まったくもって父親のいなくなった世界。

風琴工房『紅き深爪』を見て

 たとえば幼児虐待で、「うちの子は知恵遅れかもしれない」あるいは「優等生ではないかもしれない」と悩んで、死ぬほど悩んで、自分が死ぬかわりに子どもを殺してしまう親もいる。あるいは、隣の子どもの進学を羨んで、その子に手をかける事件もあった。
 もちろん、階級もあるし、家柄もあるし、収入の違いもあって、そういったことが、遺伝というメタファーを通して、どうにもならないこととして、子どもを殺す母親たちにおおいかぶさってくるのだ、と僕は思っている。

 近代社会には、近代社会なりの迷信や妄信というものがあって、「遺伝」というメタファーは、じつに強力な「迷信」を生み出していると思うのだ。
 自分の子どもに起こった事象が、先天的なものなのか、後天的なものなのか、判断することは、(母)親には難しい。性格、趣味、学校の成績、判断能力も、運動能力も。自分の子どもであるかぎり、それらを「自分のせいではない」と言い切れる(母)親はなかなかいない。(母)親はみな、「遺伝」という科学的な「迷信」に脅かされて、自分のせいだとおののいてしまう。
 「遺伝」という科学的な知識そのものが「迷信」なのではない。「遺伝」という事実はある。しかし、「遺伝」のメカニズムを誰しもがよく知っているわけではないのだ。
 それは、たとえば、「地球は太陽の周りを回っている」という科学的事実を、誰も経験的に、あるいは実験的に確証したことがないのに、そういうふうに言われているから「信じている」ということと同じだ。その限りでは、その知識は「迷信」と同じなのである。人の感性としては、「太陽が昇る」「沈む」ことも、ときには真実なのである。(もちろん科学的事実をいえば、「太陽は昇らない」し「沈む」こともないのだが)

 今回の風琴工房の「紅き深爪」には、その自由で、ち密な構成と演出力に、圧倒されつつも、脅かされつつも、また随所には演劇的な衝撃を感じつつも、最後に残った「不確かさ」はそんなことなのだ。
 つまり、その世界には徹底的に、父親がいないのだ。
 もちろん、それは、脚本への不満足であって、脚本家の詩森さんも意識して、そうしていることであろうとは思うのだが、しかし、彼女が意識していた以上に、僕は「そこへ踏み込んでくれたら、もっと素敵な作品になったのになあ〜」と溜め息も出るのも事実なのだ。

 父親というのは、確かに、いないのだ。
 彼女の作品の中だけでなく、現代日本にはこの20年来、父親がいないのだ。だから、「エバンゲリオン」のような名作が生まれたのであって、しかし、「いない」と声高に言うことすら、今や時代遅れの感すらあるくらいだ。至上最悪の「父親」だった、麻原ショーコーが捕まって以来は、父親という言葉すら死語になってしまった。世の中には「給料を運んでくれるオトーサン」しかいないのである。
 なぜ、こんなに父親にこだわるかというと、上述の、子どもにとっての「先天的」と「後天的」とを分かつのが父親の仕事だからなのだ。あるいは、「夫」の仕事だからなのだ。
 子どもの自由闊達さも、また歪みも「去勢」し、そこへ社会という「後天的な」遺伝子を注入するのは、まぎれもなく父親の仕事なのだ。だが、そういう仕事を、現実の男ができなくなって久しい、のだ。なぜなら、注入すべき社会というものがないからさ。ヘヘン!

 話がやや遠回しになったが、僕が、敢えて、脚本家の詩森さんに言いたいことがあるとすれば、娘を虐待する母親の背後には、夫との性的な関係があるはずなのだ。もちろん、そんなことは分かっていて、あえて今回はそれを捨象したのだとも思う。が、あるいは、もし、それを、娘の世代の夫たち=現代の腑甲斐無い男たちに見い出そうとしたのなら、もっとキチンと見い出してほしかった、ということ。
 キチンと、というのは、理念的にということ。
 現代的であること、現実的であることは重要だが、理念的であることもまた同じように重要ではないか?
 確かに、ホモの夫や、言語障害の夫、つまり父親になれない男たちというのも、まさに現実的なのだが(現実的である以上、そこには可能性があり、その可能性を探ろうとする手つきも感じられたのだが……)、あれだけでは、詩森さんの男への理念的な「像」がないのだ。
 それを敢えて描こうとしなかったのだとすると、ボクの立場から言わせてもらえば、私小説に堕ちたのであって、普遍性を選ばなかったのだということと同義なのだ。

 話に救いがない。といえば、それまでだし、ボクが言いたいのはそんなコトではないのだ。

 「理念的なものは現実的なもの。現実的なものは理念的なもの」

 と言ったのは、ヘーゲルであり、その信念からマルクスは理想社会を描いたのだが、そういった理念的なもの一切が約10数年前に崩壊して以来、作家たちもまた、自分の仕事を怠っていると思うのだ。
 今、現実にはないけれど、こうであってほしいもの。こうでなければならないもの。そういうものを描くことが作家の仕事なのではないか?

 つまり――
 現代にはどんな父親が可能か?
 われわれは現実を映すだけでなく、現実よりも先を見据えなければならないのではないか?
 と、切実に感じた一夜であった。

 その完成度、チームワークの良さ、テーマへの切実さにおいて、この「紅き深爪」という仕事には、感嘆の念を禁じ得ないけれど。
 これは、蛇足いじょうの、(男である)ボクの、一夜の切実として――。

(これはホントに蛇足だが、会社という社会を、牛耳り、弄んでいるのは、未だにオトーサン=オヤジ連中であって、真の「父親」になれない、未熟な「男の子たち」なのだ。これは、ヒステリックな家庭劇のまさに陰画だと思う。これも、切実に、そう思うのだ……)

2003.03.31
JIN


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