主語も述語もない世界
Ensemble Contemporary α公演
《イギリスの周辺》を聞いて。
ボクらの判断とか考えとか欲望とかいうものは、かならず主語と述語でできている。判断も考えも欲望も、すべて言語的な構成をしているからだ。つまり、「この音楽は気持ちいい」とか、「あの服かっこいい」とか、「あいつはバカだ」とかいうふうに、主語+述語でできている。
さて、今日ボクは、わがLABO!の舞台にも音楽を書き下ろしてくれている現代作曲家の田村文生のコンサートに行ってきた。田村さんの作曲した曲は一曲で、あとは彼や彼のメンバーが選曲したイギリスの現代音楽の作品紹介、というプログラムであったが。
そうして今、ここで、今日のコンサートの感想を書こうとして唖然とした。
現代音楽のコンサートからは、なにも、「主語+述語」をつむげないのだ。
主語はある。あの曲、あの音、あの感じ、あの演奏家の顔、あの雰囲気……。しかし、それを限定する述語が見当たらない。そもそも、音を聞いて、楽譜を思い描けないような、そんな、ないにも等しい音楽知識しかないのだからしかたないが、しかし、すべて専門家のためにだけあるようなコンサートではないはずだ。
述語が見当たらない、ということは、それがこの世界とどうリンクしているのかわからないということと同じである。
思えば、述語というのは罪なものである。
「おまえって心狭いよな」「才能ないよ」「気持ちわりい」「わがまま」などと言われて、その指摘=限定に「私」は悩む。受け入れられない。そうかもしれないけど、そうじゃないところだってある。コンプレックス。自己嫌悪――。
また「おまえっていい奴だな」「センスいいよ」「面白い!」「かわいい!」なんて言われて、ハッピー! その指摘=限定にうかれる。満足。これこそ自分だ、思う。自己実現――。
述語はときに人をがっかりさせ、ときに喜ばせ、あっちに動かし、こっちに動かし、振りまわしては狂わせていく。占いなんてのもそんな言語の妙で、たいていの言葉に人はどこかしら自分を当てはめることができる。そんなわけでボクらは毎日、述語をめぐって他人と競争しているといっても過言じゃない。そういう時代なのである。
それでいて、結局は、真実の「私」はどれほどたくさんの述語を費やしても、満たすことはできない器なのだ。どれほど言葉を尽しても表現しきれないし、またどんな言葉も受け入れられる、そんな器なのである。
しかし、そんな述語なんかぜんぜんカンケイないよ、という世界がある。
それが現代芸術の世界だ。それはただ「そこに在るモノ」だからだ。
(たとえば「泉」と題されたデュシャンのトイレ……)
「ただそこに在るモノ」に対して、ボクらは、それがなんであるのか、よくわからない。どうしてあるのかもわからない。そこから、なにかの印象やイメージが浮かんだりするが、どうもわからない。たとえば、ある音から海が思い浮かんだとする。けれど、その音が本当に海を表現したものなのか、ハッキリとしたことは言えない。誰も教えてくれない。
そもそも「気持ちいい」とか「感動した」とかも言えない。
わかるかな? この感じ……。
たとえばピカソの絵を見る。ピカソだと思って感動する。けれど、ピカソだと知らなかったら同じように感動するだろうか?(つまり、誰かが耳の後ろで「これがピカソだよ、ゲイジュツだよ」とささやいてくれているのだ)
そうして、批評家という職業が生まれた。
しかし、今のフツーにボクらが見たり聞いたりしている映画もテレビも音楽も、今さら批評家なんていらない。アレらは「売れるか/売れないか」という瀬戸際で作っているので、ボクらでもすぐに判断できるからだ。述語化できるからだ。「面白い!」「かっこいい!」「かわいい!」「悲しい!」「バカバカしい!」
しかし、現代音楽はボクらには判断できない。面白いとも面白くないとも言えないのだ。ただ、「わからない」とだけ言えるのだ……。
(同じようにラボ!の芝居もときどき「わからない」と言われる)
誰か、こういうものを権威を持って、厳密に評価してほしいと思う。
また評価=解釈なんかしないほうがいいのだ、とも思う。
しかし、そこには必ずなにかが在るのだ。
* * *
田村さんの音楽に接する機会も度重なって、しだいに田村さん独自の「主語+述語」世界も親しいモノに感じられるようになった気がする。
あの田村さんが作ったのだ、と思うとはじめて、現代音楽にも判断のとっかかりができるのである。
というわけで、田村さん以外の作品はボクにはまだよくわからなかった……。
田村さんの曲のタイトルは「街のいろ」というのだった。
そのタイトルに触発されながら聞いたせいだろうが、これまでになく描写的な音(の集まり)だった。そこにはさまざまな位相の「街」を描く時間が在った。
全体の印象は、極端なリズムの緩急である。時にノイジーに、ときにおだやかに、二つの質感の時間がくり返される「形式」だった。田村さん自身もパンフに「この曲が音の(音色の)鋭い部分と静かな部分との交替で成り立って」いると書いているとおり、都市の昼間のざわめきと、寝静まった夜の静けさとが、交互に訪れるようであった。
しかしそれが、そのくり返しがどこかに行くというのではない。ただ、小津の映画に挿入されている風景画のように、見る人によってどうにでも映るモノトーニアスな情景なのだ。(情景?ホントに?)
田村さんは「形式」に対して懐疑的だと書いている。つまり、その「形式」というのは、目的論的な意味連関ということだと思う。物語というものに身をゆだねたくないということだと思う。音楽にはストーリーはいらないよ、と考えているのだ。ハッピーエンドも悲劇もないよ、と。
それは、おのれの心情吐露なんか絶対しないよ、というささやかな表明なのだ。
それが、彼の作曲のルール=倫理となっているのである。
曲の印象をイメージでいうと、キュビズムの、それもマイナーな作家、たとえばドローネーが描いた「街」のようだ、と言えようか。額縁を超えて、どこまでも無限に続いていきそうな気配だ。
彼の耳は、まるで無慈悲なカメラのようにただ淡々と「街」の音を聞き、楽譜にアウトプウトしているのであった。それはボクらがよく知っている、なんでもない、なんでもないからこそ、良くも悪くも判断できない=述語化できない、そこらへんの「街の音」なのであった(ただし、一部ロンドンの街の音もあった。もちろん、なんでもないロンドンである)。
「なにも考えてないよ」とうそぶく田村氏。あらゆる述語化の限定から逃れたいのだろうが、ボクもいじわるだから、あえて限定してしまおう。
「街」の音はすべて人々がつくる音であった。ただ歩き、動き、スイッチが入ってスイッチが切れる、機械の音であった。都会の音であった。そこでは自然は?風は、雨は? 嵐は? 木々のこずえを渡る大気の振動は聞かれなかった。そういう都会の「いろ」なのであった――。
2001.12.12
JIN
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