21世紀、それでも演劇は変わらない?

 なんの感動もなく21世紀が始まった……。
 と、いうか、「やべ、もう始まっちゃたよ」というあせりがないのは何故だろう……?
 ひさしぶりのテレビでは、山田太一さんが、過激に氾濫してゆく情報を自分の力で選択しなさい、というメッセージ。蜷川幸雄さんは、演劇は情報に還元されない直接体験なのです、という含蓄のあるお言葉……。
 そう、演劇は21世紀も残っていくであろう……。
 別の形で……? いえいえ、本質的なことは一切なにも変わらずに、である。

 かつて、僕はあらたまった顔して、如月小春にこう質問したことがある。
 「新しい演劇は可能でしょうか?」
 90年代に入ったばかりの頃だ。当時、僕は、NOISEの俳優で、彼女の存在の輝かしさに見とれていたので、なんの他意もなく、本当に知りたいと思っていることを、素直にぶつけたのだ。彼女は、僕ら若者を集めて、戯曲や演出のワークショップを開いたりしてくれた。しかし、彼女としても、この質問にすぐに答える準備はなかったらしく、それから1年以上たって、忘れたころに、「そういえば……」と言って、答えてくれたのだが、いまはなんと答えてくれたのかは、思い出せない。あるいは、その答えは僕の納得のいくものではなかったのかもしれない……。

 しかし、僕としては、自分に、こう答えるであろう。
 「新しい演劇なんてないよ」
 だって、「新しい演劇は可能でしょうか?」なんて聞くのは、
 「新しい人間は可能でしょうか?」
 って聞くのと同じだもん。
 はたして「新しい人間」は可能だろうか?

 21世紀がどんな時代になるのか、それはわからないよ。100年単位で、時間を把握するなんて、歴史学でしか意味のないこと。むなしいよ、と生身の僕はつぶやく。
 しかし、(今から思えば)20世紀のはじまりには、第1次世界大戦やソ連の革命なんかの予兆はすでにあったのだ。時代の変わり目の、大きな足音が響いていたのだ。
 おそらく21世紀にも信じられないような時代の波が、人々を襲うであろう……。そして、その予兆は今すでに目の前にあるのだ。でなきゃ、つまんないもんね、と夢想家の僕はつぶやく。

 100年前、20世紀のはじめに、チェーホフが書いた台詞――

ヴァルシーニン そうですなあ……、ひとつ、空想の羽をひろげてみましょう……。例えば、われわれが死んだあと、2、300年後の生活はどうなっているか……?

トゥーゼンバフ いいでしょう……。われわれが死んだあと、人は、軽気球で空を飛びまわるようになって、背広の型も変わり、それから、第六感というやつを開発して、応用する技術を見つけるかもしれません……。でも、生活は依然として今のままですよ。生活は、やっぱりむずかしく、謎に満ち、幸せに満ちているでしょう。1000年たったって、人間はきっと溜め息をついて、不平を言ってますよ、「ああ、生きるのは辛い!」ってね。……それだけじゃない、まったく今と同じように、死を恐れ、死にたくないと思っているでしょうねえ……。

ヴァルシーニン (ちょっと考えて)そうでしょうか……? 僕の感じでいうと……、地上のものはすべて、いつかやがて変化しなくていけないんです……、現にいま、われわれの目の前にあるものだって、変わっているじゃないですか……。それが、あと200年、300年、あるいは1000年たったら――そんな、期限なんか問題じゃないけれど、……生活だって変わりますよ。新しい幸福な生活がやってきますよ……。もちろん、われわれは、その生活に加わることはできないけれど、その、新しい生活のために、いまわれわれは生きている。働いているんです。そして苦しんでいるんです。それをつくりつつあるんです。……それこそ、われわれの生きる目的なんです。違いますか? われわれの幸福もそこにあるんじゃないでしょうか……?

 きっと、21世紀にも、世界中で、チェーホフは上演され続けていくだろう、と思う。
 そういう意味では、やはり「新しい演劇はない」のだ。
 けれど、新しい時代のための、新しい「チェーホフ」というものも発見されるだろう。
 そういう意味では、新しい演劇は「ある」のだ。

 「新しい人間」はあるのだ……。
 それは信じたい……。


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