勇気とは許すことではないのか その3

 「許すということは難しい。しかし、許すとなったら限度はない。ここまでは許すが、ここ先は許せないということがあれば、それははじめから許していないのだ」

 山本周五郎の時代小説に『ちくしょう谷』というのがあって、それにこの言葉が出てきます。
 高校生のときにこの小説を読んで以来、僕はずっとこの言葉に引きつけられて生きてきた気がします。

 「許すとなったら限度はない」というのはこれはもう宗教的な言葉であります。これを理解するには理屈はいりません。感性も、生活実感もいりません。そう信じるほかない言葉です。「新約聖書」にあるように、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」というのに同じでしょう。

 われわれ人間はこの世での価値意識に縛られて生きています。生きているかぎり、できるだけ得をしようと思っています。利得を得ようとしています。それも無論、生きるための知恵であります。しかし、ホントにはなにが自分にとって「得=徳」なのか、人は知りません。多くの価値はこの世から離れるとき、つまり死ぬときにすべて無になってしまうものです。どんな財産も死後の世界へは持っていけません。

 そうしたところからこの言葉は理解されるべきだと思うのです。
 ですから、「許す」という行為は、おそらく「人が死ぬことを許す」という究極の命題が含まれているのだと思います。

 全世界の人々が、マクドナルドのハンバーガーを食べ、ハリウッド映画にドキドキし、ディズニーランドのアトラクションにワクワクしているというのがたとえ事実だとしても、物質的な豊かさに抗う人間などいないというのが確かに真実だとしても、この世界にいるのは、もちろんアメリカ的な価値だけで生きている人だけではありません。
 日本もアメリカとは違うし、ヨーロッパですらアメリカとは違う。
 死後の世界のことを、ひいては神様のことをどんなふうに考えているかで、人はずいぶん違った人生を歩むことになるのだと思うのです。
 世界には、本当にさまざまな奥深い考え方があるのだと思います。

 「共約不可能性」という言葉がありますが、それはひとつのパラダイムのなかでのみ考えられうる概念です。しかし、人はひとつのパラダイムでのみ生きるものではありません。「死」はあらゆるパラダイムを超越している概念であります。
 その「死」の側から、この世の価値観を眺めるとき、不可能と思われたことがそうではなくなる。「許す」という行為に「無限」が加わるのではないでしょうか?

 難しい話をしてすみません。
 しかし、けっして難しいコトではないのです。
 あなたも僕も皆、死ぬのですから。
 許す、ということはそういうことです。

2001.11.01
JIN


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