「花」と、「幽玄」と、「物マネ」と。(その2)


 ついに、節分も過ぎたし……。
 節分とはよくいったもので、この時期を境に、いろんな物事が変化し始める気がする。物事に含まれていた因果がおのずと動き出すんだなあ……。やがて梅も咲くし、雪が降っても、なんとなく、もう淋しい、そしてワクワクするような季節がやってくる……。

「鬼は外! 福はウチ!」

 ということで、考えよう……。

 さて、前回の続きで、物マネである。物マネのことは、前々回にもいくらか書いたので、反復することは避けるが、これぞ、能を、現代につなげる核心である、と思う……。というのも、物マネとは徹頭徹尾、方法の問題だから……。

〈定義集〉

「物マネ」――とは「オノレ以外ノものヲ、観察シ、反復シ、愛スルわざナリ」

 物マネとは、すべて方法の問題であり、方法の問題には、中世も現代も、古典も現代も、様式も現代も、まったくぜんぜんカンケイない(なぜならそれは、観客を楽しませる「方法」だから)。
 物マネとは、写実ということである。リアリズムである。しかし、真の写実であって、自己吐露ではけっしてない。それは、正岡子規の写実であり、ブレヒトの叙事的演劇であり、ピーター・ブルックの神秘であって、けっして、新劇のリアリズムでも、アクターズ・スタジオのメソッドでも、「静かな演劇」のカンケイ性でもない。「隠された自己の真情を発見する」というような方法とは、断じてカンケイないのである。
 その言葉のとおり、物マネとは「形態模写」と解するのが、まずよい。物まねタレント、という人々がいるが、だから、彼らをバカにはできない。彼らは、模写する対象をこよなく愛している、だからこそマネができるのだ。

 「おのれを捨てて、対象を愛せよ」

 これが物マネの極意である……。
 おのれをが出てはダメだというのではない。おのれは、決して消えない。だから、おのれにこだわるな、というのだ。
 「愛する」という行為のもっとも純粋で、完成された形は、ここに極まる。
 「愛する」ということが自己表現であるうちは、まだ幼い。もちろん、そこに「初心の花」も咲こうが、それはけっして永遠ではない。「恋」はかならず枯れる。しかし「まことの花」を生かしていく技は、物マネに尽きる。おのれにこだわらないことだ。

 「花」は演じる心であり、「物マネ」はそれを生かし育む技であるならば、「初心の花」から「まことの花」へと移る契機は、おのれを捨てるという一点にかかっている。これは、宗教者の信仰にちょっと似ている。ここでは、物マネをする(つまり愛する)対象のいかんは問わない。それがなんであれ、それに自分をゆだねるという姿勢がたいせつなのである。

(ボクは、犬の骨を、お釈迦サマの骨と信じて、後生大事に肌身離さず成仏した、インドのオバアサンの話が好きだ)。

 そこに、「観察」と「反復」というコトが、さらに実践的に演者に付帯する。
 「観察」というのは、科学的な観察でなければならない。主観はいらない。おのれはいらない。世の中を、おのれの問題を捨てて眺めてみる。たとえば、電車の向いの席に坐ったオヤジ、オバハン、女子高生、浪人生などをじっと眺めてみる。その仕草、その表情、その話し方を、批判的なモノ一切なしに、個人的な距離は一切なしに、その人生を見つめてみる。いつでもいい、どこでもいい、そこには「物マネ」の材料が無限に転がって、うごめいているのに気づくだろう。君の知らない表情がある、君のしたことのない体の動かし方がある。
 それを稽古で「反復」するのだ。くりかえし、くりかえし、自分の不器用な体に叩き込むのだ。自分の個性に悩むのはやめよう。他人の個性を我がものとしよう。結果、そこに君の個性が宿るのだから。

 世阿弥の中世と、現代の風景とでは、役者の周囲をとりまく環境も変わったかもしれない。だが、物マネの極意は同じだ。「観察し、反復し、おのれを捨てて対象を愛する」、そのようにしてしか、役者はいつの時代でも、本物のキャラクターを生み出せるものではない。本物のおのれを生かせるものではない。
 世阿弥は「物マネ」を歌と踊りと区別して、「演技」という意味で使うこともある。そして、「演技」は子供のうちは教えてはいけないと言っている。子供には「観察」する力がないからだ。他人を「愛する」力がないからだ。電車の向かいで、酔ってクダをまいているオヤジの、その背中の風景をおもんぱかる力がないからだ。おのれを捨てる力がないからだ。

 しかして、いづれの演技も、物マネでなければならない。
 それが大人の演技であるならば……。


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