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まず、序破急。これは、まさに世阿弥の発明なんだろうけれど、今となっては、まったく一般的な物語のかたち、だ。ゆったりと始まって、材料を必要十分出し揃えたら、パンっと弾けるように、クライマックスを迎え、さっさと終わる。こういうものは、日本的な美として典型なだけでなく、洋の東西を問わず、一般的なのである。起承転結だって、起と承をひとまとめにすれば、序となって、同じなのだから。あえて日本的といえば、「さっさと終わる」という急の部分であろうか? 西洋の物語の場合は、えてして、最後に理屈とまとめが入るものだけれど、この国の感性は、「さっさと終わる」のが美しいと感じていたのである。否、この感性は、今も生きている。 さっさと終わる、ということで言えば、だいたい日本の文芸は、はっきりものを言い切らない、という傾向がある。夢と現実の境をあいまいにする、自分と他人の意見を区別しない、音楽にしても、緩急のその境に美を感じるように、感性ができているのである。こういう感性は、いまも小劇場に息づいている、といえようか。つまり、日本の詩人の感性なのだ。唐十郎などという人は、劇作家である前に、どうしようもなく詩人なので、その、うねるような劇構造は、まったく能である。外国の戯曲でも、この感性はイェーツなどに影響を与えている。 もう少し細かいところの話では、能では、たいてい「名乗り」がある。ワキの人が、お客さんに、「私は○×という者で、いま○×な状況にいます。そして、これから○×なことが起こりますよ」と説明するのだが、これなんかは、古臭いようでいて、まだまだ有効な演劇的テクニックだと思う。別役実という人は、たまにこれを使う。キャバレー芝居とか、大衆演劇とかでは、常套手段だ。外国では、これを逆手にとって、ブレヒトなんか、異化効果としている。突然、役柄を離れて、役者が観客に直接、話し掛けるのだ。日本では、黒テントとかもよくやったと思う。まあ、目的は違うのだけれど。でも、使える。 しかし、なんと言っても、能の最大の特徴は、地謡というコーラス隊の存在だ、と思う。これは、ギリシア悲劇とはちょっと違う。ギリシア悲劇のコロスは、主人公たちと神の領域を媒介する、大衆の意思を表すような「大いさ」を持っていると思うが、能の地謡は、ただシテの心の内を代弁する存在なのだ。本人がいうとトゲが立ったり、嘘臭かったり、生々しすぎたりするものを、ただ裏の者が代弁しているようなものだ。自分の本心を、自分で語らずに、何かに預ける。それによって、スムーズに物語を進めることができるのだ。こういう没個人主義的なところはまさに日本的な哲学なのだが、これが今とても有効な気がするのは、まだ気がするという範囲にすぎない。今度、きっと確かめてみたいと思うところである。 いまの演劇の、戯曲の主流が、日常性の感性みたいなところに寄って立っているのは、じつに素直に、あたりまえだと思うし、リアルだと感じることの表れなのだと思う。しかし、物語構造そのものが、日常的である限り、その日常性のなかで感じる「伝わらなさ」はとらえ切れなくなっていると、思う。夢で見るような不条理も、白昼の幻想も、頭のなかの、人には言えない、自分勝手な思い込みも、みな精神の現実なのである。こういうものが、常識を大きく覆す力として、科学的な大発見を生みもし、また凶悪な事件をも引き起こすのだとすれば、それもリアルなのである。こういった「心の物語」は、個人の枠組みを超えているような、地謡のような、物語構造にゆだねて、はじめて、その異常さを、その異常さのままにリアルに物語れると思うのである。 そんなところが能の、現代性のさいたる点であると、思う。 「幽玄」ということは、主題のことだから、次にゆずる……。
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