「中庸の美学、というべきか」
越中島朝吉商店公演『狂咲千本桜』を見て。
越中島朝吉商店という劇団は、柏木陽クンの主宰である。
その、柏木陽クンは、作・演出・出演をしていて、彼は、いわばNOISEでは僕の後輩(彼いわく「ボクはNOISEの末っ子」)で、桐朋学園の仲間を集めて公演を打っているのである。
これが、7回目で、僕は、2回目くらいのを見たとき以来である。
7回続けてきた甲斐があったというべきか、柏木クンの「やりたいこと」が強く、ハッキリと表現できるようになっていた。
持続は力、である。すばらしい。
(今回は俳優術の話を少ししたいと思う)
俳優とは、登場人物の「感情」を表現する者だ。
それ以外に表現するものはない、というくらいこれは真実であろう。(もちろん、この「感情」をつくらずに、上っ面の、口先だけの技術で演技している俳優も多い。)
しかし、ホントにこの「感情」をつくろうとする時、俳優は「体」を使う。「体」のどこかの筋肉を緊張させるのである。その緊張=テンションでもって、「感情」を生み出すのだ。(それ以外に「感情」を生み出す技術があったら、教えてほしい。)
そういうわけで、自分の「体」の筋肉を、自由に、緊張させたり、弛緩させたりすることは、舞台俳優にとって必要不可欠な技術である。
さらには、その緊張の度合いを制御するコトが、課題となる。
そして、緊張の度合いを制御するためには、正しい呼吸術が必要になるのである。
そうして、呼吸、発声から、感情、動きまで、俳優の演技の要素すべてがひとつながりになる。
柏木クンの舞台に出ている俳優たちは、そういう意味で、体で「感情」をつくろうとする、ホントの舞台俳優たちであった。その心意気は、柏木クンのドラマのもつ心意気に通じるもので、とても快いものだった。
しかし、問題はこれからである。
俳優が、さらに20年、30年続けていくためには、もっと自由に筋肉の緊張をコントロールする術を身につけなければならない。そういう点に、心を配るのも、集団の主催者の心得ではないであろうか。
この公演に出ていた俳優について言えば、まずは、もっと発声をしっかりと学ぶ必要があるだろう。それから、体を柔らかく使う技術を身につける必要があるだろう。
これは、柏木クンの描くドラマにもいえる。シーンとシーンの呼吸はちゃんと正確に描けているのだが、全体としては力の入った、リキんだ印象になってしまうのは、そういうわけだろうと思う。
力を「抜く」ことが大切だ。そして、「抜く」ということは、緊張を0にすることではない。100から0のあいだで、44とか、32とか、26とかいった中途でもって、クリアーなイメージを切り取ることができるか、ということだ。
これまで、こういうことは俳優の個々の力量に任されていたが、集団を持つ者は、外枠から、こういうことを俳優に要求すべきだろう。
そして、そのとき、柏木クンの物語も、「女性」という曖昧なものを誠実に、クリア−に描く、新しい領域に踏み込むことになるだろう。
技術とテーマ、さまざまなことは、みんなつながっているのである――。
がんばれ!
jin, 26/01/2002
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