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「花」と、「幽玄」と、「物マネ」と。
21世紀が始まって、1ヶ月が過ぎた。
1ヶ月という時間は速い。あっというまだ。けれども、1ヶ月には1ヶ月の内容がある。1ヶ月の間に人は、新しい人生を始めることだってできるのだから……。
さて、考えよう……。
しだいにわかってきたことだが、「幽玄」を知るには、「花」と「物マネ」を知らねばならない。さしあたり、この3つの言葉が、世阿弥のキーワードだとしよう。
ちゅうわけで、今日は……
〈定義集〉
「花」――とは「堅イ人ノ心ヲ、トロケサセタマウ、心ナリ」
と、書いたのは、決して世阿弥ではなく、ボクの言葉だが、「花」とはもちろん、flowerのことではない。強引に英語にすれば、honestyだと思う。というのも、ボクがロンドンでclownのコースを受講したとき、その、聡明きわまりなき先生は、昼休みにボクに声をかけてくれて言ったのだ。(clownというのは、まあ辞書では、道化とか、ピエロとかあるけど、実際は、どうにもclwonとしか言い様のないもので、それだけで芸であり、市民権を持っている。日本だと「落語」とか「歌舞伎」とかと同じで、clownとしか言い様がないのだ)。
「大切なのは、Jin、観客にhonestyを与ることだよ」
片手でくるくると器用に巻たばこを巻きながら、ボクの目に向かって彼はそう言った。
演者と、観客のあいだには、深い溝がある。この溝を埋めるのは容易ではない。その容易ではない芸のための「方便」が花であり、honestyなのだ。(honestyを辞書で引くと、誠実さとか正直さとかあるが、ここが言葉の難しいところで、人生は、正直だからといって、かならずしも誠実だとはかぎらない)。
つまり、俳優が、観客を前にして、誠実であること、それが「花」なのだと思う。これは簡単なようでいて、とてつもなく難しい心の有りようだ。俳優はおのれの欲望を持って舞台に立つが、その個人的な欲望のなかに観客を巻き込むのは至難のわざだ。そこで、観客へのhonetyがどうしても必要なのだ。そして、それをボクは「客に対して開け」という。
よく(舞台では)子供と動物には負ける、と言うが、それも、子供と動物には「花」があるからだ。別に映画やテレビで、子供や動物に負ける、ということはないと思うが、舞台では「花」のあるものには、てきめん負けるのだ。子供も動物も、作為がないから、きわめて誠実な存在に見えるのだ。あるいは、ときに、初舞台の新人がベテランを押し退けて観客を魅了することがある。これも同じだ。純真な心で、誠実に、まっすぐに観客の前に立つものには「花」があるのだ。
世阿弥はこれを「時分の花」とか「初心の花」といった。「まことの花」ではないと。「まことでない」というのは嘘だということではなく、そのままではいつか必ず枯れてしまう、永永遠の命を知らない「花」だ、ということだと思う。どんな天才も、いつまでも純真なままで舞台に立ってはいられない。しかし、それでもそれは同じものだ。「初心の花」が苗だとしたら、「まことの花」は実だから、別のものだが、同じものなのだ。
生まれたときにあんなに可愛かったきみには、「花」があったんだよ。
いまそれは、ハッキリと見えなくなっているかもしれない。
でも、まだある。
もしきみが女の子だったら、きみのその、隠れている「花」をふたたび取り戻してくれるのは、残念ながらパパじゃない。きみのことを好きになってくれる、どこかのまだ知らない男だ。そいつはきみの中に「花」を見つけてくれるだろう。でも、それで終わりじゃない。人生はまだまだ続く。きみの子供が今度はきみの「花」を育ててくれるかもしれない。新しい出会いもあるだろう。もしきみがしっかりと老いて、そして淋しくなかったら、最後に本当に「まことの花」を咲かせることができるのさ。
それは始めにあった「花」と、おんなじものだ。
でも、もしきみが男の子だったら……?
世阿弥が「花伝書」を、「年来稽古条々」という幼年期から老年期に至る、稽古の要点の移りゆきを記すことからはじめたのは、だから、なにも不思議はないのだ。「花」とは、そして人に対してhonestyを持つことは、俳優にとっても人生の問題だからだ。
「花のある役者」というが、世阿弥の「花」はこの「花」とは違う。この「花」も含むが、もっと広い人生の問題を指している。「花」は、どんな役にも必要だが、けっして華やかだとはかぎらない。honestyだと思うのがよい。
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