アメーバのような言語
森山開次・ソロダンス公演を見て。

 昔から思っていたことだが、ダンサーの書く文章というのは不思議なものだ。言葉づらだけを追うとなにがなにやらさっぱり分からないのだが、その人の身体を思い浮かべると、不思議に「意味でない意味」がこちらの身体に染み通ってくるのである。音楽のような文章と言おうか。
 勅使河原三郎の文章は、いたるところで思考が分断され、そこかしこに隕石のような単語の爆弾がちりばめられている現代詩のようだし、土方巽の文章は、クネクネとうねる蛇の足跡みたいにどこまでも紆余曲折ばかりで、着地点が容易につかめない。
 ラカンという精神分析学者は「無意識は言語化されている」といった。
 ダンサーの動く身体のなかにもある種の「言語」がある。しかし、それはフツー僕らが話す言語のように文字化できるものではなく、つまり「主語+述語」構造で出来上がっているようなものではなく、もっと流動的で、アメーバのように常に形を変える「言語」だ。水に落としたインクような、タバコの煙のような構造をした「言語」だ。そしてそれはとても繊細で、犯されやすいものなのである。(もちろんそれはフツーの人の無意識のなかにもあるだが、フツーはより強制力の強い「主語+述語」構造によって覆い隠されている)
 たとえば、コンピュータの言語は0101110110001というように二進法でできている。この0111000010101101110という0と1の数列が、数学も図形も写真も、それから英語も日本語も中国語も形式の上でフォローしている。情報化しているといおうか。
 しかし、身体にかかわる言語は、この011001001では表現できない。文字でももちろん、表現できない。

(1001010110では、矛盾を止揚する、より高い、あるいはより深い位相を含むことができないから。だから「きれいはきたない、きたないはきれい」というマクベスの言葉を「表示」はできても、理解=表現はできない。「きれいはきたない、きたないはきれい」という言葉は肉体をもつ人間が語ってはじめて了解できる「矛盾」言語なのである)

 そういうわけで、ダンサーの仕事は、その身振りが小説家の仕事とよく似ている。自分の「文体」をいかにして手に入れるか、という仕事なのだ。
 ラッキー池田には彼なりの「文体」があるし、姫野カオルコにも自分の「文体」がある。バレリーナには訓練によって身体に染み付いた厳粛な「フレーズ=文節」があるし、HIP-HOPダンサーにも独自の「言い回し」がある。

 今日の森山開次クンのダンスはそういった、ダンスの「言語」のことをよくわからせてくれるものだった。森山クンは情報化も文字化もされない、アメーバのような身体言語というものが自分の身体のなかに流れていて、それをどうすれば身体というメディアを通して、この世に発信できるのかという離れ業をよく心得ている、希有な才能をもったダンサーなのだ。それは痛々しいほど繊細な、およそこのままでは済まされないだうろうとこちらが心配してしまうほど、奇蹟的な身体(言語)の表現なのだった。
「痛々しい」というのは、彼がまだ若く、原石のような輝きを失っていないからなのだが、およそこのままではいられないだろうと思ってしまうのだった。
 そこから自分の「文体」を見つける作業が待っている……。

(ヒトのことは言えないけれど……)

 というのも、言語というものは(それがどんな言語であっても)いつでも他者から与えられるものだから。

*   *   *

 帰りの電車の中で、4人ほどの中年の女性たちのグループを見かけた。
 彼女らはみな言語障害をもっているのか、4人ともが手話で「話している」のだった。それは音を消したテレビをを眺めているようであった。ひとりが手で腕で激しく言語を身体化する。もう一人がうなずく。もう一人が「ああっ」といった驚きの顔をする。表情を見ていると、おおげさでぎこちない、フツ−のオバサンたちのグループなのである。それが2メートルほどしか離れていないところで、しかし音声はまったくない。
 不思議なものを見た気がした。

2001.15.12
JIN


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