ただ物まねに任せて、その物に成り入りて、偽りなくば……。


 能には3種類ある、という話……。

 (1)一つは、600年前の、世阿弥の能なり。
 (2)一つは、現代の能なり。
 (3)一つは、ボクらが遊ぶ、能(らしきもの)なり。

 (1)は、あるといっても、もうなく、(2)とは違うものである。ここから、(3)の可能性が出てくる。ということ。
 (1)と(2)とが違うのは、前にも書いたが、今の能が、1時間30分かけてやる曲を、600年前には、30分でやっていたらしい、ということ。ほとんど同じ台本を使ってである。上演時間が3分の1ということは、これはあらゆる意味で別の演劇だと考えねばならない。演劇とは時間の芸術なのだから。
 それから、(現代の)能の命と言われる「摺り足」について、世阿弥は、その十六部集といわれる演劇論集のどこにも、くわしく触れていない。これは「摺り足」自体がなかった、とも考えられる。世阿弥は「摺り足」をしていなかった……。としたら、大変なことだ。こんなコトをまことしやかに言うと、今の能の大家や学者さんから怒られてしまうだろうが、ありうるコトだ。ただ、「摺り足」というのは、面をかぶるとそう歩かざるをえない、という実際的なところから生まれたらしい。だから、なかったとは、全面的には言い切れないのだが、しかし、それが重用視されたのは、江戸時代以降と考えてよいだろう。
 今の能楽師の人たちは、能というものが、600年前から現代にかけて、ますます完成度を高めてきたのだ、とおっしゃる。そうかもしれない。古くなればなるほど、骨董品やアンティークな物が輝きを増すように。しかし、実際は、室町時代から江戸時代までは、大きく発展したのだろうが、明治以降は、「保存」という観念の中に止まってしまっているのではないか。少なくとも、現代演劇として、ビビットに時代と対峙しているとは思えまい。

 もうひとつ、気になる問題は、世阿弥がくり返し説く「物まね」というコト。
 つまり、写実ということだ。
 「能に、写実!?」と、これは驚いていい話だと思う。今の能のどこに写実があるであろうか……。

 能に 強き幽玄 弱き 荒きを知ること 大方は見えたることなれば たやすきやうなれども 真実これを知らぬによりて 弱く 荒き為手多し まづ いっさいの物まねに いつわる所にて 荒くも弱くもなると知るべし この境 よきほどの工夫にては 紛るべし よくよく 心底をわけて案じ納むべきことなり

「能には、強い幽玄と、弱いものと荒いものとがある。この違いは、ぜんぶ正直に外に表れるから、見極めるのは簡単だが、このことをちゃんと理解していないので、弱かったり、荒かったりする役者が多い。なにより、「物まね」が嘘だと、荒くも弱くもなるのだと思ってほしい。この違いは、よほど努力しないと見えてこない。だから、しっかり目を開いて、考えて、演じなければいけない」

 この「物まね」というのは、リアリズムだと思う。自分の外にあるモノ、他人や動物や自然やを、しっかり観察して、文字どおり「まねる」ことが、幽玄の核心であると言っているのだ。これは、ほとんどブレヒトが、「観察しなさい」と言うのと同じで、「自分の内面や相手役者を観察しなさい」という新劇や、アクターズ・スタジオのメソッドのリアリズムとは、違う。単刀直入に、「物まね」をしなさいと言っているのだ。
 こういうアプローチは、現代の能楽師にはあまりないと思う。「まねる」といっても、師匠の芸をまねるくらいだ。広く、自然を観察して、「物まね」しなさい、ということはない。

 なぜなら、現代の能は、伝統芸能であって、現代演劇ではないからだ。しかし、600年前の能(猿楽)は、当時の現代演劇だったのだ。その時代の日常、とりまく空気、自然を、大衆の前でビビットに風刺する「生きた演劇」だったからだ。
 ここに、(1)の能から、(2)を飛び越えて、(3)の能が存在する、契機がある。可能性がある。
 21世紀の時代の空気を「物まね」することで、能を遊ぶ。そうして初めて、世阿弥の台本を現代演劇として、立ち上がらせることができるのではないかと思う。まあ、言うはやすく、行うは難し、だけどね。

 でもちょっと、やってみようと思っている……。


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