって、ポスト冷戦時代が終わった」と歴史の教科書にはいづれ書かれるでしょう(それが「テロ」と呼ばれるか、「**事件」と呼ばれるか、あるいはなにか別の名前で呼ばれるかは別として)。
けれども、今はそんな客観的な話どころではないね。

一週間前のあの「映像」は、ホントに地球全体を「思考停止状態」に陥れてしまった。そして、その空隙を埋めようとして、今度は誰もが(僕も)やっきなっている。その結果、一方に、恐怖や憎悪に囚われた人々がいて、一方に、考えたり、理解しようとしたりしている人もいる。多くの人はその両者にいるのかもしれない。(もし「映像」メディアがなければ、テロの怖さは半分以下で済んでいる気がする。われわれは「思考停止状態」になることなく、心に空隙を作られることもなく、少しは順を追って、思考の動きとともに事件を受け止めることができたかもしれない、と思う)

しかし、確実に僕らは、心に空隙を作られてしまった。
あるいは、同じことだけれど、日常世界に亀裂を入れられてしまった。

しかし、僕はいま、次ぎの3つの問題をわけて考えるべきだと思っています。

1)この空隙をいかに埋めるか?
2)そこから起こった憎悪の連鎖をいかに食い止めるか?
3)日本人としていかに考え、理解し、振る舞えるか?

この3つは連動しているけれど、しかし僕はさしあたり分けて考えなければならないと思っています。
受けとる情報の衝撃と、
そこから理解できることと、
考えてわかることと
をわけて扱うべきだと思います。

そして、扱う順は3)→2)→1)だと思うのです。
(だって、2)と1)はさしあたりちょっと手も足も出ないから)
まずは、「3)日本人としていかに考え、理解し、振る舞えるか?」
われわれ日本人は、ぜい弱な平和主義のなかにいます。われわれの感傷的な反発では、アメリカ人の激情をしずめることはできません。われわれもまた(西欧全体と同じように)アメリカ人と密接に連動した利害関係の中にいるからです。ローマ法王にように(あの言葉には僕も心を動かされたのですが)、その利害関係の外側にはいないからです。アメリカの自信過剰はきっと、全世界の「妄想」が築き上げたものなのです。「妄想」です。しかしその「妄想」こそが世界そのものですし、「妄想」なかではすべてが「現実」なのです。ですから、アメリカの自信過剰もまた「現実」なのです。おそらく、「テロ」を起こした組織はこの「妄想」の外にいたのでしょうし、またローマ法王もその「妄想」から逃れている場所にいるのです。しかし、われわれはこの「妄想」のただ中にいます。そのなかで、ぜい弱な平和主義を信じています。いや、望んでいます。

しかし、それでも、この「現実」と呼ばれる「妄想」のなかで、いかに、ぜい弱な平和主義を鍛え上げていけるのか?

僕はそれを考えています。
少なくともこの事件で、たくさんのことが明らかになり、整理可能になり、動きはじめました。良いか悪いか、そのことだけは事実です。

――

勇気とは、許すことではないか?

2001.10.25
JIN

(この手紙は9月18日に書かれたものです)


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